無料アクセス解析

(注意):この記事には 詳細版 があります。


水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 (標準版)

  

   下関条約 (日清講和条約) 第5条2項に規定された台湾省の受渡が1895年(明治28年)6月2日に行なわれた。その記録は伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻 (刀江書院・昭和三年九月二十日発行) ・第十六編・第一章に掲載されている。尚、伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻は国会図書館デジタルコレクションにより下記urlで公開されている。(尚、原本の公文書はアジア歴史資料センターでレファレンスコード「A03023062300」の資料として公開されているが読みづらい。)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190978

   その会談において、中国側の李経方・全権代表は台湾の附属島嶼の範囲が下関条約 (日清講和条約) で不明確なので、将来、中国本土・福建省沿岸の島を日本が台湾の附属島嶼として領有主張する事を危惧し台湾の附属島嶼の名称を目録に記載する事を提案したが、日本側随行員の水野遵・公使が拒否した。その台湾の附属島嶼の島名の目録拒否の理由を考察する。

   水野遵・公使の台湾の附属島嶼の島名の目録拒否の理由は、まず、目録からの脱漏や無名の島の存在によって日中いずれの領土でもなくなる事を危惧し、また中国側の李経方・全権代表の心配は杞憂であって島名の目録が不要である旨も理由としている。そこで水野遵・公使が李経方全権代表の心配が杞憂だとした理由を考察する。

   まず、拒否の理由中の「目録からの脱漏や無名の島の存在」であるが、小さな岩礁まで列挙するのは不可能なのは事実であるが当時の領海3海里内の岩礁や砂州は列挙せずとも常識から当然に「属島」扱いにされたはずである。全ての島名を列挙する必要はないのである (注1)。また、「属島」の基準を目録に列挙した島から6海里以内の列挙した島より面積の小さな島 (岩礁や砂州を含む) を「属島」と定義すれば良かったのである。6海里というのは当時の領海幅の二倍であるが外洋船のマストから余裕で望見できる範囲なので当然の「見通し距離」以内の島である。現在の知見では結果として、当時の中国の文献にあった島から6海里で十分なのであるが、6海里で足りぬというのであれば12海里内の島を「属島」とすれば良かったのであり、清朝中国が実効支配していた領土の島から12海里を超える清朝中国が存在を知らない島 (岩礁・砂州を含む) や領有放棄した島まで清朝中国領の島だったとして割譲の対象に含めるのは国際法違反である。尚、当時の日本が「台湾の附属島嶼」の範囲をあいまいにしたのは台湾本島の南東に位置する清朝中国中央政府が領有放棄した「紅頭嶼」(蘭嶼島)を割譲名目で領有しようとした事が原因と私は推測している (詳細版記事参照)。

   ともかく、日本の水野公使は実効支配の証拠の無い島 (岩礁・砂州を含む) まで清朝中国領だったとみなして割譲の対象にしようとしたのであるから「禁反言の法理」から現代の日本が尖閣諸島が当時は清朝中国が実効支配の証跡がなかった事を根拠に割譲対象でなかったとの主張は許されない。尚、清朝中国は重要航路(シーレーン)としての利用を国際的に公開しており、クリッパートン島判例から島に証跡を残さずとも実効支配があった。

   また、拒否の理由として水野公使が挙げた李経方の「福建省附近に散在する島嶼を台湾附属島嶼だと主張されないか」との危惧を「杞憂」として島名目録が不要とした理由は、さらに細分化された理由が二つ示されており、杞憂だという第一の理由は海図・地図等で台湾附近の島嶼を台湾所属島嶼と公認しているので福建省の島を台湾の島だと日本が言うはずが無いという理由であり、杞憂だという第二の理由は福建と台湾の間に澎湖列島という「横梁」があるというものであった。

   上記の杞憂だという第一の理由だが、「台湾及び附属島嶼」の地図が条約に貼付されてない (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照) にもかかわらず地図に言及するのは不当で、しかも下関条約署名以前に作成された日本の公的な台湾の地図である『台湾全島之図』 (注2-1) や『台湾島及海峡』 (注2-2) には福建沿岸の島が含まれるので水野公使の指摘は誤っている。

  

   尚、「海図・地図等」の「等」には「水路誌」が含まれると考えられるが日本海軍水路寮が明治6年(1873年)に発行した『台湾水路誌』 (注3-1) 及び日本海軍水路部が明治22年(1889年)に発行した『寰瀛水路誌・第4巻』 (注3-2) 、『支那海水路誌・第2巻(注3-3) では尖閣諸島が台湾に含まれている。

   杞憂だという第二の理由の「況や福建と臺灣との間に澎湖列島の横はりあるに於てをや」の部分は日本語としてもわかりにくい比喩であるが、福建省と台湾の間には澎湖諸島以外には島が無い海域 (台湾海峡) があって中国本土の福建省沿岸の島と台湾の附属島嶼が分別されている事を意味している。すなわち、水野遵・公使が李経方・全権代表に述べた分類基準では尖閣諸島は台湾の附属島嶼となる事がわかる。尚、この基準での「台湾全島及びその附属諸島嶼」の範囲は明朝中国の「小琉球」の範囲とも一致する (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照)。

   尚、水野公使が挙げた理由以外に、私の推測では、当時、中国側が把握していた尖閣諸島の緯度・経度の精度は18世紀半ばのGaubil神父の地図 (注4) より少し精度が高い程度であった可能性が高かったため、島の同定のために再協議または日中共同での緯度・経度計測の必要性が生じた可能性が高く日本側が面倒を嫌った可能性も否定できないが、その理由については、なぜか水野公使は挙げていない。


私の見解:

 

   清朝中国の島名の目録提供の申し出を拒否した日本側に正当な拒否理由がなく、しかも、水野公使の発言の「況や福建と臺灣との間に澎湖列島の横はりあるに於てをや」の部分から台湾海峡の東側の島を全て「台湾の附属島嶼」として割譲対象にして合意しており、更に下関条約調印書に台湾の地図が無い事 (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ] 参照) から、尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」として清朝中国から日本に割譲されたものと考えるべきである。


目次

詳細版は こちら。 (2018年10月7日に分離。)

2019年3月14日 (2017年1月18日当初版は こちら 。尚、2017年2月14日版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) たとえば、釣魚嶼 (魚釣島) 付近の「沖の南岩」や「沖の北岩」は釣魚嶼 (魚釣島) から3海里以上離れているが、3海里内の島・岩礁・砂州の属島認定の連鎖的適用を認めれば、目録に台湾の附属島嶼として釣魚嶼 (魚釣島) を列挙すれば「沖の南岩」や「沖の北岩」を列挙しなくとも釣魚嶼 (魚釣島) から3海里内に北小島があり、北小島から3海里内に沖の南岩があり、沖の南岩から3海里内に沖の北岩があるので「沖の南岩」や「沖の北岩」も台湾の附属島嶼と認定されるのである。

 

戻る

(注2-1) 『台湾全島之図』・海軍水路寮作成

下記urlで、東京国立博物館による画像公開されている。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084031

東京国立博物館の都合によりurlが変更になった場合は、東京国立博物館ホームページの「研究情報アーカイブズ」で検索されたい。

尚、田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] で公開されている『台湾全島之図』の画像が鮮明で詳細まで確認できる。田中邦貴氏による出典情報によれば国立公文書館のものだそうである。

 

戻る

(注2-2) 『台湾島及海峡』 (水路部・1894年発行) の画像は下記のurlより入手した魏德文 主講による『清末から日本統治初期の台湾関する地図』PDFに掲載されている地図を引用。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter5/pdf/n5_s3_2.pdf

 

戻る

(注3-1) 日本海軍水路寮が明治6年(1873年)に発行した『台湾水路誌』には欧米の海図または地図で釣魚嶼 (魚釣島)を意味する「Hoa Pin su」の当て字表記として「甫亜賓斯(ホアピンス)島」の記述があり、また欧米の海図または地図で黄尾嶼 (久場島) を意味する「Tia-usu」の当て字表記として「地亜鳥斯(チアウス)島」の記述があるので日本海軍は1872年には尖閣諸島を台湾附属島嶼としていた事がわかる。

田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 日本の実効支配(古賀辰四郎の実効支配) ]の[ 台湾水路誌 1873年1月 ]項目の説明および[ 台湾水路誌 明治6年 ]項目ページ参照。

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/4occupation.html

台湾水路誌 1873年1月

>海軍水路局の前進である海軍水路寮が作成した『台湾水路誌』に、尖閣諸島の記述がある。

>「台湾北翼の東北にあり。未だ詳かに知る者あらず。唯其地位を定むるのみ。

>即ち次表の如し」とし、「尖閣=北緯25度27分,東経121度58分、屈来具島(クライグ)=北緯26度29分,東経122度09分、

>亜神可留土島(アジンコールト)=北緯25度38分,東経122度08分」としている。これらは経緯度を考慮すると、

>それぞれ花瓶嶼(北緯25度29分,東経121度59分)、棉瓶嶼(北緯25度29分06秒,東経 122度06分23秒)、

>彭佳嶼(北緯25度37分22秒-25秒,東経122度04分27秒-121度05分11秒)であることが分かる。

>また、甫亜賓斯島(ホアピンス)は魚釣島、尖閣島は南小島及び北小島、地亜鳥斯島(チアウス)は黄尾嶼、

>刺例字島(ラレイジ)は赤尾嶼であることが、記述から読み取れる。

 

戻る

(注3-2) 日本海軍水路部が明治22年(1889年)に発行した『寰瀛水路誌・第4巻』では尖閣諸島が「台湾北東ノ諸島」の一部として紹介されている。

尚、『寰瀛水路誌・第4巻』は国会図書館デジタルコレクションとして公開されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084219

 

戻る

(注3-3) 支那海水路誌・第2巻』は国会図書館に蔵書があり国会図書館デジタル化資料送信サービス参加館で閲覧可能である。

書誌ID: 000009138204

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304319

 

戻る

(注4) Gaubil神父が18世紀半ばに中国から本国フランスのイエズス会に送った琉球地図を読み取ると、緯度・経度の誤差について下記の結果が得られた (別記事・[ ゴービル神父の琉球地図の主要地点の緯度・経度 ] 参照) 。

 

Tiaoyu su (釣魚嶼・魚釣島):緯度誤差14分、経度誤差18分

Hoangouey su (黄尾嶼・久場島):緯度誤差27分、経度誤差6分

Tchehoey su (赤尾嶼・大正島):緯度誤差17分、経度誤差1度3分

 

尖閣諸島は実測してなかったため、赤尾嶼 (大正島) の経度の誤差は1度3分と大きかった。釣魚嶼 (魚釣島) の緯度・経度の誤差は「見通し距離」内であったが、黄尾嶼 (久場島) 及び赤尾嶼 (大正島) の緯度・経度の誤差は「見通し距離」を超えていた。

 

戻る