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尖閣諸島(冊封使航路列島北部)領有問題の概略
国家による「発見」について:
沖縄県各地で11世紀末以前の中国の古銭が出土しており11世紀末以前に中国の民間交易船が琉球諸島に頻繁に来航していた考古学的証拠と考えられ尖閣諸島は民間中国船が発見した可能性が高い (別記事・[ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚島発見を示唆する ]参照)。ただし、国際法上、民間人による発見は国家による追認が無ければ国家による発見とはされず無主地先占の根拠にはならない。
尖閣諸島に関する国家による現存する最古の公的記録は中国の明王朝時代に、当時は明朝中国の保護国だった琉球王国の国王任命の使者 (冊封使) である陳侃 (ちんかん) の記録の『使琉球録』 (1534年公刊) である。それ以前の琉球王国への航行に関する記録が記載された公文書は陳侃の琉球王国への出発準備以前に火災や水害で既に消失していた。また、陳侃の前の冊封使の琉球王国への渡航は55年も前で琉球航路を知る者は死亡したか高齢で (認知症のためか) 記憶がなく、琉球王国から派遣された航海士に航路案内を頼った。日本領論者の中には琉球王国から派遣された航海士に航路案内を頼った事を以って琉球航路は琉球王国が開発し尖閣諸島も琉球人が発見したと主張する者がいる。しかし、それは明王朝初代皇帝が沖縄本島に割拠していた三人の王 (実際は王というより大酋長だった可能性もある) に朝貢を促し、琉球三王国には中国へ渡海しうる船も航海技術も無かったので多数の海船を下賜し航海技術者も派遣したのである (別記事・[ 明朝中国は琉球王国に船と航海技術者を与えた ]参照)。常識的に考えれば琉球王国への航路を開拓したのは明王朝初期の中国人航海士と推測される。ともかく、現存する世界最初の尖閣諸島に関する記述は中国の公文書に中国の公船の航海記録なので国際法上の国家としての「発見」は中国によると認定されるであろう。 (別記事・[ 現存最古の記録で琉球王国派遣船員の操船でも中国による発見 ]参照)。
尚、日本領論者の中には、石垣島や与那国島の漁民が尖閣諸島を発見したと主張する者もいる。しかし、それは誤りである。18世紀後半に与那国島を経て尖閣諸島に行ったフランス探検隊のラペルーズ船長は与那国島の島民の丸木舟の操船技術が低いと評してたほどである。また、明治時代になって沖縄本島の糸満の漁民が大挙して石垣島や与那国島に移住しており、それ以前には石垣島や与那国島に職業漁師がいなかった事を示唆しており、琉球王国では鰹節製造がされておらず干物を作る事もなかったので尖閣諸島から魚を持ち帰る技術もなく、明治時代に日本人による尖閣諸島で漁業が開始された際も古賀辰四郎氏のような沖縄県外出身の資本家が主導し、漁業技術は沖縄本島の糸満の漁民が指導し、鰹節製造技術は宮崎県出身者が指導したのである (別記事・[ 明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由 ]参照)。
絶海の無人島の実効的占有に必要な実効支配の程度:
いわゆる大航海時代初期までは国家による発見で無主地先占が成立し領土にできた。ところが、大航海時代初期に先行したスペインやポルトガルが多くの無主地を発見だけして放置していたので、出遅れた英国やフランス、そしてスペインから独立を目指していたオランダが無主地先占には発見だけで放置するのでは不十分で実効的占有 (実効支配) を必要とすると主張しだした。たしかに有人島の場合は発見だけで先占が完了すると考えるのは不適切である。なぜかというと、有人の島でも国家を形成しない原住民が居住しているだけの場合はヨーロッパ諸国は「無主地」と認定し、先占の対象としたが放置して行政を行なわないで完全な領土にできるという発想は不当なものである。そのため、スペイン船 (またはスペイン王がポルトガル王を兼ねた時期のポルトガル船を含む) が発見しただけで放置し行政を行なっていなかったパルマス島の領有問題に関する事件では、発見は未成熟な権原に過ぎないとされ、発見だけで放置していたスペインによる権利を引き継いだアメリカではなく、パルマス島近くの島の原住民の大酋長を冊封し間接・直接にパルマス島の行政を行なって実効支配してきたオランダの領有が1928年の常設仲裁裁判所の判決において認定されたのである。
パルマス島事件判決以前の1885年に尖閣諸島を調査した日本政府は清朝中国が航路の目標として利用した事は認めたものの清朝中国による領有の痕跡が島に無いとしていた。そしてその10年近く後の下関条約署名の数ヶ月前の1895年1月14日にに秘密の閣議で標杭 (国標) 建設の可否を論じ、久場島 (黄尾嶼) と魚釣島 (釣魚嶼) を沖縄県の所轄とし決定し標杭 (国標) 建設を許可した。しかし、沖縄県は標杭 (国標) を建設しなかった。つまり、下関条約締結まで、尖閣諸島の島には清朝中国だけでなく日本の領有の痕跡も存在しなかった。
問題は絶海の無人島において必要とされる実効的占有 (実効支配) の程度である。実はクリッパートン島事件仲裁裁判判決 (1931年) によって絶海の無人島の場合は領有の痕跡が無くとも洋上からの先占が認められたのである。つまり、クリッパートン島事件仲裁裁判判決は判決理由において絶海の無人島の場合は洋上からの実効支配を認めたのである (別記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める ]参照)。尚、清朝中国が尖閣諸島を航路目標として「利用」していた事は日本だけでなくフランス人宣教師によってヨーロッパ諸国にまで知られており、国際的に公知の事実であった。尚、クリッパートン島事件で勝訴したフランスのような明確な領有宣言を明朝中国が行なったか否かについては明朝中国初期の記録が消滅したため確認できないが、もし仮に明朝中国が領有宣言をしてなくとも、明朝時代の書籍『日本一鑑』には漢人と思われる者が釣魚嶼 (魚釣島) に居住し官憲の巡視があった事が記されており (別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す ])、たとえ清朝時代に無人島になっても、航路目標として利用し続けてきた事や、「発見」だけで先占が成立した時代の発見だった事も合わせて考えると中国が尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を先占し洋上から実効支配し続けた事は認定される。ただし、日本が武力を背景に琉球王国を強制併合してからは清朝中国の冊封使船や清朝中国皇帝配下の琉球国王の朝貢船の航行は途絶えた。逆に、日本の内地の実業家は強制併合した沖縄を拠点に尖閣諸島に事業進出し始めた (別記事・[ 琉球王国併合で尖閣諸島の実効支配拠点を得た日本、失った中国 ]参照)。中国が平和裏に琉球王国を保護国にした事に対し、明治日本が武力を背景に強制併合した事、そして、清朝中国が日清戦争で敗れるまで抗議していた事、さらに、クリッパートン島事件で勝訴したフランスがクリッパートン島領有宣言後39年間も巡視せずにいたにもかかわらず実効的占有が認められた事から、日清戦争終結まで清朝中国の実効的占有が認められる。
尚、清朝中国では尖閣諸島が行政区画に属さなかった (別記事・[ 冊封使航路列島は行政区画に属さない清朝中国の海外属領 ]参照)。その事を以って中国領でなかったと主張して揚げ足を取ったつもりで悦に入っている日本領論者がいるが、欧米諸国でも無人島や極めて少人数の者しか居住しない絶海の孤島では行政区画に属さない場合もある (別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ])。日本でも小笠原諸島は明治9年から13年まで内務省の管轄であり、東京府に編入されたのは明治13年である。無人島や極めて少人数の者しか居住しない絶海の孤島で地方行政を行なわない場合には行政区画に属す必要性が無いからであろう。
18世紀の地図と名称のズレ:
清朝中国皇帝・康熙帝が琉球王国の世継ぎの尚敬を冊封 (琉球国王に任命) するために派遣した冊封使の船には中国人測量士が2名乗船し1719年に中国本土から琉球王国に航行した。季節風と海流の関係から尖閣諸島を目標に航行するのは中国から琉球に向かう往路のみであるが、目標とした尖閣諸島は望見できなかった。その回の冊封副使の・徐葆光の琉球に関する著書・『中山伝信録』が漢字文化圏の日本でベストセラーになり、また、北京に滞在していたフランス人宣教師・Gaubil神父によるフランス本国のイエズス会への手紙における『中山伝信録』の要約と地図がヨーロッパで出版された。徐葆光は尖閣諸島は望見できなかったが過去の冊封使の航海記録を引用し標準的航路の針路図を添付し、中国人測量士が測定した琉球王国の首里城の緯度・経度も紹介していた。その資料を基に日本では林子平が『三国通覧図説』添付の「琉球図」で中国本土福建から琉球王国への航路と尖閣諸島を誤差が大きいものの緯度を示す緯線付きで示し、Gaubil神父は前任者のイエズス会神父らによる台湾北部の緯度・経度の測量データと合わせて中国本土福建から琉球王国への航路と尖閣諸島を緯度・経度を付した地図を作成した (別記事・[ ゴービル神父の琉球地図の主要地点の緯度・経度 ]参照)。問題はGaubil神父が作成した地図でアルファベットで表記された島の航路上の順番が一つズレてしまった事である。
しかも、Gaubil神父の地図を参考にして1787年に尖閣諸島附近を航行・測量したフランス海軍調査隊のラペルーズによって、更に一つ島の順番がずらされ、結果として欧米人が製作した尖閣諸島附近の正確な緯度・経度による地図・海図ではアルファベットによる島名が二人のフランス人によって合計二つずらされてしまった。
清朝中国は琉球への琉球王国派遣の水先案内人や航海士に航路案内を任せており、島の形状が識別可能なスケッチもなかったので、欧米人が製作した尖閣諸島附近の正確な緯度・経度による地図・海図の島を冊封使録の漢字の島名と独力では比定 (同定) をできなくなってしまっていた (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ]参照)。そのため、欧米人が製作した尖閣諸島附近の正確な緯度・経度による地図・海図を流用できなくなったのである。また、日清戦争前には清朝中国はヨーロッパから蒸気船の軍艦を購入しており、六分儀やクロノメーターも購入していたと推定されるが、尖閣諸島を実測しなかった (別記事・[ 中国は釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼近海の近代的地図作成を怠っていた ]参照)。この事が第二次世界大戦後に中国政府 (国民党政府と共産党政府) が尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を失念する大きな原因の一つになったのである。
欧米人が製作した尖閣諸島附近の正確な緯度・経度による地図・海図の島を冊封使録の漢字の島名と最初に比定 (同定) したのは明治時代の琉球県庁職員の石澤兵吾氏だった。石澤兵吾は新潟県出身の教養人で江戸時代の日本でベストセラーになった漢文書籍の徐葆光 著・『中山伝信録』を読んでおり比定 (同定) できたのである。第二次世界大戦後の中国で尖閣諸島領有問題が生じる以前に比定 (同定) できていた可能性がある中国人は史学者・向達 氏だけで彼が文化大革命で研究職から追放された事から北京政府は独力で比定 (同定) できず、台湾の楊仲揆 氏が1970年に比定 (同定) を前提にした論文発表するまで比定できなかったと思われる。台湾の楊仲揆 氏が比定 (同定) できたのも尖閣諸島領有問題が生じるキッカケになったECAFEの海底資源調査に先立って台湾の地質学者や石油探査技士が尖閣諸島が石澤兵吾氏による比定 (同定) を基に中国名で表記された日本の5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)を入手し、それをヒントにした可能性が高く (別記事・[ 台北政府がECAFE海底資源探査時に入手した地形図が中国領である事に気付かせた可能性 ]参照)、 台湾の楊仲揆 氏も独力で比定 (同定) したのか疑問である。
日本は下関条約で「無主地先占」から「割譲」に方針変更した:
日清戦争中、下関条約署名の数ヶ月前の1895年1月14日に、日本は秘密閣議で尖閣諸島への標杭 (国標) 建設の可否を審議し沖縄県の所轄として沖縄県知事に尖閣諸島への標杭 (国標) 建設を許可した。尖閣諸島を無主地として先占して日本領にしようとしたのだ。ところが、その後、日清戦争の戦局は更に日本に有利に展開し、日本は遼東半島全体と澎湖諸島を占領し、清朝中国は台湾を日本に割譲した。そのため、日本は尖閣諸島を清朝中国から割譲されたものとして扱い、沖縄県知事は尖閣諸島に標杭 (国標) 建設しなかった (別記事・[ 国標を設置しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有 ]参照)。日本政府が日清戦争終結後に尖閣諸島を「割譲」扱いした事は前述の沖縄県知事が標杭 (国標) を建設しなかった事だけでなく、日本海軍が作成した水路誌は下関条約締結前の明治27年7月刊行の『日本水路誌・第2巻』では尖閣諸島の島は英語名のカタカナ表記だったのが下関条約締結後の明治29年7月刊行の『日本水路誌・第二巻・附録』では中国名表記に変更されている (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。昭和初期に日本陸軍が作成した地図も中国名で表記するなど清朝中国からの割譲を前提にしていた事からも裏付けられる (別記事・[ 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す ]参照)。さらに、決定的なのは、第二次世界大戦終結までに日本が無主地先占した小笠原群島・大東諸島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島 (南沙諸島) については編入・所轄の記述があるにも係らず、尖閣諸島については編入・所轄の記述が存在しないのである (別記事・[ 海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。尚、日清戦争後に尖閣諸島を日本政府から借り受け事業展開した古賀辰四郎氏も日清戦争大勝によって台湾と共に尖閣諸島が割譲されたとの認識をしていた (別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼と認識 ]参照)。
尚、日本による琉球王国強制併合 (琉球処分) 後は清朝中国の冊封も清朝中国皇帝の家臣である琉球国王の朝貢も途絶えたため、中国から琉球に向かう航路で尖閣諸島を航路目標にしていた冊封船や朝貢船 (進貢船) の運行も無くなり洋上からの実効支配が途絶え、実効支配が希薄になった。しかし、日本は日清戦争後に清朝中国の実効支配の極めて弱い台湾本島の中央山岳地帯・北東岸や、清朝中国中央政府が領有放棄し実効支配してなかった紅頭嶼 (蘭嶼) も割譲対象にしたのである (別記事・[ 日本は清朝中国の実効支配不足を承知で割譲を受けた ]参照)。特に、紅頭嶼 (蘭嶼) は清朝中国中央政府が領有放棄しており実効支配は全く無かった (ただし、台湾内の恒春県と台東直隷州の二つの地方政府が中央政府の許可なく書類上コッソリ編入していたが実効支配はなかった) 。おそらく、日本政府は紅頭嶼 (蘭嶼) を清朝中国中央政府が領有放棄した知っていて日清戦争後の台湾引渡しで台湾の附属島嶼の島名目録の受け取りを拒否をしたからである (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)。よって、尖閣諸島につき、清朝中国の洋上からの実効支配が途絶え、実効支配が希薄になった事を現代日本が批判する事は許されない。
ここで、注意すべきは「割譲」とは日清戦争終結まで尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が清朝中国領だった事を日本政府が認めた事であり、第二次世界大戦敗戦でポツダム宣言受諾しカイロ宣言条項により日本は中国に下関条約で割譲を受けた台湾の附属島嶼としての返還義務を負った事になる。
(日本の方針変更の理由に関する私の推測) なぜ、日本が日清戦争中に尖閣諸島の無主地先占を極秘で画策しながら、日清戦争終結後に割譲に主張変更したのかについて、私の推測を述べる。 私の推測では清朝中国が日本に支払う巨額の戦争賠償金の金策で台湾を欧米の第三国に売却する可能性があったため、その場合に台湾を購入した第三国が首狩りの悪習のある原住民が居住する台湾本島山岳地帯・東岸の経営に苦労する間にドサクサに紛れて日本は台湾省に属さない尖閣諸島が台湾でなく無主の島だとして尖閣諸島を領有するつもりだったのであろう。尖閣諸島の釣魚嶼 (魚釣島) に欧米諸国の見張り所が造られると軍事的に面倒だったからだ。実際、フランスは台湾に極めて強く執着しており、清朝中国は台湾を担保に金策するつもりだった。フランスが清朝中国に台湾を担保に巨額の融資を行なう可能性もあったのだ。尚、清朝中国は返済できないのは明白だったので台湾を担保にして巨額の融資を受けるという事は実質的には台湾を売却するという事に他ならない。 しかし、日本が中国本土で大勝利し、逆にフランスがアフリカ東部沖の植民地のマダガスカルでの反乱で日本と争って台湾を領有する余裕が無くなり、下関で清朝中国全権代表の李鴻章が襲撃を受けた事もあってか日本は下関条約で清朝中国から台湾の割譲を受けた。そのため、尖閣諸島は台湾の附属諸島で清朝中国から割譲を受けたと主張する方が先占を主張するより、尖閣諸島の近代的測量や上陸調査を行ない近代的実効支配で先行したフランスや英国に対する主張として有利だからであろう。(『日本外交文書・第28巻第2冊』p.418参照、伊藤潔 著・『台湾』p.67-70参照) |
下関条約の文理解釈も尖閣諸島が台湾の附属島嶼として割譲された事を示す:
日清戦争の講和条約である下関条約 (正式名称は日清媾和條約) では遼東半島については地図が添付されていたが「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」については地図が添付されてなかった (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照)。そして、第二条では「奉天省」の語は使われているが「台湾」については「省」の語は使われておらず、下関条約で割譲された「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」は行政区画ではなく自然地理学的に規定されたと考えるべきである (別記事・[ 下関条約の「台湾」の割譲範囲は自然地理学的に決められた ]参照)。
自然地理学的には尖閣諸島は台湾本島と共に「台湾-宍道褶曲帯」に属し、尖閣諸島の久場島 (黄尾嶼) も大正島 (赤尾嶼) も現時点で台北政府が実効的占有する台湾北部の彭佳嶼も棉花嶼も過去5百万年以内の小規模玄武岩質火山によって形成されたもので、沖縄県下の火山島や鹿児島県の種子島以南の薩南諸島の火山島とは異なる。また、薩南諸島や琉球王国に属した島とは沖縄トラフによって隔てられている (別記事・[ 尖閣諸島は八重山諸島ではなく台湾の附属島嶼に含まれる ]参照)。そのため、旧・日本海軍水路部発行の水路誌で日清戦争後最初に尖閣諸島に言及した『日本水路誌・第2巻付録』p.40・41でも、尖閣諸島は「台湾北東ノ諸島」の一部として解説されている。
尚、人文地理学的にも、中国では元朝以前は福建省東方の島嶼で澎湖諸島より東の島嶼は「琉求」と呼ばれていたが、明朝以降は朝貢に応じた琉球三王国のあった沖縄本島を「大琉球」、朝貢に応じなかった台湾本島を「小琉球」と分類した。尖閣諸島は琉球王国の版図には含まれていないので「小琉球」の附属島嶼である (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照)。明朝時代の鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」にも釣魚嶼 (魚釣島) が小東 (小琉球) の島である事が記されている。さらに、18世紀前半に台湾で起きた大規模な反乱直後に清朝中国の中央政府幹部役人の黄叔璥が(おそらく台湾が漢族による反満州族の反乱の拠点となる事を恐れた当時の満州族出身の皇帝の康熙帝の命を受け反乱防止対策を兼ねて)台湾を調査してまとめた報告書の地誌『台海使槎録』に釣魚台 (魚釣島) が軍事的重要拠点として紹介され (別記事・[ 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島 ]参照)、以後の台湾に関する清朝中国の地誌で同様の記述が受け継がれている。よって、人文地理学的にも釣魚嶼 (魚釣島) は台湾に属する。
以上、下関条約の純粋な文理解釈で尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事が示されるが、日本は日本の下関で講和会議をし占領していない台湾及び附属島嶼の割譲を要求しており講和条約に添付する台湾の地図を用意する責任があった (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照)。さらに、清朝中国の李鴻章・全権代表が襲撃されており日本政府には外交使節の安全確保義務違反があっただけなく日本側の厳しい全権代表資格要求から李鴻章は襲撃事件で負傷後も帰国できず講和交渉継続せざるをえず細部の詰めが不十分な場合の責任は日本にあった (別記事・[ 李鴻章・全権代表襲撃事件により下関条約は中国側に解釈権 ]参照)。そのうえ、日清戦争後の台湾引渡しにおいて日本側は清朝中国の台湾附属島嶼目録の提出の申し出を拒否しており (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)、下関条約で割譲の対象となった台湾の附属島嶼の範囲が不明確になった責任は日本にあるので台湾の附属島嶼の範囲の解釈権は中国にある。
古賀辰四郎氏の占有について:
古賀辰四郎氏が日清戦争後に尖閣諸島で事業した事を以って日本の実効支配の根拠とする日本領論者がいるが、国際法上は特別な授権も特権も無い一般私人による占有は原則として国家の実効支配とは認定されないし、日本政府による追認もなかったので、古賀辰四郎氏の尖閣諸島開発事業による占有は国家としての日本の実効的占有にはならない (別記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ]参照)。古賀氏の個人的占有は国家としての実効的占有とはならないので、尖閣諸島に対する日本の実効支配はわずかである。
尚、大正時代に尖閣諸島沖で遭難した中国人漁船員が魚釣島 (釣魚嶼)の古賀事務所が救助しており国家による救助の代行とみなす余地もあったが、古賀事務所による救助の後に、日本政府は魚釣島を「和洋島」という架空名称で中国側に虚偽通知しており公然性が欠落しており、とても国家による実効支配の代行とは認定できない (別記事・[ 魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知した日本政府 ])。しかも、古賀辰四郎氏は日本が日清戦争に大勝した結果として台湾の附属島嶼として割譲されたと認識しており(別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼と認識 ]参照)、先占の代理意思もなかったのである。おまけに、古賀辰四郎氏は尖閣諸島で環境破壊しまくり (別記事・[ 日本は尖閣諸島で環境破壊をしまくっていた ]参照)、日本政府は尖閣諸島で環境保全や港湾建設や灯台建設や水道整備や避難小屋建設等の必要な行政を行なわなかった (別記事・[ 日本は尖閣諸島において必要な行政を行っていなかった ]参照)。
跡を継いだ息子の善次氏の代に撤退し、尖閣諸島は昭和初期に無人島に戻ったのである (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ]参照)。
そもそも、日清戦争の講和条約である下関条約で割譲されたなら、日清戦争以前には中国領だったわけで、いくら日本が強固な実効支配をしても無主地先占にはならないのだが、古賀氏の事業による個人的占有は国家としての日本の (プラスの) 実効的占有にならないので、国際法上は古賀氏の事業による占有は日本の無主地先占の主張の根拠として考慮されない。それどころか、古賀氏による環境破壊を取り締まらなかった日本は (マイナスの) 実効支配をした事になるのである。
サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) について:
第二次世界大戦後のサンフランシスコで行なわれた対日平和条約の講和会議 (調印式) 時点では内戦状態だった中国は北京政府も台北政府も招かれず、中国はサンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) を締結していない。北京政府は抗議し無効だと主張しているが、台北政府は日華平和条約においてサンフランシスコ講和条約の第二条と第十条につき明示的に同意しており他の部分も黙認したと考えられるが日本は1972年に日中共同声明で北京政府を唯一の合法政府であることを承認したため台北政府と結んだ日華平和条約は無効となったが、遡及的に無効となったと考えるのが妥当であるが日中共同声明以後に無効になったと考える事が絶対的に誤りとまでは言えない。しかし、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) 領有問題においては、日華平和条約が日中共同声明以後に遡及的に無効になったか否か考察する必要は無い。尚、日本はサンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) 作成に関与し締結したので、領土放棄宣言部分については対世効があるため非締約国の中国に対しても日本はサンフランシスコ講和条約の客観的解釈に拘束される (別記事・[ サンフランシスコ講和条約と尖閣諸島領有問題 ]参照)。
サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) の正文は英語、フランス語及びスペイン語であって、日本語は正文ではない。しかし、サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) 第3条 (Article 3) の英語正文には"Nansei Shoto"及び"Nanpo Shoto"という表現があり、"Nansei islands"や"Nanpo islands"ではない事に留意すれば、英語正文の"Nansei Shoto"は日本語の「南西諸島」の定義に従う事を示し、"Nanpo Shoto"は日本語の「南方諸島」の定義に従う事を示すと考えられる。
Article 3 Japan will concur in any proposal of the United States to the United Nations to place under its trusteeship system, with the United States as the sole administering authority, Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands), Nanpo Shoto south of Sofu Gan (including the Bonin Islands, Rosario Island and the Volcano Islands) and Parece Vela and Marcus Island. Pending the making of such a proposal and affirmative action thereon, the United States will have the right to exercise all and any powers of administration, legislation and jurisdiction over the territory and inhabitants of these islands, including their territorial waters. |
「南西諸島」は水路部が水路誌 (簡易水路誌を含む) で使用した単語であって自然発生的単語ではない。そのため、サンフランシスコ講和会議の直前の水路部作成の南西諸島に関する簡易水路誌である『臺灣南西諸島』(昭和22年8月刊行)または水路誌『臺灣南西諸島水路誌』(昭和16年3月刊行)の意味に従うべきである。
簡易水路誌『臺灣南西諸島』(昭和22年8月刊行)も水路誌『臺灣南西諸島水路誌』(昭和16年3月刊行)もサブタイトルは「南西諸島 大東島 尖頭諸嶼 臺灣及附近島嶼 新南群島」となっておりサブタイトルでは「南西諸島」と「尖頭諸嶼」(尖閣諸島)は別個のものとして表示されている。内容についても基本的に別個の諸島として記述されている。ただし「南西諸島」が「尖頭諸嶼」(尖閣諸島)よりはるかに広大なため目次や配列においては便宜的に「尖頭諸嶼」(尖閣諸島)を「南西諸島」に含めている。
問題は"the Ryukyu Islands"の語の歴史が浅く、最初に登場した文献は第二次世界大戦中にアメリカの「戦後対外政策諮問委員会」による沖縄研究の報告書“LIUCHIU ISLANDS(Ryukyu)"と考えられる。そして、第二次世界大戦後に"Ryukyu"という英単語は「琉球」を意味する語として定着するが、『連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号』における"the Ryukyu Islands"の意味は文脈から北端を種子島とする自然地理学的概念で (別記事・[ SCAPIN677の'Ryukyu Islands'は種子島を含む琉球海溝と沖縄トラフに挟まれた列島 ]参照)、サンフランシスコ講和条約・第三条の"the Ryukyu Islands"とは文脈から範囲が異なる。そこで、サンフランシスコ講和条約・第三条の"the Ryukyu Islands"を旧・琉球王国の版図の島と解すると、サンフランシスコ講和条約・第三条の"Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)"の部分は、"Nansei Shoto south of 29° north latitude"の部分と(including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)の部分が (限定列挙となって) 一致して整合する(別記事・[ サンフランシスコ講和条約の"Nansei Shoto"と"Ryukyu Islands" ]参照)。
尚、狭義の文理解釈では、"the Ryukyu Islands"の語の歴史が浅く語義も確定してなかったため、日本政府や日本領論者が言い逃れする余地があるので、私は別の観点から次の考察をした。
サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) 第二条に示された日本政府が放棄する地域に関する記述は大雑把で台湾の附属島嶼である緑島も含まれていないのに対し、(サンフランシスコ講和会議当時は)アメリカの信託統治領になる予定だった第三条の領域は極めて詳細に記述されている事に着目して解釈すると、第三条には尖閣諸島が含まれない事が判る (別記事・[ サンフランシスコ講和条約・第三条は詳細に規定されている ]参照)のである。
さらに決定的な事がサンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) にある。サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) 交渉過程で日本が講和条約 (対日平和条約) 作成で主導的立場にあったアメリカに対して、緯度・経度や地図によって放棄する領土を明示しないように要請した事である ( 『日本外交文書・サンフランシスコ平和条約・対米交渉』 中の第77項目・[ 英国の平和条約案に対するわが方の逐条的見解について ]・p.397 参照 )。つまり、日本は下関条約 (日清講和条約) にも台湾の地図を添付せず (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照) そして台湾の附属島嶼の目録を拒否し (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)、サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) においても緯度・経度表示拒否や地図添付拒否によって放棄する領土の範囲を不明確にした。その責めを日本は負うべきである。
尚、日本の外務省はホームページには「尖閣諸島に対する日本政府の領有権の根拠」としてサンフランシスコ平和条約と沖縄返還協定を根拠にし、沖縄返還協定の合意議事録に示された領域とそれを地図上に示した画像を示している。しかし、沖縄返還協定で返還対象となった「琉球諸島及び大東諸島」の範囲は日本国との平和条約 (サンフランシスコ講和条約) 第三条の範囲から先に返還された奄美群島や南方諸島等を除いた領域にすぎない。沖縄返還協定の解釈において、沖縄返還協定本文と合意議事録が食い違う場合は沖縄返還協定本文が優先される。すなわち、沖縄返還協定で返還されたのは、日本国との平和条約 (サンフランシスコ講和条約) 第三条の範囲から先に返還された奄美群島や南方諸島等を除いた領域にすぎないのである。また、日本はサンフランシスコ講和条約に緯度・経度表示や地図添付しないように要請しており沖縄返還協定の合意議事録に示された緯度・経度表示やそれを地図上に図示して主張する事は許されない。また、沖縄返還協定の合意議事録に示された範囲すなわち1953年12月25日付米国民政府布告第27号で示された範囲は奄美諸島返還後の琉球列島米国民政府が実効支配する管轄域を示したものに過ぎない。琉球列島米国民政府が実効支配する管轄域に尖閣諸島が含まれたのは事実であるが、米国民政府が尖閣諸島を実効支配する管轄域に組み入れたのは、旧・大日本帝国の沖縄県の行政区域に属していたため旧・琉球王国の版図に含まれると錯誤したか、無主地と考えたか、または尖閣諸島の釣魚嶼 (魚釣島) に中国人民解放軍によるレーダーサイト建設の阻止という軍事的必要性から不正占有したかであろう。ともかく、琉球列島米国民政府が琉球政府章典第一条の管轄域を設定したのはサンフランシスコ講和条約署名後であり、日本政府が緯度経度による範囲表示を拒否した事とあいまって、サンフランシスコ講和条約解釈の基準にはなりえない。
中国側 ( 北京政府と台北政府 ) の失念による国境の勘違い ( 錯誤 ) について:
第二次世界大戦後、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) 領有問題が起きるまで中国・台湾で作成された地図では、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が国境の日本側にあるように見える地図が作成され、人民日報記事には尖閣諸島が琉球諸島に属するとする記事が掲載された。その事を以って、日本政府や日本領論者は中国政府 (台北政府を含む) は尖閣諸島が日本領であると認めていたと主張する。中国側の勘違い (錯誤) による失念に対する揚げ足取りである。そのような揚げ足取りは国際法上無効である。なぜなら、仮に条約に添付した正式な地図の国境線が勘違い (錯誤) で誤って引かれていても、勘違い (錯誤) の原因が他国にある場合は錯誤無効として訂正可能なのである。ましてや、条約に添付されていない地図や自国民を対象とした新聞記事に勘違い (錯誤) がある場合は訂正可能な事は言うまでもない (別記事・[ 尖閣諸島問題での国境の勘違いは国際法上訂正可能 ]参照)。
棚上げ合意について:
日中国交正常化の過程で、尖閣諸島領有問題を棚上げしたか否かについて、日本政府は否定する。しかし、日本が受諾したポツダム宣言には「日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるので日中間のの第二次世界大戦に関する講和条約である「日中平和友好条約」で領土・国境を規定せねばならないのに何らの言及も無い。これは明白に領土問題の棚上げであり、しかも、「日中平和友好条約」には終了条項があり、実質的には停戦協定なのである (別記事・[ 日中平和友好条約は全て棚上げの長期停戦協定 ]参照)。
国際法で領土の取得時効という法理が認められるか疑問があるが、もし仮に、国際法で領土の取得時効という法理が認められると仮定しても、尖閣諸島領有問題は棚上げによって時効は停止し時効は完成しない (別記事・[ 棚上げ合意により時効は停止 ]参照)。
2018年9月5日 (2018年9月2日・当初版は こちら 。)
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