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下記の考察では、サンフランシスコ講和条約の条文は下記urlの日本外務省ホームページの二つのPDFにおける条文のうち、正文である英文を解釈の前提とした。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-795_1.pdf

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-795_2.pdf


サンフランシスコ講和条約の"Nansei Shoto"と"Ryukyu Islands"

 

   サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) の第三条 (Article 3) の英語正文には"Nansei Shoto"という表記がある。英語正文でありながら、"Nansei Islands"ではなく"Nansei Shoto"と書かれているのは日本語の「南西諸島」の定義に従うという意味である。

   その日本語の「南西諸島」は自然発生による単語ではなく日本政府の水路部の定義した行政的呼称である。尚、日本政府の水路部は第二次世界大戦終結までは日本海軍に属していたが、サンフランシスコ講和会議当時は通産省に移管され、その後、海上保安庁に移管され「海洋情報部」に改名し現在に至っている (2018年6月1日版・wikipedia「水路部」参照) 。

   すなわち、サンフランシスコ講和条約・第3条 (Article 3) の英語正文"Nansei Shoto"の定義は日本の通産省水路部が昭和22年8月に刊行した簡易水路誌『臺灣南西諸島』もしくは旧日本海軍水路部が昭和16年3月に刊行した『臺灣南西諸島水路誌』の「南西諸島」の定義によるのである。

   上述のいずれの水路誌も、尖閣諸島を「赤尾嶼 及 尖頭諸嶼」または赤尾嶼を含めて「尖頭諸嶼」と表記しているが、「赤尾嶼 及 尖頭諸嶼」の項目の解説では「南西諸島」とは別個の諸島であるとの前提で解説している (注1-1) (注2-1) 。副タイトルでも「南西諸島 大東島 尖頭諸嶼 臺灣付近島嶼 新南群島」と「南西諸島」と「尖頭諸嶼 (尖閣諸島)」を別個の諸島として扱っている (注1-2) (注2-2)

   しかし、上述のいずれの水路誌も、タイトル中の「南西諸島」や水路誌の配列・目次では「南西諸島」の大項目に尖閣諸島を含めている。ただし、文章中において「南西諸島」の標準的定義と異なる定義で使用する場合は、「南西諸島 (大東島 及 尖頭諸嶼 ヲ加フ) 」としてカッコ書きで付加する諸島を注記している (注1-3) (注2-3)

   すなわち、上述のいずれの水路誌も、尖閣諸島を含まない「南西諸島」の定義を標準にしていると考えられる。タイトルや配列・目次で「南西諸島」に尖閣諸島が含められているのは、尖閣諸島に属する島は当時は全て無人島で合計面積も「南西諸島」の方が圧倒的に広いため、便宜的なものと考えられる。

   サンフランシスコ講和条約・第3条の英語正文には、"Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)"とある。"Nansei Shoto south of 29° north latitude"には奄美諸島が含まれるので"the Ryukyu Islands"を薩摩藩の直接統治下にあった奄美諸島を含む18世紀前半の琉球王国の名目上の版図と考えると整合する。


   尚、"the Ryukyu Islands"という英語表記における「琉球」を意味する"Ryukyu"という綴りの単語の歴史は浅く、サンフランシスコ講和会議以前におけるわずかな使用例においても『連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号』とサンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) の"the Ryukyu Islands"の意味する範囲は異なり用語の意味に重きを置く狭義の文理解釈に不適切な用語である。

   "Ryukyu Islands"という用語は、第二次世界大戦中のアメリカの国務省と「戦後対外政策諮問委員会」による沖縄研究の報告書“LIUCHIU  ISLANDS(Ryukyu)"でL音で始まる表記と併記されたのが最初だと考えられる (注3)。それまで「琉球」を意味する欧米の表記はオランダ語以外では中国音がL音で始まる事に由来し表記は「L」で始まる場合がほとんどであったが著者によって綴りが異なっていた。(オランダは江戸時代の日本と通商があり日本人が「琉球」の最初の音を「R」音で発音していたため"Riuku"としていた。尚、江戸時代にオランダ船医として日本に来たドイツ人医師については、北ドイツ出身のケンプフェル医師は著書のオランダ語書籍"DE BESCHRYVING VAN JAPAN"において"Riuku"としていた。しかし、南ドイツの標準ドイツ語地域出身のシーボルト医師はドイツ語書籍"NIPPON"において"LIUKIU"と頭文字を"L"で表記していた。) アメリカが第二次世界大戦中の「戦後対外政策諮問委員会」の報告書“LIUCHIU  ISLANDS(Ryukyu)"で「琉球」を意味する単語の頭文字を"L"と"R"を併記したのは、沖縄にルーツを持つ日系移民から沖縄の情報を得、その発音や日本語ローマ字にしたがって頭文字を「R」に変更したからだと思われる。

   頭文字が"L"で始まる著者によって綴りが異なる「琉球」に相当する英語の表記を"Ryukyu"と同一視して考察しても、含まれる島の範囲が異なり用語の意味に重きを置く狭義の文理解釈に不適切な用語である。しかし、以下においては、あえて"the Ryukyu Islands"という英語表記を考察する。

   「琉球」の英語表記の頭文字が第二次世界大戦後に沖縄を占領したアメリカによって"Ryukyu"という綴りに変更・確定された。しかし、『連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号』において"the Ryukyu Islands"は種子島を含む琉球海溝と沖縄トラフに挟まれた列島の意味で使用されていた (別記事・[ SCAPIN677の'Ryukyu Islands'は種子島を含む琉球海溝と沖縄トラフに挟まれた列島 ]参照)。尚、ブリタニカ百科事典 ( Encyclopædia Britannica ) 第11版(1910-1911)には琉球に相当する項目は無いが"Japan"項目の諸島に"Riūkiū (or Luchu) islands"とあり、長さと面積から種子島を含む琉球海溝と沖縄トラフに挟まれた列島の意味で使用されていると考えられる (The Internet Archive におけるEncyclopædia Britannica 第11版"Japan"項目記事参照)。

   19世紀の英国の水路誌の"The China Sea directory"では、琉球諸島は"Liu-Kiu Islands"と表記され、"The China pilot "では琉球諸島は"Lu-Chu (or Liu-Kiu) Islands"と表記されているが、いずれも、琉球王国本領所属の島に限定され、属領だった先島諸島は宮古島グループとされていた。尚、"The China Sea directory" 第4巻では尖閣諸島はMeiaco Sima group (宮古島グループ) に含められているが、"The China Sea directory"第3巻では尖閣諸島は台湾の附属島嶼たる台湾北東諸島に含められ、"The China pilot "では尖閣諸島は台湾の附属島嶼に含められている。

   サンフランシスコ講和条約・第3条の"the Ryukyu Islands"の意味は、19世紀半ばに沖縄本島に上陸したペリー提督の著書"Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan"における"islands of Lew Chew"と同じと考えられる。現在のアメリカ政府の"The Historian of the U.S. Department of State"もペリー提督の"Lew Chew"と"Ryukyu"を同一と認識している (注4)

   ペリー提督は著書 "Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan" で "islands of Lew Chew"の島の数について "thirty-six" としており (注5)、この36という数は18世紀初期の清朝中国の冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』で琉球王国版図の島として記載された「琉球三十六島」 (注6-1)  (注6-2) をヨーロッパに紹介したフランス人宣教師・ガウビル神父の "Lettres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères" 中の "Mémoire sur les îles que les Chinois appellent  îles de Lieou-kieou " (p.520-)の "nombre de trente-six" に由来し (注7-1)  (注7-2) 、18世紀前半の琉球王国の名目上の版図の島の数で薩摩藩直接統治下の奄美諸島を含み冊封使航路の尖閣諸島を含まない。これで上述の限定列挙との解釈と整合する。

   日本政府や日本領論者は"Nansei Shoto"や"the Ryukyu Islands"を現在の日本語の「南西諸島」や「琉球諸島」で(including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)の部分は例示したにすぎず奄美諸島が省略されている例示列挙だと主張して言い逃れする余地がある。しかし、その言い逃れの場合は"the Amami Islands"という3語を付加しするだけで正確な表現 (限定列挙) にできるのに、なぜ"the Amami Islands"という3語を省略したのかという疑問が生じる。しかも、the Ryukyu Islands に奄美諸島を含めない例示とすれば面積・人口・歴史から大東諸島より重要度の高い奄美諸島を省略した事の説明も困難である。よって例示列挙との解釈は良識に反する。

   尚、1945年までの英語文献で"The China Sea directory" 第4巻の意味のみがサンフランシスコ講和条約・第3条の英語正文の解釈で日本領論になるが、その場合、(including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)が例示列挙となり、"the Daito Islands (大東諸島)"が例示され先島諸島が省略された事につき合理的説明が困難である。もし仮にサンフランシスコ講和条約・第3条の英語正文の"Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)"が例示列挙だとしても、面積・人口・歴史からすれば先島諸島が大東諸島より優先的に例示されるべきだからである。

   よって、"Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)"には尖閣諸島は含まれないと解釈する事が妥当である。しかし、狭義の文理解釈では日本政府や日本領論者が上述のような言い逃れをする余地があるので、狭義の文理解釈以外の考察も必要になる。そのため、日本政府や日本領論者の屁理屈を封じる別個の考察として、私は以下の考察を提唱する。

   サンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) 第二条に示された日本政府が放棄する地域に関する記述は大雑把で台湾の附属島嶼である緑島も含まれていないのに対し、(サンフランシスコ講和会議当時は)アメリカの信託統治領になる予定だった第三条の領域は極めて詳細に記述されている事に着目して解釈すると、第三条には尖閣諸島が含まれない事が判る (別記事・[ サンフランシスコ講和条約・第三条は詳細に規定されている ]参照)。


[日本政府の言い逃れ余地について]:

   上述の二つの水路誌の配列・目次では、「第四編 南西諸島南部  大東島」の大項目に「赤尾嶼 及 尖頭諸嶼」が含められているので日本政府には言い逃れの余地がある。また、日本政府は"Nansei Shoto south of 29° north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands)"のカッコ内は例示列挙だと主張して言い逃れする余地がある。

   また、"the Ryukyu Islands"は日本語の現在の国土地理院の用法の「琉球諸島」を意味すると主張して言い逃れする余地もある。たしかに、日本語では、日清戦争後に農務省地質調査所が1898年 (明治31年) に作成した『大日本帝国全図』には奄美諸島は含まれず尖閣諸島が含まれている (注8) 。しかし、たとえ公式版といえど、日本語版はサンフランシスコ講和条約 (対日平和条約) の正文ではない。さらに、琉球処分前の明治10年に陸軍参謀局が作成した『大日本全図』の琉球諸島には奄美大島が含まれ尖閣諸島は含まれていない (注9)。また、21世紀になっても沖縄県は「琉球諸島」に大東諸島を含めており「琉球諸島」の語の意味する範囲が現在の国土地理院の用法の範囲で確定したとも言いがたい (注10) 。おそらく、沖縄では沖縄民政府内でサンフランシスコ講和会議時点でも「琉球諸島」に大東諸島を含めていた可能性がある。実際、沖縄を統治していた琉球列島米国民政府 (United States Civil Administration of the Ryukyu Islands) の名称そのものの「the Ryukyu Islands」が大東島も含む概念だからである。それゆえ、正文でない日本語でも「琉球諸島」の定義がサンフランシスコ講和会議時点で完全に確定していたわけではない。


(注1-1) 旧・日本海軍水路部作成 『臺灣南西諸島水路誌』(書誌第5號・昭和16年3月刊行) のp.134・135の「赤尾嶼 尖頭諸嶼」項目では以下のように南西諸島とは別個の諸島である事を前提として解説されている。

 

>南西諸島西端部ノ北側ニ於テ南西諸島ノ列線ト並行ニ之ト離レテ存在スル小嶼

>及其ノ集団ニシテ、赤尾嶼ハ単独ヲ以テ宮古列島ノ北方ニ、尖頭諸嶼ハ群集シ

>テ八重山列島ノ北方ニ在リ。

 

(注2-1) 簡易水路誌『南西諸島』(書誌第1005號・昭和22年刊行) のp.82 における「赤尾嶼 尖頭諸嶼」項目では以下のように南西諸島とは別個の諸島である事を前提として解説されている。

 

 

(注1-2) 『臺灣南西諸島水路誌』(書誌第5號・昭和16年3月刊行)の表紙及び扉の副タイトル参照。

 

(注2-2) 簡易水路誌『南西諸島』(書誌第1005號・昭和22年刊行)の扉参照。

 

(注1-3) 『臺灣南西諸島水路誌』(書誌第5號・昭和16年3月刊行)の南西諸島総論参照。

 

(注2-3) 簡易水路誌『南西諸島』(書誌第1005號・昭和22年刊行)の南西諸島総論参照。

 

(注3) 水谷知生(2009) 『南西諸島の地域名称の歴史的および政治的背景』(地理学評論 82巻4号 p.300-322) PDF の注釈 18, 19 参照。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/82/4/82_4_300/_pdf/-char/ja

 

(注4) アメリカ政府の"The Historian of the U.S. Department of State"もペリー提督の"Lew Chew"と"Ryukyu"を同一と認識している事は "The Historian of the U.S. Department of State" ホームページの下記記事参照。

https://history.state.gov/countries/lew-chew

Lew Chew (sometimes referred to as Loochoo, more commonly known as Ryukyu)

 

(注5) マシュー・ペリー提督の著書"Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan : performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M.C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States"p.151参照。

MBLWHOI(Marine Biological Laboratory and Woods Hole Oceanographic Institution) Library の蔵書が"The Internet Archive"によって下記urlで公開されている。

https://archive.org/stream/narrativeofexped0156perr#page/n211

>The group of islands known as the Lieou Kieou, or Lew Chew, is said to be in number thirty-six,

 

(注6-1)  清朝中国の冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』(第四巻)参照。

 

早稲田大学図書館によって『中山伝信録』の日本で出版された転載・句読版の画像が下記urlで公開されている。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0123/

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0123/bunko08_c0123_0004/bunko08_c0123_0004_p0006.jpg

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尚、琉球大学附属図書館でも伊波普猷文庫の『中山伝信録』(第四巻)の画像が下記urlで公開されている。

http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00030184

 

(注6-2) 徐葆光 著 『中山伝信録』の原田禹雄氏による日本語訳が榕樹書林より『徐葆光 中山伝信録 改訳新版』として発行されている。

 

(注7-1)  "Lettres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中のGaubil神父の書簡"Mémoire sur les îles que les Chinois appellent  îles de Lieou-kieou "p.520参照。

University of Michigan 図書館の蔵書がGoogle-booksとして公開されている。

 

(注7-2) "Lettres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中のGaubil神父の書簡"Mémoire sur les îles que les Chinois appellent  îles de Lieou-kieou "の日本語訳は、矢沢利彦 編・『イエズス会士 中国書簡集 5』 ( 平凡社 ) の第七書簡 参照。

 

(注8) 田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 大日本帝国全図 ]参照。

 

(注9) 田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 陸軍参謀局・木村信卿著 大日本全図 明治10年 ]で公開されている『大日本全図』では、奄美大島と沖縄本島が「琉球中北部諸嶋」部分に表示され、宮古島・石垣島・西表島が「琉球南部諸嶋」部分に表示されているが尖閣諸島や大東諸島は表示されていない。よって、陸軍参謀局・木村信卿著 『大日本全図』 (明治10年) の琉球諸島は (実際は薩摩藩が直接統治した奄美諸島を含む) 旧・琉球王国の名目上の版図の諸島である。

 

(注10) 沖縄県土木建築部・文化環境部 作成 『沖縄県における特定建設資材の分別解体及び再資源化の実施に関する指針』

http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/recycle/pdf/recyclehou/todoufuken/47okinawa.pdf

>また、琉球諸島は、沖縄諸島、先島諸島、尖閣諸島及び大東諸島から構成され、


目次

2019年1月12日 (2018年1月14日・当初版は こちら 。2018年2月6日版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp