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 「和平島」は誤解が生んだ別名

 

    田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ]のページによれば、日本は1870年代前半には釣魚島(日本名・魚釣島)に関する知識を琉球冊封副使・徐葆光 (注1) の『中山伝信録』と英国海軍調査船サマラン号艦長のEdward Belcher の報告 (注2) もしくはそれを基にした海図から得ていた事がわかります。そして、Edward Belcher の報告もしくはそれを基にした海図では釣魚島(日本名・魚釣島)が「Hoa-pin-san」、黄尾嶼が「Tia-usu」と中国語の発音を基にしたような表記になっていました。

  そこで、『中山伝信録』の漢字表記とEdward Belcherのアルファベット表記のズレが謎となったのです。それが、以下で述べるように、「和平山」という1880年代に日本海軍等が使った(誤解が原因と考えられる)別名の登場の原因となったのです。(ただし、「釣魚島」と併記する形式では肥料鉱物調査所所長の恒藤規隆が『南日本乃富源』において1910年に「和平山」との表記を使っていました。)

  アルファベットから予想される発音から考えると、「Hoa-pin-san」は「花瓶山」の発音を示す可能性が高く、「Tia-usu」は他の冊封使が使用した「釣魚嶼」の発音を意味する可能性が高いのです。

  ところが、上記の対応では、冊封副使・徐葆光の18世紀前半の著書の『中山伝信録』中の「針路図」では台湾北部の鶏籠(現在の基隆市)付近の島である鶏籠山 (注3) から琉球王国の姑米山(現在の久米島)への航路で目標にされた島は、「鶏籠山→花瓶嶼 (注4) →彭佳山 (注5) →釣魚台 (注6) →黄尾嶼 (注7) →赤尾嶼 (注8) →姑米山 (注9) 」となっていて島の順序が二つズレるのです。

  そこで、1880年代前半に『中山伝信録』中の「針路図」を無視し、中国語由来と思われるアルファベット表記の「Hoa-pin-san」に中国語の発音が近い「和平山」の漢字を当てて記載する書籍や地図が出現したと私は推理しています。(ちなみに、当時は漢字とアルファベットの公式対応である「ピンイン」がありませんでした。)

  その後、1885年に、無主地先占担当の沖縄県職員・石澤兵吾は琉球王国時代に釣魚島を間近で観察した大城永保の取調べ及び釣魚島への渡航・上陸調査によって「魚釣島」を英国の海図の「Hoa Pin su」、『中山伝信録』中の「釣魚台」と同定しました。(田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の記事[ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 及び [ 石澤兵吾 『魚釣島外二島巡視取調概略』 ]参照。) それによって、別名「和平島」は誤解が生んだ別名と判明したのです。

  そういう訳で、1920年に沖縄県知事が「和平島」という誤解が生んだ別名を使う事がおかしいのです。別名を使うなら『中山伝信録』の「釣魚台」という語を使うべきで、「尖閣諸島内魚釣島(中国名:釣魚台)」とすべきだったのです。

  尚、明治初頭に日本が入手した英国製の海図・地図で本来は花瓶嶼を意味するはずの「Hoa-pin-san」が釣魚嶼 (魚釣島) の位置を示していたのは、1845年にサマラン号艦長のEdward Belcherが台湾北部の鶏籠港 (現在の基隆港) 沖からアプローチせず南側の琉球の八重山諸島からアプローチし、彼が雇ったPa-tchung-san pilots ( 八重山 ( 石垣島 ) の水先案内人達 ) が「Hoa-pin-san」の事を知らなかった事によりサマラン号艦長のEdward Belcherが間違えたのが直接の原因ですが、実はEdward Belcherの持っていた海図の「Hoa-pin-san」の位置が「Hoa-pin-san(花瓶山)」と「Tiaoyu-su(釣魚嶼)」を取り違えたフランス海軍調査隊のラペルーズによる誤った情報 (注10) を基に作成されていた可能性が高かった事が間接的ではあっても実質的に最大の原因と思われます。というのは、冊封副使・徐葆光の旅行記(『中山伝信録』)を参考 (注11) にしたはずのGaubil神父 (注12) (注13) のアルファベット表記 (注14) の地図の航路では徐葆光の針路図の「花瓶嶼(Hoa-pin-su) →彭佳山(Pong-kia-chan)」の部分が逆の順序「Pong-kia-chan(彭佳山) →Hoa-pin-su (花瓶嶼)」になっていて、さらに、その後のフランス海軍調査隊のラペルーズ (注10) が故意または重過失によって釣魚島を「Hoapinsu」、黄尾嶼を「Tiaoyu-su」とした事が『中山伝信録』の針路図から二つズレた本当の原因と考えられるからです。


[ 注意 ]: 18世紀半ばに中国に布教に来ていたイエズス会のGaubil神父がフランス本国に送った地図で「Hoapinsu (花瓶嶼) 」と「Ponkiachan (彭佳山) 」の順序が逆になっていた事は、 genejr (gene) 氏が Xuite日誌 の2013年1月1日の記事 [ フランスの航海家La Perouse(ラ・ペルーズ)於1787年5月7日見到了釣魚島,但誤標為Hoapinsu(花瓶嶼),海圖上未見Senkaku(「尖閣諸島」)之名稱 ] と 2015年4月6日の記事 [ On Gaubil's 《Carte des Isles de Lieou-Kieou》map, Diaoyudao was labelled as Tiaoyusu ] で既に指摘されています。

      また、フランス海軍調査隊のラペルーズによるHoapinsuの緯度・経度の報告に誤りがある事はラペルーズの航海記の英語訳版でフランス人の編集者により既に指摘されていた事をgenejr (gene) 氏が Xuite日誌 の2013年1月1日の記事 [ フランスの航海家La Perouse(ラ・ペルーズ)於1787年5月7日見到了釣魚島,但誤標為Hoapinsu(花瓶嶼),海圖上未見Senkaku(「尖閣諸島」)之名稱 ] で示されています。


上の針路図中の「鶏籠山→花瓶嶼 →彭佳山→釣魚台」部分を拡大した画像を下に示します。

内務省地理局が発刊した『大日本府県管轄図』の「薩摩諸島並沖縄県図」には、尖閣諸島が記載されていて、魚釣島は花瓶島となっています。

 

    

   

田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 寰瀛水路誌 第一巻下 明治19年 ]参照。

 

19世紀半ば頃の英国の海図では、「釣魚台」が「花瓶嶼」を示すアルファベット表記「Hoa-pib-su」になっていたようである。そのため、琉球冊封副使・徐葆光の『中山伝信録』の針路図の島の順序と矛盾が生じていた。


目次

2017年1月9日 ( 公開初日の2016年8月23日版は こちら  )

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 魚釣島の別名の「和平島」は誤解が生んだ別名 ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


[ 掲載した地図画像の引用元 ]

 

Google map

https://maps.google.co.jp/

 

『中山傳信録』中の「針路図」 (早稲田大学蔵書版)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0123/bunko08_c0123_0001/bunko08_c0123_0001_p0020.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0123/bunko08_c0123_0001/bunko08_c0123_0001_p0021.jpg

 

『大日本府県管轄図』 ( 田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の『大日本府県管轄図』にて展示 )

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/fukenmap-1879/okinawa.jpg

 

『大日本測量全図並五港之全図』 ( 田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の『大日本測量全図並五港之全図』にて展示 )

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/measuremap-1882/ryukyu.jpg

 

「シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書」に添付された琉球諸島地図 ( Yasuko D’Hulst 著 『19世紀、琉球王国に関するフランスの海軍・宣教・外交史料』  PDFファイル)

http://eajrs.net/files-eajrs/EAJRS%202013_Yasuko%20D'Hulst.pdf ( 現在はファイル不存在 )

 

Gaubil神父がフランス本国のイエズス会に送った手書きの"Carte des Isles de Liéou-Kiéou" ( フランス国立図書館蔵・電子図書館Gallica展示 )

http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8494431q.r=gaubil.langFR


(注1) 冊封副使・徐葆光は琉球に行ったが、予定の航路より北に流されたため予定の航路なら見れるはずの「鶏籠山→花瓶嶼 →彭佳山 →釣魚台 →黄尾嶼 →赤尾嶼 →姑米島」は一つも見ていない。彼は過去の冊封使の記録から針路図を作成したと考えられる。

 

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(注2) 英国海軍調査船サマラン号艦長のEdward Belcher の報告は『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』(1848年刊) (p.315-320参照)及び、英国海軍水路誌(The China Sea directory.Vol.4)にある。

 

『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』(1848年刊)は

archive.org でダウンロードできるようである。

https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala

 

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(注3) 王朝時代の中国人や琉球人は島を「山」と表記する事があり、徐葆光の鶏籠山は現在の基隆嶼を意味した可能性が高いと考えられる。

 

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(注4)  「花瓶嶼」は北緯25°25′39.37″、東経 121°56′27.71″の岩島で台湾省基隆市が管轄する。

 

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(注5) 彭佳山」の現在の名称は「彭佳嶼」で、北緯25°37′46″、東経122°04′17″の玄武岩質の比較的平坦な火山島である。

 

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(注6) 「釣魚台」は中国名「釣魚島」・日本名「魚釣島」で、北緯25°44′33″、東経 123°28′17″の島である。琉球の進貢船(朝貢船)に乗った経験のある旧・琉球王国の役人だった大城永保は沖縄県庁に差し出した書面で「魚釣島」に「ヨコン」とフリガナを打っていたそうである。

 

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(注7) 「黄尾嶼」は北緯25°55′24″、東経123°40′51"の玄武岩質の比較的平坦な火山島で、日本名「久場島」はバが生えている事に由来する。

 

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(注8) 「赤尾嶼」は北緯25°55′21″、東経 124°33′36″の岩島で現在の日本名は「大正島」である。

 

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(注9) 「姑米島」は沖縄県の「久米島」で北緯26°20′、東経126°48′の島である。

 

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(注10) "Voyage autour du monde de Lapérouse"(p.382-383)

原著は、archive.org 

https://archive.org/details/voyagedelaprou002lap

からダウンロードできる。

https://ia800203.us.archive.org/6/items/voyagedelaprou002lap/voyagedelaprou002lap.pdf

日本語訳は『ラペルーズ世界周航記』(小林忠雄 編訳)白水社から出版されている。

それらによれば、ラペルーズ隊はHoapinsu (花瓶嶼) と比定した島について北緯25度44分・東経121度14分、Tiaoyu-su (釣魚嶼) と比定した島について北緯25度55分、東経121度27分と測定している。

緯度及びHoapinsuとTiaoyu-su間の経度差からラペルーズ隊がHoapinsuと比定した島は釣魚嶼 (魚釣島:北緯25度44分・東経123度28分) で、Tiaoyu-suと比定した島は黄尾嶼 (久場島:北緯25度55分、東経123度41分) だったと考えられる。

ところが、ラペルーズ隊はKumi島(与那国島)の緯度・経度を北緯24度33分、東経120度56分と測定しており、それより東にある東経121度14分と測定した島を、参考にしたGaubil神父の地図で与那国島より西に位置するHoapinsu (花瓶嶼) と比定した事は、ラペルーズ隊の目的・陣容・装備・経験からすれば故意または重過失による誤りと考えられる。尚、ラペルーズのKumiという表記はGaubil地図で西表島を表すKoumi (『中山伝信録』中で「姑彌」と表記) と与那国島を表すYeuna Kouni (『中山伝信録』中で「由那姑呢」と表記) のいずれかわかりにくいですが、(八重山)諸島の最西端で島の西側の潮流 (黒潮本流) が速く、島の南西部に牛の放牧が見られた旨の記載から与那国島を意味すると考えられます。

 

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(注11) Gaubilはフランス本国のイエズス会に送った琉球に関する手紙の冒頭で冊封副使・徐葆光の旅行記(『中山伝信録』)を参考にしたと述べている。

 

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(注12)  "Lettres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中の"Mémoire sur les îles que les Chinois appellent  îles de Lieou-kieou "(『シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書』) (p.520-)

下図は上記の原著の付録地図。( Yasuko D’Hulst著『19世紀、琉球王国に関するフランスの海軍・宣教・外交史料』 より引用した。)

尚、そこで使われている経度は「フェロ子午線」 (wikipedia「フェロ子午線」参照) が基準と考えられ、グリニッジ基準経度より約17度40分ほど数値が大きい。

上掲の活字版付録地図の元になったと思われる手書きの地図↓

 

ちなみに徐葆光の針路図をヨーロッパに紹介したGaubil神父の「Ki-long-chan」は要塞があったとしているので現在の基隆港出入り口にある和平島を意味したと考えられる。

清朝中期まで現在の基隆港出入り口付近の和平島も鶏籠山と呼ばれる事があり混乱を招いていたので清朝末期に「社寮島」と改名された。下記サイト記事参照。

http://kite.biodiv.tw/kite/bear/070125.htm

 

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(注13) 実は冊封使の記録でも『使琉球録』(夏子陽 著)もGaubil神父と同様に順序を逆にして彭佳山を先にし花瓶嶼を後にしている。

 

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(注14) 現在、中国語学習で使われるピンインと呼ばれる漢字のアルファベット対応は20世紀後半に考案されたもので、18世紀のイエズス会神父達の漢字とアルファベット対応は現在と異なっていた。

[Xuite日誌] の下記の記事参照。

http://blog.xuite.net/genejr/diaoyudao/310312148-On+Gaubil's+%E3%80%8ACarte+des+Isles+de+Lieou-Kieou%E3%80%8Bmap,+Diaoyudao+was+labelled+as+Tiaoyusu

 

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