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 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島

上掲資料の出展:黄叔璥著『台海使槎録』(早稲田大学図書館)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03977/ru04_03977_0001/ru04_03977_0001_p0040.jpg

   18世紀前半に台湾で起こった漢族による大規模な反乱直後に皇帝の命により台湾を調査した清朝中国の高官の黄叔璥の著書 『台海使槎録』 の「武備」には、「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」とあり、その後の清朝中国の台湾に関する地誌に同様の記述が引き継がれている。この記述は素直に読めば、清朝中国軍が冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の釣魚台 (魚釣島) を泊地としていた史実を示している事がわかるはずであるが、(台北政府が2012年4月3日に指摘して以降) よほど不都合なのか日本領論者の大半は必死で別の島であると屁理屈をこねている。そこで、『台海使槎録』の「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の「釣魚臺」が冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の釣魚台 (魚釣島) 以外の島ではありえない事を以下に示す。 尚、明・清王朝時代の中国では島を「山」と表記する事があったので「有山」とは「島がある」の意味である。(ちなみに、琉球王国時代に沖縄県の宮古島も中国名では「太平山」と書かれていた。宮古島市史跡案内PDF『綾道マップ裏』参照。)

 

特定の地域や山を示す記述が前に無い場合の「山後」の意味

   『台海使槎録』の「武備」の「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の「山後」は特定の山の背後とは考えにくい。尚、「鳳山大港」・「鳳山喜樹港」・「鳳山岐後」の「鳳山」は「鳳山県 (注1) の意味で、「諸羅馬沙溝」・「諸羅海翁堀」の「諸羅」は「諸羅県(注2) の意味で、「臺灣州仔尾」の「臺灣」は「台湾県」 (注3) の意味と考えられるので、この段落での「鳳山」は具体的な山を示すわけではない (後述のように現在の高雄市鳳山区の東部には「鳳山」という丘があるが、この段落での「鳳山」はその丘ではなく行政区画の「鳳山県」を意味している) 。

   台湾に関する清朝時代の文書で特定の地域や山を示す記述が前に無い場合の「山後」は台湾本島東部を意味する。その決定的根拠である李元春 輯『台灣志略』では、上述の文と同内容の「山後大洋之北有嶼名釣魚台,可泊巨舟十餘艘。」を実質的に引用する直前に「邑治內優大山之東曰山後」 (注4) として、「山後」という単語が台湾中央山脈の東を意味すると解説している。

   清朝時代の台湾に関する文献で、特定の地域や山を示す記述が「山後」の前に無ければ「山後」という単語が台湾本島東部を示すのは、清朝時代の大部分の時期に漢人が台湾本島山岳地帯や台湾東部に立ち入る事ができなかった歴史的事情に由来する漢人中心の表現なのである。

   清朝が台湾を領有する以前には台湾本島東部にも少数ながら漢人が入植していたようであるが、台湾に入植した漢人が原住民を虐殺して金塊を奪ってから台湾東部の原住民と敵対し戦闘状態になり漢人は台湾東部に入れなくなった (注5) 。そして、清朝は1722年から1874年まで台湾本島中央山岳地帯と台湾本島東岸への漢人の入植を禁じた (ただし、一部は1810年に規制解除) 。そのため、漢人からすれば立ち入れない台湾本島東部は「山の後」と表現されたのである。

   ちなみに、他の文献でも『東征集』卷二 (注6) に「山後地方,有崇爻、卑南覓等社,東跨汪洋大海,高峰插天,巖險林茂,溪谷重疊,道路弗道」とあり「山後地方」が台湾東部を意味しており、『臺東州採訪冊 (注7) の冒頭に「州在臺灣山後」とあり台湾東部地域の「台東直隷州」 (注8) が「台湾山後」にあると述べている事から「台湾山後」が台湾東部を意味する事がわかる。また、『諸羅縣志』には台湾東部及び東北部を示す「山後図」なる簡易な地図が附属していた (注9)

 

   ところが、山陽学園大学教授の班偉なる中国本土出身者は無理やり台湾本島東部である事を否定し屁理屈で日本領論を展開している。あまりに低劣な屁理屈なので、付記としてこの記事の末尾で批判しておく。(付記 [ 班偉なる中国本土出身者の低劣な「山後」の解釈について ] 参照)

 

山後大洋北有山名釣魚臺」の記述は場所的に冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の釣魚台 (魚釣島)と符合する。   

下図参照。

   尚、宜蘭沖の龜山 (亀山島) も位置的に「山後大洋北」にあると強引に解する余地はあったが、19世紀前半に刊行された陳淑均著・『噶瑪蘭廳志』 により龜山 と釣魚台が別個の島である事が確定している。(早稲田大学図書館により『噶瑪蘭廳志』は公開されている。巻一の「龜山」に関する記述画像 及び 巻八の「釣魚台」に関する記述の画像 参照。)

 

『台海使槎録』以前の地図や文献に台湾周辺の島で「釣魚臺」と表記されていたのは冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の釣魚台 (魚釣島) だけ

   日本領論者は屁理屈をこねて 『台海使槎録』の「釣魚臺」を尖閣諸島の魚釣島以外の台湾周辺の島だと主張するが、尖閣諸島の魚釣島以外の島を釣魚臺」または「釣魚嶼」または「釣魚山」とする『台海使槎録』以前の地図や文献を示していない。これは、『台海使槎録』以前の地図や文献に台湾周辺の島で「釣魚臺」と表記されていたのは冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の釣魚台 (魚釣島) だけだからであろう。(実際、台湾東部に漢人が立ち入れなかった時代に台湾東部の島に漢名が付けられていたとは考えにくい。)

 

『台海使槎録』の著者・黄叔璥は冊封使・徐葆光著『中山伝信録』を読んでいたはずである

   冊封使航路の釣魚台 (魚釣島) に関する記述のある冊封副使・徐葆光著『中山伝信録』は1721年秋に一般刊行 (注10) された書籍だが、以下に示すように、18世紀のベストセラーになった書籍なのである。冊封使録の翻訳者である原田禹雄氏も「二友斎の原刊本は、京都大学にも何種かあり、また和刻本をふくめて、きわめて多種の本がある。冊封使録の中では、恐らく日本で最も多種のテキストが保存されているといえよう。」と著書で述べている (注11) 。実際、早稲田大学図書館や琉球大学図書館がインターネット上に公開している『中山伝信録』は日本人が読みやすいように「返り点」が付された和刻本である (注12) (注13) 。『三国通覧図説』を著した林子平も徐葆光著『中山伝信録』と新井白石著『琉球事略』を参考書として挙げていた (注14) (注15) 。また、中国にキリスト教の布教に来ていたGaubil神父もフランス本国のイエズス会に徐葆光 著 『中山伝信録』の要約を手紙で送っており、その書簡が添付された地図と共にフランスで出版された (注16) (注17) 。明治時代に尖閣諸島を調査した新潟出身の沖縄県職員・石澤兵吾氏も(趣味・教養人だったためか)報告書で『中山伝信録』を引用していた (注18) 。(ただし、20世紀半ばの中国の国民党や共産党の首脳や影響力のある役人や地図作成者や人民日報記者は『中山伝信録』を読んでいなかったと考えられる。しかも、当時の中国人で尖閣諸島が冊封使録に登場する航路の島である事に気付いていた可能性のある歴史学者の向達氏は文化大革命で迫害を受けており、中国政府の領土管理政策に反映されてなかった。)

   上述のように冊封使航路の釣魚台 (魚釣島) に関する記述のある『中山伝信録』の初版本は『台海使槎録』の著者の黄叔璥が巡視台湾監察御史」 (注19) に任命される1722年の前年の1721年秋に一般刊行されベストセラーになっており、黄叔璥は科挙に合格して進士 (注20) となった読書家なので当然ながら『中山伝信録』を読んでいたと考えられる。よって『台海使槎録』著者の黄叔璥は『中山伝信録』の「針路図」の「釣魚臺」という島名も知っていたはずであり、別の島を誤解防止の説明も無しに『台海使槎録』で「釣魚臺」と記述したとは考えにくい。山後大洋北有山名釣魚臺」とは「台湾本島の東の大洋の北の釣魚臺」という意味なので場所的に『中山伝信録』の冊封使航路の「釣魚臺」と符合し、それまでの文献や地図に存在しない別の島を単に「釣魚臺」とすれば混乱が起きるからである。

 

鄭氏統治時代の台湾と日本や琉球王国との交通遮断のため釣魚台(魚釣島)を泊地とする軍事的必要性があった

   釣魚台(魚釣島)は付近に暗礁が多く潮流も強く台風の直撃を受けるので泊地とするには不向きではあったが、清朝初期に明王朝再興を目指して台湾に篭った鄭氏が日本から武器を台湾北部の鶏籠港 (基隆港) に輸入しており、軍船の損耗が激しくとも清朝は存亡を賭けて釣魚台(魚釣島)を泊地として台湾と日本や琉球王国との間の交通を遮断する軍事的必要性があった。(別記事 [ 清朝水軍が鄭氏台湾対策で釣魚嶼を泊地にした可能性と『台海使槎録』 ] 参照。)

 

黄叔璥著 『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の段落の地名配置は地図の反時計回りではない

   日本領論者の中には、『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の「釣魚台」が尖閣諸島の魚釣島だとすれば、台湾本島南部から急に台湾本島から北東に離れた島に話が飛んで、その後、台湾本島東部の「薛坡蘭」(秀姑巒渓)に話が戻るのは不自然だとし、地名が反時計回りに配列されていると主張し、冊封使航路の釣魚台 (魚釣島) ではないと主張する者もいる。

   しかし、黄叔璥著 『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の段落の地名と当時の地図の『皇輿全覽分省圖』等の資料を照合して地名を比定したところ、黄叔璥著 『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の段落の地名配置が台湾地図の反時計回りでない事が判明した (別記事・[ 『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」段落の地名配置は台湾地図の反時計回りではない ] 参照) 。あちらこちらと場所がコロコロ移っているのである。(日本人の感覚では、清書もせずに皇帝に報告書を提出したのかと驚いてしまうのだが。)

   そういうわけで、地名の配列からしても『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の「釣魚台」が冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) の「釣魚台」(魚釣島)であっても不自然ではないのである。


個別の島についての検証:

 

   念のため、台湾本島付近に存在する長さ200m以上の個別の島について、『台海使槎録』の「武備」の「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の表現の「釣魚臺」の可能性のある島について以下で検証しておく。

   上掲のGoogle マップの台湾周辺の航空写真画像から引用・加工した画像で、台湾本島周辺の長さ200m以上の島を柿色で示した。ただし、台湾本島西岸南部の砂州と川の中にある島で海に面しない島はと沖縄の先島諸島は除外した。尚、現在の和平島は、『台海使槎録』出版当時の18世紀前半には基隆港口の大鶏籠嶼と桶盤嶼と中山仔島に分かれていた。

   長さ200m以上の島に限定して考察するのは釣魚台が「可泊大船十餘」とあるからである。また、川の中にある島で海に面しない島は「大洋」の語に反するので除外した。西岸の砂州は『台海使槎録』出版当時の18世紀前半に台湾西部しか実効支配してなかった清朝中国の港湾建設技術では浅すぎて大船が停泊できなかった事がイエズス会のド・マイヤー神父の書簡からわかるからである (注23)。また、冊封副使・徐葆光著『中山伝信録』で先島諸島の島は別の中国名で紹介されており、琉球王国領なので除外した。

   澎湖諸島は「彭湖」との表記で『台海使槎録』で言及されているので釣魚台ではない。同様に、小琉球と大鶏籠(嶼)と鶏心嶼(緑島)と紅頭嶼(蘭嶼)も『台海使槎録』で言及されているので釣魚台ではない。大鶏籠嶼近くの桶盤嶼と中山仔島は書かれてるとすれば大鶏籠に関連して書かれたはずなのでありえない。同様に紅頭嶼(蘭嶼)近くの小蘭嶼も書かれてるとすれば紅頭嶼(蘭嶼)に関連して書かれたはずなのでありえない。

   奚卜蘭島は「山後」(台湾本島東部)の中部にあり台湾本島に隣接しているので山後大洋北」という表現には該当しないし、「獅球嶼」という漢名があるので「釣魚台」ではない。

   三仙台は「山後」(台湾本島東部)の南部にあり台湾本島に隣接しているので山後大洋北」という表現には該当しないし、三仙台の周囲は暗礁だらけで少し離れた場所に船が比較的停泊し易い場所があり軍事的必要性も見出せないので「武備」に乗せる必然性も無い。

   小鶏籠嶼(基隆嶼)・花瓶嶼・棉花嶼・彭佳嶼は、もし仮に表記するなら当時の清朝中国が大鶏籠嶼を実効支配していたので大鶏籠の北と表現するはずなのに、山後大洋北」という表現をしており、「山後」(台湾本島東部)地域を当時の清朝中国が実効支配してなかった事と考え合わせるとありえない表現である。

   尖閣諸島の赤尾嶼(大正島)や黄尾嶼(久場島)には川がなく、川があって飲料水を得易く最高点の標高が高く遠方まで見通せる釣魚嶼(魚釣島)の方が軍事的価値は高い。また、『台海使槎録』での仮想敵は外国軍ではなく清朝中国の支配民族の満州族に敵意を持つ台湾の漢族であるので赤尾嶼(大正島)の軍事的価値は低い。そもそも、少数騎馬民族王朝の清朝が台湾を制圧できたのは、非常に海戦能力が高い海賊出身の施琅提督と配下の海賊によるもので『台海使槎録』の著者の黄叔璥を台湾に派遣した康熙帝の治世の後半は清朝時代では水師(海軍)の将兵の士気が最も充実していた時期であり、更に、有能だった康熙帝は康熈四十七年(1708年)に琉球から清朝中国に来た進貢使で学者の程順則に『指南広義』という中国・琉球王国間の航路解説書を記させ島名を確定させており、赤尾嶼(大正島)や黄尾嶼(久場島)を釣魚台と誤るはずはない。同様に、釣魚嶼(魚釣島)付近の南小島・北小島・沖ノ北岩・沖ノ南岩を釣魚嶼(魚釣島)を差し置いて「釣魚台」と誤記する事も考えられない。

   結局、『台海使槎録』の「武備」の「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の表現の「釣魚臺」の可能性のある島は尖閣諸島の釣魚嶼(魚釣島)か台湾北東部の亀山(亀嶼)だけになる。ところが、上述のように、19世紀前半に刊行された陳淑均著・『噶瑪蘭廳志』 により龜山 と釣魚台が別個の島である事が確定している。

   よって、個別の島を考察・検証しても『台海使槎録』の「武備」の「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の表現の「釣魚臺」は尖閣諸島の釣魚嶼(魚釣島)しかありえない事がわかる。


補足 ( 安倍明義 編・『台湾地名研究』における「三仙臺」説の矛盾について )

   安倍明義 編・『台湾地名研究』(昭和13年発行) (注21) は、台湾東岸の南部沿岸に近接する島の「三仙臺」を「古の釣魚臺」としている (p.301)。しかし、同書では地名の命名者が原住民か西洋人(オランダ人・スペイン人)か漢人か日本人かという事を重視しており (同書の冒頭の編者による「序言」及び第三篇の構成参照)、釣魚臺」は字義から漢人の命名によるものであるが、同書p.288では台東地域への漢人の入植が道光25年(1845年)以降としている事から、もし仮に、その「古の釣魚臺」が『台海使槎録』 の「釣魚臺」だとすれば漢人入植前に漢名が付けられ漢文文献や地図も無しで『台海使槎録』発行時の1722年から漢人入植時の1845年まで百年以上も原住民が漢名を口伝した事になり矛盾である。

   また、台湾東部の沿岸で軍事的に重要な地点は農耕に適した宜蘭の沿岸と花東縱谷(台東平原)を流れる花蓮渓、秀姑巒渓 (注22)、卑南渓の三河川の可口周辺であり「三仙臺」は軍事的重要性が低い。さらに、「三仙臺」周辺には暗礁があり台湾東岸では風や波浪の影響を受けやすく、台湾東岸では「三仙臺」より軍船の停泊に適した場所も多いにもかかわらず、「三仙臺」を『台海使槎録』 の「武備」における「釣魚臺」だとするのには軍事的にも無理がある。

   さらに、『台海使槎録』 の釣魚臺は位置的に山後大洋北有山」と表現されており、「三仙臺」は台湾東岸南部沿岸に近接しており (Googlemap参照)、「三仙臺」の位置を表現するのにわざわざ「大洋」の語を使用したり「北」と表現したりしないはずである。


目次

2019年3月1日 ( 2016年12月3日・当初版は こちら 。 )

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


付記:班偉なる中国本土出身者の低劣な「山後」の解釈について

 

   山陽学園大学総合人間学部言語文化学科教授の班偉なる中国本土出身者は、『明清史籍における「釣魚嶼」の位置付けについて』PDF (p.13) において、

http://ci.nii.ac.jp/els/110009574065.pdf?id=ART0010024996&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1478173782&cp=

>恐らく黄叔敬が誤って枋寮沖合に浮かぶ「琉球嶼」を「釣魚台」と記したものであろう

>・・・・・

>中国の研究者はこの史料を引用するに当たり、「山の後ろ」を「台湾の山の後ろ」に改竄した上で、

>黄叔敬の言う「釣魚台」は今日の釣魚島だと主張し、臆面もせずに史実を曲げる。

 

とするが、「黄叔敬が誤って」という無理な仮定を勝手にしているが、上述のように黄叔璥は冊封使・徐葆光著『中山伝信録』を読んでいたと考えられ「釣魚台」と「琉球嶼」を間違えるはずはなく、実際、黄叔璥は 『台海使槎録』において「琉球嶼」は「小琉球」として言及しているのでありえない屁理屈である。

また、清朝時期の1885年までの台湾では特定の地域や山を示す記述が「山後」の前になければ台湾本島東部であるにも関わらず、無理に「鳳山」の山の後としている。

さらに、班偉は「鳳山」を具体的な「山」として論を展開するが具体的な「山」としての「鳳山」は現・高雄市鳳山区の丘である、しかし、『台海使槎録』の「武備」の「近海港口哨船可出入者」の段落の「鳳山」とは「鳳山県」を指すのであって具体的な「山」としての現・高雄市鳳山区の丘を指すのでない事は明白であり、また、もし仮に現・高雄市鳳山区の丘を「鳳山」として「琉球嶼」(小琉球)を指し示すならば、旧・鳳山県城から見て現・高雄市鳳山区の丘の背後の海の北ではなく現・高雄市鳳山区の丘の背後の海にある島となり原文の山後大洋有山名釣魚臺」の文中の「北」の語は不要となる (下掲の皇輿全覽分省圖の「鳳山」の山の絵と「小琉球(琉球嶼)」の位置関係参照) 。その点も矛盾である。

   班偉は他の中国の研究者に対して「臆面もせずに史実を曲げる」と批判しているが、臆面もなく「史実を曲げる」のは班偉自身であるように私には思えてならない。

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(注1) wikipedia中国語版「鳳山縣 (清治時期)」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/鳳山縣_(清治時期)

 

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(注2) wikipedia中国語版「諸羅縣」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/諸羅縣

 

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(注3) wikipedia中国語版「臺灣縣 (1684年-1887年)」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/臺灣縣_(1684年-1887年)

 

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(注4) 李元春 輯・『台灣志略』 参照。

下記の国学导航サイトでテキスト公開

http://www.guoxue123.com/tw/01/018/002.htm

>邑治內優大山之東曰山後,歸化生番所居。

>舟從沙馬磯頭盤轉,可入卑南覓諸社。

>山後大洋之北有嶼名釣魚台,可泊巨舟十餘艘。

>崇爻山下薛波蘭港可進三板船。

 

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(注5) 『イエズス会士中国書簡集 5 (紀行編) 』(原著『Lettres édifiantes et curieuses,écrites des missions étrangères 』)・矢沢利彦 編訳・東洋文庫 251・平凡社 (1974年初版第一刷・1987年1月20日初版第2刷発行 ) におけるイエズス会宣教師 ド・マイヤー (Joseph Anne Marie de Moyriac de Mailla) (中国名: 馮秉正) 師の書簡・p.186・187参照。

 

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(注6) 藍鼎元 著 『東征集』 参照。

下記の国学导航サイトでテキスト公開

http://www.guoxue123.cn/tw/01/012/003.htm

>山後地方,有崇爻、卑南覓等社,東跨汪洋大海,高峰插天,巖險林茂,溪谷重疊,道路弗道

 

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(注7) 胡傳 著 『臺東州採訪冊 参照。

下記の国学导航サイトでテキスト公開

http://www.guoxue123.com/tw/02/081/003.htm

>州在臺灣山後,地皆群番所居。

 

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(注8) wikipedia中国語版「臺東直隸州」参照。

https://zh.wikipedia.org/zh-tw/臺東直隸州

>其管轄範圍相當於今日臺東縣與花蓮縣。

(その管轄範囲は現在の台東県と花蓮県に相当する。)

 

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(注9) 諸羅縣志の山後圖には台湾東部だけでなく比較的早い時期に漢人が入植した台湾北東部の

wikisorce・中国語版・「諸羅縣志」の「卷首」の「山後圖」参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/諸羅縣志/卷首

諸羅縣志の山後圖 の「山朝社」が存在した地域は現在の「三貂」地域で、鶏籠港 (基隆港) スペイン統治時期の鶏籠港の東の山間部 (台湾北東部のSantiago「山朝」地区は鶏籠港に近いため比較的早い時期から漢人が入植したと考えられる (注9-1) (注9-2) 。ただし、この地域は1810年に噶瑪蘭廳 (注9-3) として清朝中国の行政区域に編入され、漢族に入植が許可された。

諸羅縣志の山後圖中の「直加宣社」が存在した地域は台湾東部の花蓮県の吉安鄉付近。

諸羅縣志の山後圖で「崇爻」の下に(読みづらいが)「崇爻社」と書かれている。「崇爻社」が存在した地域は台湾東部の花蓮県。

尚、「崇爻九社」については、下の [ (台湾)中央研究院人文社會科學研究中心地理資訊科學研究專題中心 ] の [ 清代東部後山圖 ] 参照。

http://thcts.sinica.edu.tw/themes/rc18-1.php

 

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(注9-1) 下記urlのapex.cheng氏の[ 時 空 旅 人 ]・Xuite日誌の2015年9月9日付け記事・[ 貢寮 田寮洋 三貂社遺跡 ] 参照。

http://blog.xuite.net/apex.cheng/wretch/341340365-貢寮++田寮洋++三貂社遺跡

相傳在明天啟6年(1626)5月,一艘西班牙船隻行經台灣東北角一海灣,

>船上水手見到海岬外伸和三座小峰比鄰排列,

>恰似其故鄉聖地牙哥城,遂稱此地為「Santiago」,後來被當地人音譯為「三貂角」。

 

>因此,三貂角灣附近的部落便稱為三貂社或山朝社。

 

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(注9-2) 下記urlの蘭陽博物第29期(蘭陽博物館2007.06月電子報)記事参照。

http://enews.lym.gov.tw/content.asp?pid=81&k=580

 

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(注9-3) 中国語版・wikipedia「噶瑪蘭廳」参照。

https://zh.wikipedia.org/zh-tw/噶玛兰厅

 

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(注10) 原田禹雄 著・『尖閣諸島』(榕樹書林・2006年発行)・p.83に、[ 徐葆光著『中山伝信録』(一七二一年自序) ] とある。

 

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(注11)  原田禹雄 著・『尖閣諸島』(榕樹書林・2006年発行)・p.88の『中山伝信録』の版本の説明を参照。

 

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(注12) 早稲田大学図書館は下記のurlで徐葆光著『中山伝信録』(服部 蘇門 句読)の和刻本を公開している。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0123/

 

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(注13) 琉球大学図書館は下記のurlで徐葆光著『中山伝信録』を公開しており、5ページ目に「大日本明和三年」とある事から1766年発行の和刻本である事がわかる。

http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00030180

 

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(注14) 林子平 著・『三国通覧図説』の琉球に関する解説の末尾 (一四頁) に、「其治乱興廃ナルハ中山傳信録及白石先生琉球事畧アリ此二書琉球古今ノアリサマヲベシ」とある。

下記のurlの早稲田大学図書館公開の 林子平 著・『三国通覧図説 の 一四頁 参照。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01547/ru03_01547_0001/ru03_01547_0001_p0018.jpg

 

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(注15) 井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

(下記の巽良生氏のサイトに転載されている。)

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。

 

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(注16) "Lettres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中の"Mémoire sur les îles de Lieou-kieou " 矢沢利彦氏による日本語訳 (注17) がある。

 

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(注17) 『イエズス会士中国書簡集 5 (紀行編) 』(原著『Lettres édifiantes et curieuses,écrites des missions étrangères 』)・矢沢利彦 編訳・平凡社 (東洋文庫 251 ) 1974年初版第一刷・1987年1月20日初版第2刷発行 の「第七書簡」参照。

 

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(注18) 田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の記事[ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/teikokuhanto/010.jpg

>中山傳信録赤尾嶼久米赤島  黄尾嶼久場島  釣魚台魚釣島相当スヘキ

 

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(注19) wikipedia中国語版巡視臺灣監察御史」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/巡視臺灣監察御史

 

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(注20) wikipedia中国語版「黄叔璥」参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/黃叔璥

黃叔璥爲康熙四十八年(1709年)己丑科進士

 

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(注21) 安倍明義 編・『台湾地名研究』(昭和13年発行) は、国会図書館と提携する 図書館送信参加館 で閲覧可能。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1047806

書誌ID:000000724113

 

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(注22) 黄叔璥著・ 『台海使槎録』 の「武備」では、「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」の直後に「崇爻山下薛坡蘭可進三板船」とあり、原住民の語の発音に由来すると考えられる「薛坡蘭 (xuē pō lán)」は陳淑均著・『噶瑪蘭廳志』によれば「泗波瀾 (sì bō lán)」とも記述され、「秀姑巒 (xiù gū luán) 渓」 もしくは 秀姑巒渓の可口の島の「奚卜蘭 (xī bǔ lán) 島」に比定 (同定) されると考えられるので、秀姑巒渓の軍事的重要性は『台海使槎録』 の「武備」において言及されている。

 

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(注23) 『イエズス会士中国書簡集5』・矢沢利彦 編訳・平凡社(東洋文庫)・昭和49年5月16日発行・第六書簡(ド・マイヤー著)・p.184 参照。

 

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