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 英国には割譲で得たと主張する予定だった

問題の所在:

    1895年1月14日の閣議決定で魚釣島 (釣魚嶼) や久場島 (黄尾嶼) に標杭 (国標) の建設許可が出たのに、沖縄県知事が標杭 (国標) の建設しなかった事 (注1) や、沖縄県の郡編成で八重山郡に八重山諸島しか編入せず尖閣諸島を編入しなかった事 (別記事・[ 尖閣諸島は八重山諸島ではなく台湾の附属島嶼に含まれる ] 参照) や、地形図で久場島に日本での正式名の日本名「久場島」ではなく中国名の「黄尾嶼」を使用し、大正島も中国名の「赤尾嶼」を優先した事や、 地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)中の一般図において沖縄県と鹿児島県に境界線があるのに沖縄県と台湾の間に境界線が無い事 (下掲図 及び 別記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す ] 参照) は過失では説明がつかない。日本の行政や地図作成で過失は滅多に無いはずなので四重もの過失はありえないからである。

上掲の旧版・5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は下記の国土地理院 WEB サイトで公開されている。

http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-※

 


私の見解:

 

   上述の尖閣諸島に関する日本の不可解な行動は、「英国には割譲で得たと主張する予定だった」と考えると納得できるのである。その私の仮説を以下に示す。

   サマラン号ベルチャー船長の1845年の調査 (注2) は、記録上は世界最初の尖閣諸島の調査であり、経度・緯度及び標高も若干の誤差はあるものの十分に実用的な水準の測量だった。それゆえ、日英同盟 (注3) が締結された1902年までは、日本は実効支配で英国と争っても仲裁裁判で勝てなかったはずである。1896年に国から尖閣諸島を借り受けた古賀辰四郎氏が1897年から本格的に開拓に着手しているが特権も明確な授権も無い個人の占有は国際法上は国家の占有とはみなされないからである。(もし仮に、古賀辰四郎氏に特権を与えるか授権をしても、最初の1年間は仲裁裁判で勝てないし、当時、有色人種は欧米諸国から下に見られていた事や英国が世界最強国家だった事も考えると、やはり、1902年までは仲裁裁判で勝てなかったであろう。)

   それゆえ、もし仮に、英国がサマラン号ベルチャー船長の1845年の調査の実績を以って尖閣諸島の無主地先占を主張してきた場合に、日本は尖閣諸島を無主地先占で得たと主張すれば英国に国際法上勝てないので、日本は尖閣諸島を日清戦争の戦果として清朝中国から割譲を受けたと説明する予定だったと考えれば、上述の尖閣諸島に関する日本の不可解な行動も合理的な整合性があったと納得できるのである。(ただし、日英同盟が締結された1902年から日英同盟失効の1923年 (注3) までは英国は同盟国の日本に尖閣諸島の無主地先占の権利の主張はしなかったであろう。また、現実的に考えても、当時は古賀辰四郎氏の尖閣事業も成功し多数の労働者が尖閣諸島で居住しており、いかに個人の占有が国家による占有とみなされないとしても、古賀辰四郎氏と労働者を強制排除して英国が占有するのは困難があったはずである。)

 

   しかし、日英同盟失効の1923年以降に1933年の日本の国際連盟 (注4) 脱退によって日本と英国の関係は険悪になっており、更に、その頃に、古賀氏の尖閣諸島からの事業撤退が重なっており (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ] 参照) 、日本にとっては、再び英国による尖閣諸島の無主地先占主張の潜在的脅威が復活したのである。(現在の国土地理院の前身の)陸地測量部が実測もせずに 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』を昭和8年(1933年)に発行したのは、地形図による実効支配と、日清戦争の戦果として下関条約で清朝中国から「割譲」されたとの主張の余地を明確にする意図があったものと思われる。尚、実測しなかったのは航空機の発達により「望楼」・「見張り所」 (注5) として軍事利用する必要性が減少し、昭和8年(1933年)当時レーダー未開発だった日本にとって尖閣諸島の軍事的価値が大幅に低下し、資源としてもアホウドリの減少や採算の合うグアノ (海鳥の糞が固まって燐鉱石になった物) は採り尽くした事により、昭和8年時点の日本にとっては、尖閣諸島の価値が低く実測するほどの価値がなかったためと思われる。


目次

2016年11月28日 (2016年11月27日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 英国には割譲で得たと主張する予定だった   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 下記の故・井上清・京都大学教授の指摘による。

 

井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

(下記の巽良生氏のサイトに転載されている。)

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

> のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。

>日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。

>標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。

>すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、

>この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、

>長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、

>その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、

>下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

> (註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 

 

尚、上記の故・井上清・京都大学教授の指摘に対して、現在まで40年以上経過しているが日本政府や沖縄県や日本領論者から(事実誤認との)反論は無い。

 

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(注2) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ] の [ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ] 参照。

   ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。

   尚、本来、「Hoa-pin-san」は冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』の「針路図」では釣魚台 (魚釣島) の二つ手前の花瓶嶼を意味するはずだったのにフランス人のイエズス会士・Gaubil神父がフランスのイエズス会に送った手紙に添付した地図で一つズレ、後年、フランスの調査隊のラペルーズ船長の故意または重過失によって更に一つズレて欧米の海図に釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」と記載され、その後に、サマラン号艦長Sir Edward Belcherが冊封使船の航路でなく南からアプローチし、雇った石垣島の水先案内人達 (Pa-tchung-san pilots) が「Hoa-pin-san」という名前を知らなかった事からサマラン号艦長Sir Edward Belcherはラペルーズ船長由来の誤った名前で表記された海図によって釣魚嶼 (魚釣島)に行き、ラペルーズ船長由来の誤った名前のまま調査報告したため、欧米では釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」として定着した (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照 )

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(注3) wikipedia「日英同盟」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日英同盟

 

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(注4) wikipedia「国際連盟」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/国際連盟

 

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(注5) 日本が離島に軍事用の望楼を設置した事例として、日露戦争の日本海海戦直後に竹島(リアンクール岩・独島)に望楼を造り海底ケーブルを引いた事例がある。

 

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