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 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示

 

   『台海使槎録』は18世紀前半に台湾で発生した漢族による大規模な反乱の直後に、台湾が少数民族の満州族の王朝である清朝に反感を持つ漢族の反乱拠点になる事を恐れた清朝の皇帝の康熙帝が台湾に派遣し調査させた高級官僚の黄叔璥が著した台湾の地誌で、釣魚台も軍事上の重要拠点として記されており、釣魚台に関する『台海使槎録』の記述は以後の清朝時代の台湾の地誌に手本として引き継がれていった。

   その黄叔璥著『台海使槎録』(巻一)は「紅頭嶼」について「不入版圖」 (注1-1) として版図に入れない事を明示している。しかし、「釣魚台」については、そのような記述は無い (注1-2) 。これは「釣魚台」が清朝中国の領土であるとの認識を示すものである (注2)。そして、『台海使槎録』の「釣魚台」は尖閣諸島の魚釣島なのである (別記事・[ 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島 ]参照)。

   尚、当時は清朝中国が実効支配せず「封山令」によって漢人の入植を禁じた (注3) (注4)台湾本島東部の「薛坡蘭」(秀姑巒渓)について版図に入れない旨の記述は無い。これは、巻八の「番界」 (注5) の項目で康熙61年(1722年)以降には台湾本島の中央山岳地帯や東岸へ漢人の立ち入りを禁じた区域について述べており、一々個々の川について重複記述を避けたからだと考えられる。

   また、台湾本島の中央山岳地帯や東岸の番界 (封山令の入植禁止区域) 全般について、単に立ち入り禁止のみの言及に留め、「不入版圖」(版図に入れない)と明記していないのは、東岸の原住民のプユマ族(卑南族) (注6) の大酋長を朱一貴の乱の残党掃討での清朝に協力した功績に対して「卑南大王」として台湾本島の中央山岳地帯や東岸の番界全体を冊封した事 (注7) により、たとえ狭義の中国領でないとしても台湾本島の中央山岳地帯や東岸の番界も広義の中華帝国領と考えた可能性と、番界(漢人の入植禁止区域)の将来の変更や解除も視野に入れていた可能性が考えられる。

   なぜ、康熙帝時代の清朝中国が「紅頭嶼」を版図に入れなかったかであるが、最大の理由は『台海使槎録』(巻一)に「生番」とあり、康熙帝時代の清朝中国が「紅頭嶼」の原住民を危険な原住民と認識していたからであろう。  「紅頭嶼」は現在の蘭嶼と考えられる (注8) が、その原住民のタオ族 (注9-1) (注9-2) は台湾の原住民族中で首狩りの悪習がなかった唯一の民族だが、同じ民族と考えられえるフィリピンのバタン島の原住民は江戸時代にバタン島に漂着した日本人を奴隷にしたり殺したりしており (注10-1) (注10-2) 康熙帝時代の清朝中国が紅頭嶼 (蘭嶼) のタオ族を危険な原住民と考え紅頭嶼 (蘭嶼) を版図に入れなかったのであろう。ただし、『台海使槎録』(巻七)には「昔年臺人利其金私與貿易因言語不諳臺人殺番奪金」とあり、言葉がうまく通じず、台人(台湾に入植した漢人)が原住民の金塊欲しさに原住民を虐殺したとも書かれているようである。 また、他の理由として(スペインから正式に独立する前の)オランダが発見した事も理由であった可能性がある。さらに他の理由として、紅頭嶼 (蘭嶼) のタオ族がフィリピンのバタン島の原住民族と同じ民族で、台湾の原住民と言語の系統が異なり、台湾の原住民や台湾に入植した漢人と言葉が通じない事も理由だった可能性がある。


資料の出典: 黄叔璥著『台海使槎録』(早稲田大学図書館)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03977/ru04_03977_0001/ru04_03977_0001_p0013.jpg


付記1:

   斉藤道彦 著・『日本人のための尖閣諸島史』(p.95・96)によれば、『台海使槎録』を尖閣諸島の中国領論の論拠として最初に示したのは台北政府の外交部で、2012年4月3日発表した『釣魚台列嶼は中華民国の固有の領土である』だそうである。同内容と推定される台北政府の日本語広報ホームページ記事 [ 釣魚台列島は中華民国の固有領土(日文版) ] が下記urlで公開されている。

https://www.mofa.gov.tw/News_Content.aspx?n=C641B6979A7897C0&sms=F9719E988D8675CC&s=0D1DBC370F6304A3

2. 明王朝の海防区と清王朝の版図に編入

>・・・(中略)・・・

>清王朝御使巡察の報告と地方政府によって編纂された福建省と台湾府の地方誌は、

>釣魚台列島が台湾の一部に属されているという論拠の最も権威的な史実である。

>例えば西暦1722年、台湾を視察した御使黄叔璥が著した『台海使槎録』二の巻『武備』で、

>台湾府海軍のパトロール路線を綴り、そして「台湾の大洋の北、釣魚台という山があり、

>大船十数隻が停泊可能」とする記録がある。

>それに西暦1747年范咸の『重修台湾府志』及び1764年余文儀の『続修台湾府志』はともに黄氏の記述を転載した。

西暦1871年、陳壽祺の『重纂福建通志』の『巻八十六・海防・各県衝要』に、上述を転載して、

>更に同島は噶瑪蘭廳(今の宜蘭県)の所轄であることを明記した。

>それらの地方誌は「歴史記録、管理、教化」という目的があり、

>清王朝の同列島に対する統治が持続した政策によるものの根拠と象徴でもある。

>上述した公式書物は釣魚台列島が台湾の付属島嶼であることを十分証明できる。

 

付記2:

   尖閣諸島領有論争発生前の昭和3年(1928年)に発行された伊能嘉矩 著『台湾文化志 下巻』p.378-380は『台海使槎録』に言及し、紅頭嶼が光緒3年(1877年)まで清朝中国の版図に入れなかった事及び、光緒3年(1877年)に台湾南部の恒春県が管轄としたが実効支配してなかった事が記載されている。尚、伊能嘉矩 著『台湾文化志 下巻』刀江書院・昭和3年(1928年)版は国立国会図書館デジタルコレクションの下記urlで公開されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190978

   しかし、国学导航の下記urlで公開されている胡傳 著『台東州采訪冊』によれば、同時期に台東直隷州にも編入されており、台湾省下の複数の行政区画に二重編入された事がわかる。これは紅頭嶼を放棄した清朝中国中央政府の許可を得ずに台湾省下の複数の行政区画が紅頭嶼を無断編入した証拠と考えられる。

http://www.guoxue123.com/tw/02/081/003.htm

>疆域

>・・・(中略)・・・

>島嶼

>・・・(中略)・・・

>紅頭嶼在巴塱衛之東海中。望之,其嶼較大於火燒嶼。其人從不至埤南;無船往來,不能知其詳。


目次

2019年3月1日 (2016年11月4日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1-1) wikisource・『台海使槎録』(巻一)の下記記述参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷1

沙馬磯頭之南,行四更至紅頭嶼,皆生番聚處,不入版圖;地產銅,所用什物俱銅器。

 

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(注1-2) 『台海使槎録』には「釣魚台」に関する記述は巻二・「武備」に一箇所あるだけだが、「不入版圖」という記述は無い。

wikisource・『台海使槎録』(巻二)の下記記述参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷2

>山後大洋,北有山名釣魚臺,可泊大船十餘;崇爻之薛坡蘭,可進杉板。

 

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(注2) 下記urlのコトバンクの「反対解釈」項目参照。

https://kotobank.jp/word/反対解釈-118253

 

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(注3) 伊藤清 著・中公新書『台湾』(中央公論社)中の第三章「清国の台湾領有」の「開発の制限」参照。

尚、インターネット上の [ 台灣歷史 ] に転載されている。

http://members.shaw.ca/wchen88/mainp4j.htm

清国政府の渡航制限は、中国東南沿海住民を対象とした措置であったが、台湾の移住民には「封山令」で臨んだ。

>封山令とは、すでに台湾に定住する移住民に対し、先住民の居住地域への入植を禁じたものである。

>台湾全島はもともと先住民の土地であり、封山令は一見して先住民を保護し、移住民と先住民の衝突を防ぐ措置のようであるが、

>実際は反乱を起こした移住氏が、先住民の居住地域に逃げ込むこと、および先住民と結託して反乱を起こすことを防ぐためのものであった。

>封山令のもとで、清国政府は先住民と移住民の居住地域を隔離して境界線を設け、先住民を封じ込めると同時に、

>移住民に対しては越境と先住民との交流や通婚を禁じた。

>これを犯した者には厳罰で臨み、許可なく先住民の居住地域に越境した場合は杖打ち一〇〇回、

>先住民居住地域の近辺での籐の採取、鹿狩り、樹木の伐採などは、枝打ち一〇〇回に加えて三年の徒刑を科した。

>また、移住民が越境して品物を運ぶのを察知できなかった所轄の官吏は、降格して異動させ、

>その直属の上司には一年間の俸給に相当する罰金を科した。

 

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(注4) 中国版wikipedia「土牛界線」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/土牛界線

 

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(注5)  wikisource・ 『台海使槎録』・巻八・「番界」の項目参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷8#.E7.95.AA.E7.95.8C

 

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(注6) wikipedia 「プユマ族」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/プユマ族

 

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(注7) 幣原坦 著(1931)・『卑南大王』(南方土俗学会誌「南方土俗」・第一巻第一号・p.1-p.10)参照。

 

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(注8) 『台海使槎録』(巻七)にある航程についての記載の「紅頭嶼番在南路山後由沙馬磯放洋東行二更至雞心嶼又二更至紅頭嶼」はデタラメなので、航程だけからは紅頭嶼が現在の蘭嶼なのか緑島なのか識別不能であるが、現在の蘭嶼に「紅頭村」という村があるので現在の蘭嶼が紅頭嶼と考えられる。尚、 『台海使槎録』出版当時は緑島が無人島だった事も現在の蘭嶼を『台海使槎録』の「紅頭嶼」と比定する根拠になる。

 

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(注9-1) 台湾原住民デジタル博物館 (国立台湾先史文化博物館) 「タオ族」参照。

http://www.dmtip.gov.tw/JP/Tao.htm

 

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(注9-2) wikipedia「タオ族」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/タオ族

 

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(注10-1) TOKONAME HOMEPAGE の『バタン島漂流記』参照

http://www.tokoname.or.jp/batan/batanono.htm

 

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(注10-2) 東京海洋大学附属図書館のホームページ の『尾張者異國漂流物語』参照

http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/bunkan/tb-gaku/hyoryu/OWARI/owari-index.html

 

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(注11) 中国版wikipedia「蘭嶼」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/蘭嶼

 

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