冊封使航路列島は行政区画に属さない清朝中国の海外属領
少なくとも1874年までは台湾の行政範囲の北限は鶏籠城要塞があった鶏籠港 (基隆港) の港口にある大鶏籠嶼 (和平島) までであり、大鶏籠嶼 (和平島) (注1) より北に位置する冊封使列島は台湾の行政区画に属していなかった (注2) (注3) (注4) (注5) 。尚、1874年に日本が台湾に出兵した事で清朝中国は危機感を抱き台湾の行政区画で大改革をした。その大改革で、台湾を福建省から分離して「台湾省」とし、 台湾東部を版図に組み入れた。その大改革で冊封使列島が台湾省に組み入れられたか否かについては記録は発見されていないが、立証責任を負うべき北京政府も台北政府も冊封使列島が台湾省に組み入れられたとする有効な証拠は示していない。『噶瑪蘭庁志』の無理な解釈 (注6) (注7) で、台北政府や北京政府は噶瑪庁 (現・宜蘭県) に属したと主張するつもりなのか現在は釣魚台を宜蘭県に属させている (注8) 。
私は、清朝中国で省の行政の長官である「巡撫」は省の民政だけでなく軍事も司る官職であった事から、省の行政範囲は軍管区と一致したはずと考え、また、台湾を日本に割譲する少し前の台湾省設立時には清朝中国は海軍近代化を始め蒸気式軍艦の配備を始めており、冊封使列島は台湾巡撫 (ただし初代台湾巡撫の劉銘伝は福建巡撫を兼任したため福建台湾巡撫) でなく福建水師が管理した可能性が高く、行政区画である台湾省には属さない海外属領の扱いだったと考える。
国際的にも行政区画に属さなない海外領土は存在する。たとえば、欧米では海外属領は行政区画に属さない事例がある (別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ] 参照) 。本土から遠く離れた無人島や一時的滞在の者しかいない島の場合、地方行政を行なっていないため行政区画に属さない海外領土が存在するのであろう。
日本の場合でも、小笠原諸島を日本は1876年に領有したが東京府に編入したのは1880年であり4年間は行政区画に属さなかった (注9-1) (注9-2) 。また、竹島(独島・リアンクール岩)も第二次世界大戦中の1940年に島根県隠地郡五箇村から海軍舞鶴鎭守府の所轄に移管されている (注10-1) (注10-2) 。それどころか、実は、日本政府は非公開の閣議決定によって尖閣諸島を1895年に無主地先占したと主張するが、その時点では尖閣諸島も当時の沖縄県の基礎的行政区画である「間切」 (注11) に編入されていなかったのである。尖閣諸島の「間切」編入は1902年12月 (注12) である。その理由は、日本政府が尖閣諸島を無主地先占したと主張する1895年時点では近代的実効支配はベルチャー船長の測量・探検 (注13) によって英国が圧倒的に優位だったのは明白であり、そのため、英国が尖閣諸島のような小さな無人島よりロシア対策のパートナーとして日本を重視するのが明白になった1902年1月30日の日英同盟 (注14) 成立まで尖閣諸島も当時の沖縄県の基礎的行政区画である「間切」に編入されていなかったと考えられる。
よって、日本領論者による尖閣諸島が清朝中国の行政区画に属さなかった事を以って清朝中国領でなかったとの主張は誤りなのである。下関条約 (日清講和条約) の割譲範囲は「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」であって「台湾省」ではないので、「台湾省」に属さなくとも割譲対象になりえた (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ] 参照)。そもそも、下関条約 (日清講和条約) が割譲対象の「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」(第二条) と「臺灣省」(第五条) の語を区別して使い分けていたのは当時の日本政府が台湾の地誌等の漢文文献によって台湾省に属さない台湾の附属島嶼の存在を知っていた可能性が高い。
付記:
(付記1): 『台海使槎録』(巻一)は版図に含まない島を明示している (別記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示 ] 参照) が、そのような記述は釣魚嶼については存在しないし、重要航路の目標にしている島を領有放棄するとは考えにくい (別記事・[ 中国が重要な冊封使航路の小島を放棄したとは考えにくい] 参照) 。
(付記2): 清朝時代の台湾の行政範囲の北限は鶏籠港 (基隆港) の港口にある大鶏籠嶼 (和平島) であった事から、清朝時代には鶏籠城要塞があった大鶏籠嶼 (和平島) (注1) より北は台湾ではなかったとする日本領論者は、そもそも、清朝中国の地誌の「彊域」が控えめに実際に行政が行われていた有人地域に限定して記述される事があった事を看過している。大鶏籠嶼 (和平島) より約15kmも北まで台湾本島があるからである。現在は新北市の「万里区」・「金山区」・「石門区」・「三芝区」・「淡水区」になっている台湾本島最北部の領有放棄をしていたとは考えにくいからである。
2018年9月27日 ( 2016年12月13日・当初版は こちら 。 )
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(注2) 故・奥原敏雄・国士舘大学助教授は清朝時代の文書に大鶏籠山 (注1) が台湾の行政区画の北限として記述されている事から、大鶏籠山より北にある尖閣諸島は清朝中国の領土でなかったと指摘した。
『動かぬ尖閣列島の日本領有権』 (昭和48年「日本及日本人」新春号) 参照。
http://senkakujapan.nobody.jp/page009.html (左記のurlの[尖閣諸島の領有権問題]サイトに転載記事有り) 。
『尖閣列島問題と井上清論文』 (朝日アジアレビュー・通巻一三号・一九七三年第一号) 参照。
http://senkakujapan.nobody.jp/page084.html (左記のurlの[尖閣諸島の領有権問題]サイトに転載記事有り) 。
(注3) 『諸羅県志』・ wikisorce・[ 諸羅縣志/卷01 ] 参照。
https://zh.wikisource.org/zh-hant/諸羅縣志/卷01
>北界大雞籠山
尚、「北界大雞籠山」を当時の台湾の行政範囲の北限と考えると中国では島を山と表記する場合があるので大鶏籠嶼となるが、諸羅縣志・巻一では大雞籠山を雞籠嶼・雞籠港の東の山を指していると思われる記述があるので、雞籠嶼・雞籠港の東にあった山を大鶏籠山と呼んで北限とした可能性もある。「東にあった山」と過去形で表記したのは二つ理由がある。基隆港の東に現在は大鶏籠山という名称の山は無く基隆山という山があるだけで、しかも現在の基隆山の主峰より清朝の台湾領有期には高い旧・主峰が存在したからである。その基隆山の旧・主峰は金鉱石でできていたので日本の台湾領有時期に日本企業によって削り取られ基隆山の旧・主峰は消滅したのである。現在の基隆山の東峰が旧・主峰の名残りと思われる。
中国語版wikipedia「基隆山」参照。
https://zh.wikipedia.org/wiki/基隆山
>舊時稱為「雞籠山」
中国語版wikipedia「金瓜石」参照。
https://zh.wikipedia.org/wiki/金瓜石
>原本寂靜的基隆山,因著大小金瓜露頭的發現而開始繁榮起來,也開啟了日後九份及金瓜石礦業的輝煌歲月。
wikipedia「金瓜石鉱山」参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金瓜石鉱山
>金瓜石鉱山(きんかせき こうざん)は、台湾北部の新北市瑞芳区(旧台北州基隆郡)にあった金鉱山。
>・・・・・(中略)・・・・・
>記録によれば当時の金瓜石の山の標高は海抜約660mで、現在よりも80m程高かったという。
>直径100m近い巨大な円筒型の岩山がそびえ立っていたことになる。
>・・・・・(中略)・・・・・
>1895年(明治28年)、台湾の統治者となった日本政府はただちに金鉱採掘禁止令をしき、
>翌1896年(明治29年)には新しく鉱業管理規則を発布した。
>それと同時に基隆山山頂を境として一帯が東西に分けられ、
>東の金瓜石は田中長兵衛の田中組に、西の瑞芳は藤田伝三郎の藤田組にそれぞれ採掘権が与えられた。
(注4) 『淡水庁志』(巻二)・[ 中國哲學書電子化計劃 ] 参照。
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=499629
>至大雞籠祖山沿海極北之道止
(注5) 『台灣府輿圖纂要』・[ 中國哲學書電子化計劃 ] 参照。
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=399521
>淡水廳,東至南山十里、西至大海八里、南至大甲溪一百零五里彰化界;北至大雞籠山一百九十五里,
(注6) 『噶瑪蘭庁志』の釣魚台に関する記述は噶瑪蘭庁以外に関する事項として「蘭界外」との見出し以後に記載されている事をbillypan氏がブログ記事・[ 【踢爆】釣魚台在清朝不屬於宜蘭縣! (噶瑪蘭廳) ] で指摘されている。
http://blog.xuite.net/billypan/wretch/119902998-【踢爆】釣魚台在清朝不屬於宜蘭縣!+(噶瑪蘭廳)
>蘭界外
(注7) 陳淑均 著・『噶瑪蘭庁志』(巻八)・ [ 噶瑪蘭廳志 卷八 - 中國哲學書電子化計劃 ] 参照。
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=916727
>蘭界外,
>・・・・・
>山後大洋之北,有嶼名釣魚台,可泊巨舟十餘艘。
https://ja.wikipedia.org/wiki/魚釣島
(注9-1) 下記urlの東京都・小笠原支庁ホームページ記事参照。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/07ogasawara/guidance/history.html
>明治 9年(1876年) 国際的に日本領土と認められる。
> 内務省所管と定められ、移民を送り内務省出張所が設置される。
>・・・・・(中略)・・・・・
>13年(1880年) 東京府の管轄となり、内務省出張所が廃止され、東京府小笠原出張所が設置される。
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline_development/
>明治9年(1876年) 国際的に日本領土と認められる。
> 13年(1880年) 東京府の管轄となり、東京府小笠原出張所が設置される。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/memoirs/kiyou32/32-01.pdf
>その後日本は,1941年末に太平洋戦争に突入するが,その前年の40年8月17日には,
>竹島は島根県隠地郡五箇村から,海軍舞鶴鎭守府の所轄に移管された.
(注10-2) 島根県・Web竹島問題研究所の下記url記事参照。
>また、昭和15年8月17日に竹島は島根県の所管から海軍省の用地となり、舞鶴鎮守府に引き継いだ。
>そのため、竹島での土地使用許可申請が県から海軍省となり、昭和16年2月の八幡長四郎の出願に対し、
>海軍省が昭和16年10月1日から20年3月31日までの利用を許可している。
(注11) 沖縄県では1908年(明治41年)4月1日まで基礎的行政区画は町村ではなく、「間切」という琉球王国の行政区画が継続使用されていた。
wikipedia「間切」参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/間切
wikipedia「島嶼町村制」参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/島嶼町村制
(注12) 石垣市役所公式ホームページにおける石垣市教育委員会市史編集課作成記事・『八重山近・現代史年表』 (明治12年~昭和20年8月14日まで) 参照。
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/Timeline/timeline-page/timeline-11.html
>明治35年(1902)
>・・・・・(中略)・・・・・
>12月 尖閣諸島魚釣島・久場島・南小島・北小島、大浜間切に編入、登野城村に地籍を設定
(注13) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] にベルチャー船長の測量・探検の要約と航海記『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』(1848年刊)の尖閣諸島関連部分の画像がある。
尚、『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』(1848年刊)全体は archive.org でダウンロードできるようである。
https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala
ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。
尚、本来、「Hoa-pin-san」は冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』の「針路図」では釣魚台 (魚釣島) の二つ手前の花瓶嶼を意味するはずだったのにフランス人のイエズス会士・Gaubil神父がフランスのイエズス会に送った手紙に添付した地図で一つズレ、後年、フランスの調査隊のラペルーズ船長の故意または重過失によって更に一つズレて欧米の海図に釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」と記載され、その後に、サマラン号艦長Sir Edward Belcherが冊封使船の航路でなく南からアプローチし、雇った石垣島の水先案内人達 (Pa-tchung-san pilots) が「Hoa-pin-san」という名前を知らなかった事からサマラン号艦長Sir Edward Belcherはラペルーズ船長由来の誤った名前で表記された海図によって釣魚嶼 (魚釣島)に行き、ラペルーズ船長由来の誤った名前のまま調査報告したため、欧米では釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」として定着した (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照 )。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日英同盟