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(注意):この記事には 標準版 があります。


 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 (詳細版)

  

   下関条約 (日清講和条約) 第5条2項に規定された台湾省の受渡が1895年(明治28年)6月2日に行なわれた。その記録はアジア歴史資料センターでレファレンスコード「A03023062300」の資料として公開されているが読みづらい。

   そこで、以下においては、当該資料が活字化されている伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻 (刀江書院・昭和三年九月二十日発行) ・第十六編・第一章の記事を基に考察する。尚、伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻は国会図書館デジタルコレクションにより下記urlで公開されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190978

   台湾省の受渡の全権代表は日本側が樺山資紀、中国側が李経方であり、1895年6月2日午前10時に日本船・横濱丸にて会見し、その後、同日午前11時20分に清国側使節が利用している名目上ドイツ船籍の公義号で再会見し樺山資紀が下船後、同日午後2時、随行員の水野遵・公使が公義号に派遣されて中国側の李経方全権代表と実務の会談が行われた。水野遵・公使は全権代表ではないが「公使」という外交官であり実質的に樺山資紀・全権代表の代理として中国側の李経方・全権代表と会見したものと考えられる。

   その会談において、中国側の李経方・全権代表は台湾の附属島嶼の範囲が下関条約 (日清講和条約) で不明確なので、将来、中国本土・福建省沿岸の島を日本が台湾の附属島嶼として領有主張する事を危惧し台湾の附属島嶼の名称を目録に記載する事を提案したが、日本側随行員の水野遵・公使が拒否した。その台湾の附属島嶼の島名の目録拒否の理由を考察する。

   水野遵・公使の台湾の附属島嶼の島名の目録拒否の理由は、まず、目録からの脱漏や無名の島の存在によって日中いずれの領土でもなくなる事を危惧し、また中国側の李経方・全権代表の心配は杞憂であって島名の目録が不要である旨も理由としている。そこで水野遵・公使が李経方全権代表の心配が杞憂だとした理由を考察する。

   まず、拒否の理由中の「目録からの脱漏や無名の島の存在」であるが、小さな岩礁まで列挙するのは不可能なのは事実であるが当時の領海3海里内の岩礁や砂州は列挙せずとも常識から当然に「属島」扱いにされたはずである。全ての島名を列挙する必要はないのである (注1)。また、「属島」の基準を目録に列挙した島から6海里以内の列挙した島より面積の小さな島 (岩礁や砂州を含む) を「属島」と定義すれば良かったのである。6海里というのは当時の領海幅の二倍であるが外洋船のマストから余裕で望見できる範囲なので当然の「見通し距離」以内の島である。現在の知見では結果として、当時の中国の文献にあった島から6海里で十分なのであるが、6海里で足りぬというのであれば12海里内の島を「属島」とすれば良かったのであり、清朝中国が実効支配していた領土の島から12海里を超える清朝中国が存在を知らない島 (岩礁・砂州を含む) や領有放棄した島まで清朝中国領の島だったとして割譲の対象に含めるのは国際法違反である。

   では、なぜ、そのような杜撰で国際法違背のあいまいな範囲指定を日本がしたかというと、尖閣諸島を「割譲」か「無主地先占」か権原 (領有の法的根拠) を不明にしたまま領有しようとしただけでなく、当時の日本は黄叔璥著『台海使槎録』という漢文書籍から紅頭嶼 (蘭嶼島)で金が産出する (注2-1) と誤解し領有しようとしていた可能性が高かったが、紅頭嶼 (蘭嶼島) はオランダやスペインが領有主張する可能性があるため無主地先占より中国から台湾の附属島嶼として割譲されたとした方が有利と考えたものと思われる。ところが、その黄叔璥著『台海使槎録』によれば清朝中国中央政府は紅頭嶼 (蘭嶼島)を18世紀に領有放棄し清朝中国領でなかったのだが (注2-2) 、漢文文献が読めないスペイン人やオランダ人を欺き、紅頭嶼 (蘭嶼島)を清朝中国から「割譲」と見せかけて領有しようと図った疑いがある。

尚、日清戦争終結の1895年にフィリピンを植民地支配していたスペインは清朝中国中央政府が紅頭嶼(蘭嶼島)を放棄していた事を知らずに清朝中国から日本が紅頭嶼(蘭嶼島)の割譲を受けたと思い込んだのか控えめに国境交渉してきたため (日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊参照)、日本は積極的にスペインを騙さずに済み、その後、紅頭嶼 (蘭嶼島)は日清戦争後に日本が駐在所と初等教育施設を設置して実効占有した (中国語版wikipedia「蘭嶼」・2018年9月22日版 参照)。結局、理論的に言えば、日本は紅頭嶼 (蘭嶼島)を無主地先占した事になるのだが、日本は「紅頭嶼」(蘭嶼島)を清朝中国から割譲された台湾の附属島嶼として扱った。

   ともかく、日本の水野公使は実効支配の証拠の無い島 (岩礁・砂州を含む) まで清朝中国領だったとみなして割譲の対象にしようとしたのであるから「禁反言の法理」から日本は尖閣諸島が当時は清朝中国が実効支配の証跡がなかった事を根拠に割譲対象でなかったとの主張は許されない。尚、清朝中国は重要航路(シーレーン)としての利用を国際的に公開しており、クリッパートン島判例から島に証跡を残さずとも実効支配があった。

(補足説明):私は、当時の日本政府が、「紅頭嶼」(蘭嶼島)で金が産出すると誤解し、また、当時の日本政府は清朝中国が「紅頭嶼」(蘭嶼島)を版図に入れていなかった事を知っていたと考えている。というのは、日本側は中国の台湾に関する書籍である黄叔璥著『台海使槎録』が日清戦争以前から日本に輸入されていた可能性が高く (注3) 、日本政府は『台海使槎録』で「紅頭嶼」(蘭嶼島) には金が産出し原住民が鏃や槍の穂先に金を使っていると書かれ (注2-1) 、また、「不入版図」 とされていたため (注2-2) 、日本は「紅頭嶼」(蘭嶼島) が島名目録から除外される事を危惧したものと私は推測している。 ただし、「紅頭嶼」(蘭嶼島) で金が産出するというのは誤情報で、実際には「紅頭嶼」(蘭嶼島)では金属は産出せず、「紅頭嶼」(蘭嶼島)  原住民は漂流船から金属を得ていたと考えられている (注4) (注5) 。そもそも、清朝中国が「紅頭嶼」(蘭嶼島)で金が産出すると知っていて領有放棄するというのは不自然であり、イエズス会宣教師から情報収集しているフランスやせっせと中国の漢文書籍から情報収集している日本に虚偽情報を掴ませるため黄叔璥が意図的に虚偽情報を記載したものと思われる。

尚、19世紀後半に「紅頭嶼」(蘭嶼島) が当時は非公開だった書類上では恒春県に編入され (注6) 、その直後に当時は非公開で台東直隷州にも編入された (注7) 事を日本は知らなかったと考えられる。恒春県に編入されていた事を示す恒春県志』の原稿は1894年作成であるが、1895年時点では一般刊行されておらず (注8)、 日本が書類上で恒春県に編入された事を知ったのは台湾領有後と考えられる。(恒春県志』の一般刊行は第二次世界大戦後であるが、上述の『臺灣文化志』・下巻・p.378-380には恒春県に編入された旨の記事があるので大正時代に亡くなった著者の伊能嘉矩が知っていた事がわかる。そのため、遅くとも大正時代の末には日本も書類上は日清戦争終結前に恒春県に編入された事を知っていたと考えられる。) また、台東直隷州に編入された事を示す『臺東州采訪冊』も1895年時点では一般刊行されておらず (注7)  日本に輸入されてなかったからである。尚、一旦、18世紀に清朝中央政府は「紅頭嶼」(蘭嶼島) の領有を放棄しており (別記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示 ]参照)、中央政府の許可なく地方政府が無断で書類上だけ領土編入しても無効と考えられる。実際、清朝中央政府の許可なく地方政府が勝手に編入したため恒春県と台東直隷州の二つの行政単位に二重編入になったのであろう。ただし、上述の『臺灣文化志』・下巻・p.378-380では光绪3年に当時の台湾地域の最高位の官職である分巡臺灣兵備道だった夏献綸の命によって編入されたとあるが、実効支配していなかった旨の記述があり、仮に清朝中央政府の了承があったと仮定しても清朝中国領でなかった事になる。

ちなみに、「紅頭嶼」(蘭嶼島) を最初に望見した文明国の船は不明であるが、中国・スペイン・(スペインから独立を目指していた) オランダ ・(スペイン国王が国王だった時期の) ポルトガル・日本のいずれかと考えられる。英語版wikipedia「Orchid Island」(2018年9月19日版)によれば「The island was first mapped on Japanese charts as Tabako-shima in the early 17th century and Tabaco Xima on a French map of 1654. 」とあるので文明国船として最初に望見したのが日本船だった可能性もある。ただ、「タバコ島」というのは和名とは考えにくく、語源はフィリピン人の呼称の「ボテル・タバコ」と考えられる。もし仮に、「ボテル・タバコ」が煙の出るタバコを禁止した17世紀前半のフランスのルイ13世即位後に欧米や中国で流行した嗅ぎタバコのボトルに由来するならばスペイン人が命名したのかもしれない。また、もし仮に日本船が文明国船として最初に望見したとしても公文書や公的地図に記載されてなければ国家としての発見にはならない。「紅頭嶼」(蘭嶼島) の事を「紅豆嶼」として世界最初に記載した文献は明朝中国の張巒著『東西洋考』(1617年刊)とされる。純然たる公文書に最初に記載があるのはオランダの『バダヴィア城日誌』で、上陸調査の記載がある (注4)

 

   また、拒否の理由として水野公使が挙げた李経方の「福建省附近に散在する島嶼を台湾附属島嶼だと主張されないか」との危惧を「杞憂」として島名目録が不要とした理由は、さらに細分化された理由が二つ示されており、杞憂だという第一の理由は海図・地図等で台湾附近の島嶼を台湾所属島嶼と公認しているので福建省の島を台湾の島だと日本が言うはずが無いという理由であり、杞憂だという第二の理由は福建と台湾の間に澎湖列島という「横梁」があるというものであった。

   上記の杞憂だという第一の理由だが、「台湾及び附属島嶼」の地図が条約に貼付されてない (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照) にもかかわらず地図に言及するのは不当で、しかも下関条約署名以前に作成された日本の公的な台湾の地図である『台湾全島之図』 (注9-1) や『台湾島及海峡』 (注9-2) には福建沿岸の島が含まれるので水野公使の指摘は誤っている。

  

   さらに、下関での条約交渉で参考資料として使用された可能性が高い『台湾全島之図』(日本の水路寮が1873年発行) (注9-1) には誤記があり (私のブロク記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否   浅見真規のLivedoor-blog ]における石井望氏の御指摘コメントによる) 、尖閣諸島が図中に含まれていると誤解を招いた疑いがある。

   尚、「海図・地図等」の「等」には「水路誌」が含まれると考えられるが日本海軍水路寮が明治6年(1873年)に発行した『台湾水路誌』 (注10-1) 及び日本海軍水路部が明治22年(1889年)に発行した『寰瀛水路誌・第4巻』 (注10-2) 、『支那海水路誌・第2巻(注10-3) では尖閣諸島が台湾に含まれている。

   杞憂だという第二の理由の「況や福建と臺灣との間に澎湖列島の横はりあるに於てをや」の部分は日本語としてもわかりにくい比喩であるが、福建省と台湾の間には澎湖諸島以外には島が無い海域 (台湾海峡) があって中国本土の福建省沿岸の島と台湾の附属島嶼が分別されている事を意味している。すなわち、水野遵・公使が李経方・全権代表に述べた分類基準では尖閣諸島は台湾の附属島嶼となる事がわかる。尚、この基準での「台湾全島及びその附属諸島嶼」の範囲は明朝中国の「小琉球」の範囲とも一致する (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照)。

   尚、水野公使が挙げた理由以外に、私の推測では、当時、中国側が把握していた尖閣諸島の緯度・経度の精度は18世紀半ばのGaubil神父の地図 (注11) より少し精度が高い程度であった可能性が高かったため、島の同定のために再協議または日中共同での緯度・経度計測の必要性が生じた可能性が高く日本側が面倒を嫌った可能性も否定できないが、その理由については、なぜか水野公使は挙げていない。


私の見解:

 

   清朝中国の島名の目録提供の申し出を拒否した日本側に正当な拒否理由がなく、しかも、水野公使の発言の「況や福建と臺灣との間に澎湖列島の横はりあるに於てをや」の部分から台湾海峡の東側の島を全て「台湾の附属島嶼」として割譲対象にして合意しており、更に下関条約調印書に台湾の地図が無い事 (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ] 参照) から、尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」として清朝中国から日本に割譲されたものと考えるべきである。


目次

2019年3月14日 (2017年1月18日当初版は こちら 。尚、2017年2月14日版は こちら 。)

標準版は こちら

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) たとえば、釣魚嶼 (魚釣島) 付近の「沖の南岩」や「沖の北岩」は釣魚嶼 (魚釣島) から3海里以上離れているが、3海里内の島・岩礁・砂州の属島認定の連鎖的適用を認めれば、目録に台湾の附属島嶼として釣魚嶼 (魚釣島) を列挙すれば「沖の南岩」や「沖の北岩」を列挙しなくとも釣魚嶼 (魚釣島) から3海里内に北小島があり、北小島から3海里内に沖の南岩があり、沖の南岩から3海里内に沖の北岩があるので「沖の南岩」や「沖の北岩」も台湾の附属島嶼と認定されるのである。

 

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(注2-1) wikisource・『臺海使槎錄』(巻七)の下記記述参照。「產金,番無鐵,以金為鏢鏃、槍舌。」とある。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷7

>紅頭嶼番在南路山後;由沙馬磯放洋,東行二更至雞心嶼,又二更至紅頭嶼。

>小山孤立海中,山內四圍平曠,傍岸皆礁,大船不能泊,每用小艇以渡。

>山無草木,番以石為屋,卑隘不堪起立。產金,番無鐵,以金為鏢鏃、槍舌。

 

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(注2-2) wikisource・『臺海使槎錄』(巻一)の下記記述参照。「不入版圖」とある。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷1

沙馬磯頭之南,行四更至紅頭嶼,皆生番聚處,不入版圖;地產銅,所用什物俱銅器。

 

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(注3) 国会図書館と早稲田大学図書館には黄叔璥著『台海使槎録』を収録する『畿輔叢書』(1879年発行)という全集が蔵書として存在する。ただし、早稲田大学図書館の購入時期は昭和27年である。

(下記urlの国会図書館蔵書検索記事参照。)

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007641349-00

 

(下記urlの早稲田大学図書館インターネット公開の『畿輔叢書』(1879年発行)収録版の黄叔璥著『台海使槎録』参照。)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03977/index.html

 

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(注4) (復刻版)『バダヴィア城日誌 2』 村上直次郎 訳注・中村孝志 校注 東洋文庫 1987年1月20日 (1987年1月20日初版第4刷) p.252 参照。

尚、上記は昭和12年・日蘭交通史料研究会発行 の復刻版である。

 

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(注5) 日本財団図書館(電子図書館) 自然と文化 75号 日本ナショナルトラスト 『ヤミ族の文化[継承と変容]』参照

https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00695/contents/0031.htm

 

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(注6) wikisorceの『恆春縣志』(卷一 疆域)参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/恆春縣志/卷01

>縣治,在府南二百四十里〈作六站〉。

>東二十五里,豬勝束社,屆海;海之中,距岸八十里為紅頭嶼。

 

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(注7) 国学导航サイトで公開されている臺東州采訪冊』(1896年発行)参照。

http://www.guoxue123.com/tw/02/081/003.htm

>疆域

>・・・・・(中略)・・・・・

>島嶼

>・・・・・(中略)・・・・・

>紅頭嶼在巴塱衛之東海中。

 

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(注8) wikipediaの『恆春縣志』参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/恆春縣志 

>恆春縣志是清朝恆春縣的方志,書成於光緒二十年(1894年),在當時並未刊行,主修者是恆春縣知縣陳文緯,總纂為浙江人屠繼善。

>・・・・・(中略)・・・・・

>二次大戰之後,臺灣大學教授方豪於1948年冬天在中研院史語所搬遷來臺的文物資料中發現了《恆春縣志》的書稿,

>之後於1951年由臺灣省文獻委員會將之標校出版。

 

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(注9-1) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 台湾全島之図 ] 参照。

尚、下記urlで、東京国立博物館によっても画像が公開されている。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084031

 

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(注9-2) 『台湾島及海峡』 (水路部・1894年発行) の画像は下記のurlより入手した魏德文 主講による『清末から日本統治初期の台湾関する地図』PDFに掲載されている地図を引用。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter5/pdf/n5_s3_2.pdf

 

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(注10-1) 日本海軍水路寮が明治6年(1873年)に発行した『台湾水路誌』には欧米の海図または地図で釣魚嶼 (魚釣島)を意味する「Hoa Pin su」の当て字表記として「甫亜賓斯(ホアピンス)島」の記述があり、また欧米の海図または地図で黄尾嶼 (久場島) を意味する「Tia-usu」の当て字表記として「地亜鳥斯(チアウス)島」の記述があるので日本海軍は1872年には尖閣諸島を台湾附属島嶼としていた事がわかる。

田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 日本の実効支配(古賀辰四郎の実効支配) ]の[ 台湾水路誌 1873年1月 ]項目の説明および[ 台湾水路誌 明治6年 ]項目ページ参照。

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/4occupation.html

台湾水路誌 1873年1月

>海軍水路局の前進である海軍水路寮が作成した『台湾水路誌』に、尖閣諸島の記述がある。

>「台湾北翼の東北にあり。未だ詳かに知る者あらず。唯其地位を定むるのみ。

>即ち次表の如し」とし、「尖閣=北緯25度27分,東経121度58分、屈来具島(クライグ)=北緯26度29分,東経122度09分、

>亜神可留土島(アジンコールト)=北緯25度38分,東経122度08分」としている。これらは経緯度を考慮すると、

>それぞれ花瓶嶼(北緯25度29分,東経121度59分)、棉瓶嶼(北緯25度29分06秒,東経 122度06分23秒)、

>彭佳嶼(北緯25度37分22秒-25秒,東経122度04分27秒-121度05分11秒)であることが分かる。

>また、甫亜賓斯島(ホアピンス)は魚釣島、尖閣島は南小島及び北小島、地亜鳥斯島(チアウス)は黄尾嶼、

>刺例字島(ラレイジ)は赤尾嶼であることが、記述から読み取れる。

 

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(注10-2) 日本海軍水路部が明治22年(1889年)に発行した『寰瀛水路誌・第4巻』では尖閣諸島が「台湾北東ノ諸島」の一部として紹介されている。

尚、『寰瀛水路誌・第4巻』は国会図書館デジタルコレクションとして公開されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084219

 

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(注10-3) 支那海水路誌・第2巻』は国会図書館に蔵書があり国会図書館デジタル化資料送信サービス参加館で閲覧可能である。

書誌ID: 000009138204

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304319

 

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(注11) Gaubil神父が18世紀半ばに中国から本国フランスのイエズス会に送った琉球地図を読み取ると、緯度・経度の誤差について下記の結果が得られた (別記事・[ ゴービル神父の琉球地図の主要地点の緯度・経度 ] 参照) 。

 

Tiaoyu su (釣魚嶼・魚釣島):緯度誤差14分、経度誤差18分

Hoangouey su (黄尾嶼・久場島):緯度誤差27分、経度誤差6分

Tchehoey su (赤尾嶼・大正島):緯度誤差17分、経度誤差1度3分

 

尖閣諸島は実測してなかったため、赤尾嶼 (大正島) の経度の誤差は1度3分と大きかった。釣魚嶼 (魚釣島) の緯度・経度の誤差は「見通し距離」内であったが、黄尾嶼 (久場島) 及び赤尾嶼 (大正島) の緯度・経度の誤差は「見通し距離」を超えていた。

 

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