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 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚嶼の発見を示唆する

 

 

  沖縄県下各地の遺跡から、中国の唐代より前の貨幣である五銖銭が沖縄本島のみならず久米島でも出土 (注1) しています。この事は唐王朝成立前から中国の民間交易船が沖縄本島や久米島に来ていた証拠と考えられます。 また、7世紀前半から10世紀半ばまで流通したとされる唐銭「開元通宝」が沖縄本島のみならず石垣島等の八重山諸島から出土しました (注2) (注3)。この事は10世紀末までに中国の民間交易船が石垣島等の八重山諸島にも来ていた来ていた証拠と考えられます。

  また、釣魚嶼(魚釣島)の最高地点の標高は362mなので、波の穏やかな晴天の日中には約65kmの距離の船上から発見しえたと考えられます (注4)。 そのため、中国の民間交易船は10世紀末までに釣魚嶼を発見した可能性が非常に高いと考えられます。ただし、民間人の発見のみでは無主地先占はできません。民間人が発見した場合は国家の追認があって初めて国家による無主地先占が成立するのです。 しかし、明王朝時代の公文書で現存する冊封使・陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』 (1534年公刊) に「釣魚嶼」と記載されており、少なくとも1534年以前での中国の国家による発見が確認できます。尚、陳侃 著・『使琉球録』 (1534年公刊) には、以前の記録が火災や風水害で消失したとあり (注5-1) (注5-2)、明朝中国による実際の発見の時期は明朝初代皇帝の時代だったと推測されます。

  尚、考古学的には中国の民間船との交易によって沖縄の鉄器文化が始まったと考えられています (注6)

 

   尚、「開元通宝」は10世紀後半に中国の宋王朝が成立するまで流通していましたが、遣唐使廃止後は10世紀後半に宋王朝成立後も12世紀まで日本船が中国に向かう事はほとんど無く、また、日本船の宋王朝初期の北宋への航路は朝鮮半島の高麗経由の北路だったので、10世紀末までの日本船が沖縄に寄港したのは鑑真を乗せた遣唐使の一団が帰路に立ち寄っただけであり、沖縄県各地で唐銭「開元通宝」が出土している事は10世紀末まで中国船が頻繁に琉球諸島に来航していた証拠と考えられます。

 


目次

2018年9月8日 (2016年8月29日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚嶼の発見を示唆する   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 ( vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp )


(注1) 同志社大学歴史資料館サイト記事・『朝鮮半島と琉球諸島における銭貨流通と出土銭』( 門田誠一 著 )

http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report2000/senka/senka.pdf

>近年、琉球諸島においては五銖銭の出土遺跡数や出土数が増加しており、

>また久米島では一島で複数の遺跡から相当数の五銖銭が出土していることから、

>南島出土の五銖銭に対しては、従来のように北部九州を経由してもたらされたとみるよりは、

>中国大陸ないしはその媒介者との直接の交渉によってもたらされた蓋然性が示唆されるにいたっている。

 

(注2) 石垣市のホームページの記事『八重山諸島の考古学 (連載5) 』参照。

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/400000/410000/410400/bunkazai/yaeyamakouko/yaeyamakouko005.pdf

ビロースク遺跡からは、9種類の銭貨が見つかっています。

>中国唐時代の開元通宝をはじめ、主に北宋時代の銭貨が出土しています。

 

(注3) 同志社大学歴史資料館サイト記事・『朝鮮半島と琉球諸島における銭貨流通と出土銭』( 門田誠一 著 )

http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/report/report2000/senka/senka.pdf

>同じように、琉球諸島から出土した唐の開元通宝についても、

>従前は帰国の途半ばにして倒れた遣唐使の墓に供えられたという考え方があった。

>しかしながら、琉球諸島における10世紀以前の開元通宝出土遺跡は30遺跡を越え、

>加えて、石垣島の崎枝・赤崎遺跡では、開元通宝のみの組み合わせで、上下の層位から、

>27枚と6枚、合計33枚が出土していることからみても、

>これらの開元通宝が偶発的な契機によってもたらされたとは考えにくくなっている。

 

(注4) 見通し距離は上空ほど大気の密度が低い事によって光が下方に曲がる「大気差」という現象を考慮した CASIOの「高精度計算サイト で見通し距離をで計算すると、標高362mの釣魚嶼(魚釣島)最高点の見通し距離は約72km程度で船の見張り役の目の高さを海上7mの見通し距離は約10km程度になり、合計は82kmになりますが、これは波が全く無く非常に高性能な望遠鏡が利用できる場合の見通し距離であって、実際には海には波がありますし、16世紀半ば以前には望遠鏡は存在しませんでした。そのため、10世紀末までの現実的な見通し距離を65km程度と推定しましたが、船の見張り役がマストの上から島を探せばより遠くからでも発見可能と考えられます。

 

(注5-1) 陳侃 著・『使琉球録』原本の画像は筑波大学サーバーで公開されており、当該記述部分は下記urlにある。日本語訳は次の注釈 (注5-2) 参照。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/ch/ch/15/00000001.gif

>命時禮部査封琉球國舊案因曾遭回祿之變燒毀無存其

>頒賜儀物等項請査於

>內府各監局而後明福建布政司亦有年久卷案

>爲風雨毀傷其造船並過海事宜皆訪於耆民

>之家得之至於往來之海道交祭之禮儀皆無

>從詢問特令人至前使臣家詢其所以亦各凋

>喪而不之知後海道往來皆頼夷人爲之用其

>禮儀曲折臣等臨事斟酌期於不辱而已因恐

>後之奉使者亦如今日著爲此録使之有所徴

>而無懼此紀略所以作也又嘗念

 

(注5-2) 陳侃 著・『使琉球録』の日本語訳注である『陳侃 使琉球録』・原田禹雄 訳注・榕樹書林 (1995年6月4日発行) p.123・124 参照。

 

(注6) 考古学者・小田静夫氏の [ 黒潮圏の考古学 ] 中の『琉球弧の考古学』のページ参照。

http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/index.htm

>では、この開元通宝で何を購入したのだろうか。

>当時、中・南琉球は鉄器時代に突入しており、この貨幣で島外の品物、特に「鉄器とその材料の鉄塊」を購入したと考えられ、

>またそれに伴い開元通宝を扱う商人(中国・大和)の存在も推測されている。