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[ 重要追記 (2018年1月16日追記)]:旧・日本海軍水路部発行の以下の水路誌の記載内容から日本がサンフランシスコ講和会議まで尖閣諸島を八重山諸島に含めていなかった事が判明した。

 

『日本水路誌・第二巻』(明治27年刊行)の記事項目の「八重山列島」の島の最高点標高。

『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行)の記事項目の「先島群島」の緯度の範囲、「八重山列島」の島の最高点標高。

『臺灣南西諸島水路誌』 (書誌第5號・昭和16年3月刊行) の表紙の副題、目次、記事項目の「八重山列島」(p.125)の島の最高点標高・「赤尾嶼  尖頭諸嶼」(p.134)の解説で「南西諸島」と別個の存在である事。

[ 重要追記・2 (2018年4月22日追記)]:旧・日本海軍水路部発行の水路誌で日清戦争後最初に尖閣諸島に言及した『日本水路誌・第2巻付録』p.40・41では、尖閣諸島は「台湾北東ノ諸島」の一部として解説されている。(国会図書館デジタルコレクションで『日本水路誌・第2巻付録』はインターネット公開されている。)


 尖閣諸島は八重山諸島ではなく台湾の附属島嶼に含まれる

 

 1.尖閣諸島 (冊封使列島北部) を「八重山諸島」に含める公示抜きの編入は無効である。 ( 故・井上清・京都大学教授の指摘 )

 

   日本は日清戦争終結直後の明治29年(1896年)3月5日に沖縄県の郡編成に関する勅令・第13号を出している。(上掲の官報記事の画像参照。) その70年以上後に、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)による東シナ海の海底資源調査で石油の埋蔵が発見されると現在の沖縄県に相当する地域をアメリカの統治下で行政を行なっていた琉球政府 (注1) は1970年8月31日に声明で「明治二十九年四月一日,勅令十三号を沖縄県に施行されるのを機会に,同列島に対する国内法上の編入措置が行なわれております」と主張した (注2) 。

   これに対して、故・井上清・京都大学教授(当時)は、尖閣諸島を「八重山諸島」に含める公示抜きの編入は無効である旨の批判をされた (注3) 。

   実は後述のように、上述の1970年8月31日の琉球政府声明や尖閣諸島に関する資料調査報告書(平成27年度 内閣官房委託調査)(注4) による「明治29年・勅令・第13号で尖閣諸島が沖縄県の行政区分に含められた」とする旨の明治29年・勅令・第13号に対する解釈が誤っているのである。ただし、後述のように明治28年(1895年)1月14日の秘密閣議の『標杭建設ニ関スル件』 の記録には「沖縄県ノ所轄ト認ムル」とあるので文面上は明治28年(1895年)1月14日に沖縄県の所轄としたように読める。しかし、非公開の閣議だっただけでなく閣議の主題だった標杭の建設がなされなかった事から公然性に重大な欠陥があり、国家としての実効的占有があったとは認定できず明治28年(1895年)1月14日の秘密閣議の『標杭建設ニ関スル件』 によって尖閣諸島が日本領になったとの日本政府の主張は国際法に反する

 

1-2.尖閣諸島の基礎的行政区分編入は沖縄県での郡編成時の明治29年でなく日英同盟成立後の明治35年である。

   上述の井上清教授の指摘以外にも「明治29年・勅令・第13号で尖閣諸島が沖縄県の行政区分に含められたとする」と沖縄県の郡編成に関する明治29年・勅令・第13号を解釈するのには無理がある。なぜならば、明治29年当時は沖縄県下では基礎的な行政区分は「市町村」でなく (注5-1) 琉球王国時代からの「間切」 (注5-2)  という行政区分が使用されていたのであるが、その「間切」という基礎的行政区分に編入されたのは郡編成から6年後だったからである。日英同盟 (注6) 成立後の明治35年(1902年)12月になって、やっと大浜間切に編入 (注7) されたのである。

日本政府が尖閣諸島を無主地先占したと主張する1895年時点では、もし仮に日本政府が公に無主地先占を表明すれば尖閣諸島を発見した清朝中国のみならず1845年のベルチャー船長の測量・探検を理由に近代的実効支配で先行していたと英国に無主地先占を主張されれば勝てなかったからであろう。そのため、英国が尖閣諸島のような小さな無人島の領有よりロシア対策のパートナーとして日本を重視するのが明白になった1902年1月30日の日英同盟 (注6) 成立直後まで尖閣諸島も当時の沖縄県の基礎的な行政区分である「間切」に編入されなかったと私は推察している (別記事・[ 英国には割譲で得たと主張する予定だった ]参照) 。

   尚、日本政府としては明治28年(1895年)1月14日の(秘別第一三三号)秘密閣議の『標杭建設ニ関スル件(注8) において「沖縄県ノ所轄ト認ムル」とあるので文面上は沖縄県の所轄としていたとの主張は可能であろうが、明治28年(1895年)1月14日の秘密閣議で認めた標杭建設がなされず非公開であるため、無主地先占の行政区分編入としては公然性に欠け、国家としての実効的占有があったとは認定できないので、明治28年(1895年)の日清戦争終結(1895年5月8日)後の台湾引渡し(1895年6月2日)までに日本領になったとは認められない。すなわち、明治29年・勅令・第13号が出された時点では尖閣諸島は台湾の一部として日本領だったのである。その後、たとえ公表された明治三十年(1897年)・勅令第百六十九号・『葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定』 (注9) において、「沖縄県管下・・・・・魚釣島」としても、別件であるタバコ専売に関して「沖縄県管下」として島名が表示されただけで、しかも当時の地図には「魚釣島」として記載されてなかった事を考え合わせると、英国のように情報収集に熱心な国でも日英同盟成立前には沖縄県への編入を察知できなかったであろう。日清戦争終結後に清朝中国から台湾の付属島嶼として尖閣諸島が日本に割譲された後は尖閣諸島の行政上の区分を台湾から沖縄県に移動させるのは当時の日本政府の自由であったが、その手続きは日英同盟成立後の明治35年(1902年)12月に沖縄県の大浜間切に編入されるまでなされなかったと解すべきである。

2.明治28年(1895年)1月14日閣議では日本政府も久場島(黄尾嶼)・魚釣島 (釣魚嶼)は八重山群島に含まれないとの認識があった。

   明治28年(1895年)1月14日の(秘別第一三三号)秘密閣議の『標杭建設ニ関スル件(注8) では「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島」としており明治28年(1895年)1月14日時点では久場島(黄尾嶼)・魚釣島 (釣魚嶼) は八重山群島に含まれないとの認識が日本政府の閣僚にもあった事がわかる。尚、後述のように現時点でも日本の国土交通省(国土地理院や前身の国土庁を含む)は尖閣諸島は八重山諸島に含まれていないとの認識がある。

 

3.自然地理学的観点からは、「尖閣諸島」(冊封使航路列島北部) は八重山諸島に含めれない。

(1) 海底地形から考察すると、八重山海底地溝 (沖縄トラフの南西部分) が「尖閣諸島」(冊封使航路列島北部) と本来の八重山群島とを分断している。

   上掲の「尖閣諸島周辺の海底地形図」を見ると、「尖閣諸島」は中国大陸の大陸棚の辺縁に位置し、その南に八重山海底地溝 (沖縄トラフの南西部分) の深海底があり、その南に石垣島等の本来の八重山諸島があり、八重山海底地溝 (沖縄トラフの南西部分) が「尖閣諸島」と本来の八重山諸島とを分断しており、海底地形を踏まえた自然地理学的観点からは「尖閣諸島」を八重山諸島に含める事ができない事がわかる。さすがに、この事は日本の国土交通省も認めており、国土交通省の前身の国土庁が昭和52年に作成した『土地分類図付属資料 沖縄県』では八重山諸島と尖閣諸島を別個に分類している (注10-1) 。また、国土地理院ホームページで公開している地図でも「尖閣諸島」と八重山列島を別個に表示している (下掲の国土地理院の地図参照) (注10-2)

(2) 台湾-宍道褶曲帯は「尖閣諸島」が八重山諸島でなく台湾本島の附属島嶼である事を示す。

   台湾本島北部沖から、日本の五島列島まで東シナ海大陸棚の南東方向にある沖縄トラフで急激に水深が深くなっている。この大陸棚縁辺部や海底の崖状部分の地質構造が「台湾-宍道褶曲帯」 (注11) の東シナ海部分であり、磁気異常がある。「台湾-宍道褶曲帯」全体で見れば、台湾本島北部の草嶺山(桃園市大渓区)や大根島火山(島根県松江市)も、この「台湾-宍道褶曲帯」の小規模玄武岩質火山に属する。尚、「台湾-宍道褶曲帯」という名称がついているが磁気異常や小規模玄武岩質火山の分布から東端は日本の宍道湖ではなく丹後半島と考えられる。

 

   「台湾-宍道褶曲帯」の存在は既に1939年には指摘されていたようである (注12) が、クローズアップされたのはECAFEの東シナ海海底資源調査の予察的地質構造調査(Emery et al., 1969)以降と考えられる (注13) 。「台湾-宍道褶曲帯」によって、「尖閣諸島」)が台湾の附属島嶼である事が明確になった。

 

(3) 台湾本島北部から尖閣諸島の黄尾嶼 (久場島) にかけて玄武岩質の小規模な第四紀火山が点在する。

 

   台湾本島の北方の大陸棚縁辺部には棉花嶼 (注14) ・彭佳嶼 (注14) ・黄尾嶼 (久場島) (注15-1) ・赤尾嶼 (大正島) (注15-2) という地質的に新しい年代の第四紀 (注16) の小規模玄武岩の火山島が点在する。さらに、台湾本島北部には草嶺山 (注17) という第四紀の小規模玄武岩火山がある。そして、この黄尾嶼 (久場島)・赤尾嶼 (大正島) は尖閣諸島の島である。

ちなみに沖縄トラフの東側の与那国島から種子島には玄武岩質の小規模な第四紀の火山島は存在しない (注18) 。[ 久米島の宇江城岳の玄武岩は第四紀に噴出したと推定する学説も存在するが、火山島としての久米島の出現は新第三紀と考えられている。2018年12月22日・追記 ]

すなわち、第四紀の小規模玄武岩火山の分布からも尖閣諸島が地質学的に台湾の附属島嶼である事がわかる。

 

4.冊封使の航路として、清朝中国は1683年の第二回冊封以来、赤尾嶼沖に琉球王国の琉球三十六島と隔てる深い海「溝(郊)」(沖縄トラフ)の存在を知っていた。

   中国は宋王朝時代から水深250m程度まで測深する技術を有していた (注19)  。また、冊封使録から中国本土と琉球王国の間には深い「溝 (沖縄トラフ)」 が存在する事を認識し恐れていた様子が読み取れる。

   一方、日本も幕末の開国以降、欧米の航海技術を熱心に習得・実践しており、当時は既にワイヤー・ロープが発明されパテンティング処理されたピアノ線も製造されていた事 (注20) から、当時の最先端の技術なら沖縄トラフの最深部の測深も可能 (注21)で、日本海軍は日清戦争前に海戦の想定された東シナ海の測深を試み、(たとえ、沖縄トラフの最深部の測深まではしてなかったとしても) 少なくとも清朝中国と同等程度の測深はしていたはずで、下関条約締結前に釣魚嶼 (魚釣島) ・黄尾嶼 (久場島) ・赤尾嶼 (大正島) と石垣島・与那国島の間に深い海があって海底地形として分断されている事を知っていたはずである。


重要参考資料:

井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊)

(下記の巽良生氏のサイトに転載されている。)

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html


目次

2017年12月13日 (2016年11月23日・当初版は こちら 。) ・・・最終追記は2018年12月29日

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 尖閣諸島は八重山諸島ではなく台湾の附属島嶼に含まれる   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


注釈

(注1) wikipedia「琉球政府」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/琉球政府

 

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(注2)  第二次世界大戦後のECAFEの東シナ海の海底資源調査で石油の埋蔵が判明した後の1970年にアメリカの占領下の琉球政府は「尖閣列島の領土権について」の声明を出し上記の勅令・第13号によって尖閣諸島を編入したとの主張をした。(下記の [ 尖閣列島に関する琉球立法院決議および琉球政府声明  ] 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室・データベース参照)

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19700831.O1J.html

>そこで一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議は正式に,八重山群島の北西にある魚釣島,久場島を同県の所属と認め,

>沖縄県知事の内申通り同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し,その旨を同月二十一日県知事に指令しております。

>さらに,この閣議決定に基づいて,明治二十九年四月一日,勅令十三号を沖縄県に施行されるのを機会に,

>同列島に対する国内法上の編入措置が行なわれております。

>沖縄県知事は,勅令十三号の「八重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈して,同列島を地方行政区分上,八重山郡に編入させる措置をとったのであります。

>沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は,たんなる行政区分上の編入にとどまらず,

>同時にこれによって国内法上の領土編入措置がとられたことになったのであります。

 

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(注3) 井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

(下記の巽良生氏のサイトに転載されている。)

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

> これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。

>勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、

>鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、

>八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。

>この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。

>これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧琉球王国領でもないことは、百も承知である。

>その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。

>当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、

>現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、

>という事実を打ち消すことはできない。

 

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(注4) 下記urlの尖閣諸島に関する資料調査報告書(平成27年度 内閣官房委託調査)』PDF(文書ページ表示でp.13、PDFファイルのページ表示でp.8左)参照。

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku02.pdf

>1896年3月に公布された勅令第13号「沖縄県郡編制ニ関スル件」で確定した沖縄県の行政区分に

>尖閣諸島(魚釣島)が含まれていることを裏付けていると考えられる。

 

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(注5-1) wikipedia「島嶼町村制」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/島嶼町村制

 

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(注5-2) wikipedia「間切」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/間切

 

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(注6) wikipedia「日英同盟」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日英同盟

 

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(注7) 石垣市役所公式ホームページにおける石垣市教育委員会市史編集課作成記事・『八重山近・現代史年表』 (明治12年~昭和20年8月14日まで) 参照。

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/Timeline/timeline-page/timeline-11.html

>明治35年(1902)

>・・・・・

>12月    尖閣諸島魚釣島・久場島・南小島・北小島、大浜間切に編入、登野城村に地籍を設定

 

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(注8) アジア歴史資料センター 資料(レファレンスコード:A01200793600、国立公文書館・請求番号・類00715100)参照。

尚、田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の「日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) 」のページの記事「標杭建設を閣議決定 1895年1月14日」に関する閣議決定資料(1)

閣議決定資料(2)にはカラー画像がある。

 

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(注9) アジア歴史資料センター 資料(レファレンスコード:A03020291100)・明治三十年・勅令第百六十九号『葉煙草専売法ヲ施行セサル地方指定』参照。

 

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(注10-1) 国土交通省ホームページにて公開されている下記urlの昭和52年付け『土地分類図付属資料 沖縄県』PDF(資料に付されているページではp.4・p.5、PDFファイルのページではp.12・p.13)参照。

http://nrb-www.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F2/MAP/247010.pdf

>(6) 八重山諸島

>・・・・・(中略)・・・・・

>(7) その他の島嶼

>尖閣諸島は・・・・・

 

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(注10-2) 下記urlでの国土地理院ホームページ公開地図参照。

http://maps.gsi.go.jp/#7/25.428393/124.057617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

 

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(注11) wikipedia「台湾-宍道褶曲帯」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾-宍道褶曲帯

 

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(注12) 文部科学省研究開発局・東京大学地震研究所作成・ 『日本海地震・津波調査プロジェクト・平成27年度・成果報告書 』の「沿岸海域および海陸統合構造調査・(その3)」に「台湾-宍道褶曲帯」に冠する1939年の論文の引用がある。

http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/project/Japan_Sea/JSH27Report/PDF/14-3_H27JSPJ-C3.2.3b.pdf

>これらの褶曲は、台湾-宍道褶曲帯(Otsuka、1939)17) の方向と一致し、

>・・・・・

>17)Otsuka, Y.:Tertiary crustal deformations in Japan. Jubilee Publication for

>Commemoration of Professor H. Yabe's 60 th Birthday, 481-519,1939.

 

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(注13) 井上卓彦(2007):『東シナ海における地質構造発達史-研究レビュー-』・地質ニュース633号・p.37-38参照。

https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/07_05_08.pdf

東シナ海から琉球弧では,ハント号(アメリカ )により

>1968年に行われた黄海~東シナ海における予察的地質構造調査

>(Emery et al., 1969)によって,堆積盆などの分布が明らか

>にされて以来,様々な調査・研究が行われてきました.

>・・・・・

>中国大陸沿岸部から続く東海大陸棚は,

>地形的に中国大陸沿岸から伸びる浅い陸棚で,

>東シナ海大陸棚とも呼ばれ,一般に起伏に乏しく平坦です.

>五島列島から尖閣列島を結ぶ線が大陸棚縁辺部で,

>その水深は約140~160mほどです.

>この縁辺部は地質構造的に五島・尖閣隆起帯

>(台湾-宍道褶曲帯:Emery and Niino, 1967)

>と呼ばれ(加賀美ほか, 1971; 相場・関谷, 1979),

>東海大陸棚はこの内側に第三紀,第四紀の堆積物が

>充填して形成されたものであると考えられています.

 

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(注14) (台湾) 國立自然科學博物館・ホームページ・「自然與人文數位博物館」の「台灣之火山活動與火成岩」の「北方三島彭佳嶼、棉花嶼、花瓶嶼的岩石」参照。

http://digimuse.nmns.edu.tw/Default.aspx?tabid=369&ObjectId=0b00000181da5457&Domin=g&Field=ri&ContentType=Exhibit&Language=CHI&FieldName=

 

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(注15-1) 産総研地質調査総合センターのホームページ・「日本の火山」・「久場島」参照。

https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/L20.html

 

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(注15-2) 産総研地質調査総合センターのホームページ・「日本の火山」・「大正島」参照。

https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/L19.html

 

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(注16) wikipedia「第四紀」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/第四紀

 

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(注17) 下記urlの(台湾) 國立自然科學博物館・自然與人文數位博物館サイト記事参照。

http://digimuse.nmns.edu.tw/Default.aspx?ContentType=Exhibit&Domin=g&Field=ri&Language=CHI&ObjectId=0b00000181da546b&tabid=369

(台湾) 國立自然科學博物館ホームページ・「火山教室」の「草嶺山」参照。

http://web2.nmns.edu.tw/89volcano/out-214.htm

 

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(注18) 産総研地質調査総合センターのホームページ・「日本の火山」・「第四紀火山」参照。

https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/index.html

 

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(注19) 下記の[ 指南針與古代航海 ]サイト記事によれば、宋朝中国時代に70丈あまりの測深技術があったらしい (ただし、原典不明) 。

http://hk.chiculture.net/0802/html/a08/0802a08.html

宋朝已可以測定水深七十多丈了。

 

宋の時代の「丈」は下記の山田崇仁氏の[ 睡人亭 ]サイトの[ 中国学用単位系の換算 ]によれば約3.12mだそうである。

http://www.shuiren.org/chuden/toyoshi/doryoukou/du.htm

 

よって、明の時代には大陸棚より深い水深250m程度の測深は可能だったと思われる。ちなみにポルトガルのマゼランは16世紀前半に700m程度の測深索を使用する事もあった(注20)そうである。

 

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(注20) 下記の中村工業株式会社のワイヤーロープの総合サイト [ ロープファクトリー ] の [ ワイヤロープの歴史 ] 参照。

http://www.rope.co.jp/lecture/history.html

 

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(注21) 下記の財団法人日本水路協会 海洋情報研究センターのサイトの記事 [ 海洋調査の歴史 ] 参照。

http://www.mirc.jha.or.jp/knowledge/survey/history.html#intl

>1519~21年      マゼラン(ポルトガル) ビクトリア号で南米を回り太平洋横断、太平洋で最初の大洋測深を行うも700m程の索では海底届かず。

>・・・・・(中略)・・・・・

>1874年  タスカロラ号(米) ピアノ線を使用した深海測深で千島列島ウルップ島南東に8,514mの海淵を発見。

 

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