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 英国には割譲で得たと主張する予定だった

 

    21世紀の日本人の大多数は日清戦争後の沖縄県や (現在の海上保安庁海洋情報部の前身の) 旧・海軍省の外局の水路部 (注1-1) (注1-2)  や (現在の国土地理院の前身の) 参謀本部・陸地測量部 (注2) の以下の対応に驚くであろう。その原因について考察する。

 

(1) 1895年1月14日の閣議決定で魚釣島 (釣魚嶼) や久場島 (黄尾嶼) に標杭 (国標) の建設許可が出たのに、沖縄県知事が標杭 (国標) の建設しなかった事 (別記事・[ 国標を設置しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有 ]参照) (注3)

(2) 海軍水路部作成水路誌が尖閣諸島の表記を日清戦争前の英語名のカタカナ表記から日清戦争直後に中国名に変更した事 (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。

(3) 海軍水路部作成水路誌が日清戦争後に台湾領有を契機に臨時に刊行した水路誌・『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)で尖閣諸島を含む冊封船が航路目標と島を「台湾北東の諸島」に含めた事 (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍 ]参照)。ちなみに「台湾の附属島嶼」は下関条約での割譲対象。

(4) 海軍水路部作成水路誌には明治維新以降、日本は無主の島の先占をしてきた島や諸島である小笠原群島・大東島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島(南沙諸島)については所轄(管轄)や編入(領有)の記述があるが、尖閣諸島については所轄(管轄)の記述も編入(領有)の記述も存在しない事 (別記事・[ 海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。

(5) 陸軍陸地測量部作成の地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)においても久場島に日本での正式名の日本名「久場島」ではなく中国名の「黄尾嶼」を使用し、大正島も中国名の「赤尾嶼」を優先した事や、 地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)中の一般図において沖縄県と鹿児島県に境界線があるのに沖縄県と台湾の間に境界線が無い事 (下掲図 及び 別記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す ] 参照) 。(境界線が存在しないだけなら引き忘れの可能性もありうるが、島名の中国名表記を優先した事から境界線が無いのは引き忘れでない事がわかる。)

(6) 尖閣諸島が沖縄県の基礎的行政区画であった「間切」 (注4)に編入されたのは秘密閣議が沖縄県の所轄とした1895年でも沖縄県の郡編成時の1896年でもなく、日英同盟 (注5) 締結後の1902年12月であり (注6-1)、その「間切」編入は地元新聞記事にも掲載されなかったコッソリ編入だった事 (注6-2)

   上述の(5)は特に奇異で文章だけでは理解困難な方も多いと思われるので下に掲載する。「一般図」についてはクリックすれば拡大画像が閲覧できるようにした。信じられない方は、国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、閲覧または鮮明な抄本 (または謄本) の購入をされたい。尚、低解像度画像は国土地理院ホームページで閲覧可能 (注7)

    

 


私の見解:

 

   上述の尖閣諸島に関する日本の不可解な行動は、「英国には割譲で得たと主張する予定だった」と考えると納得できるのである。その私の仮説を以下に示す。

   サマラン号ベルチャー船長の1845年の調査 (注8) は、記録上は世界最初の尖閣諸島の上陸調査であり、経度・緯度及び標高も若干の誤差はあるものの十分に実用的な水準の測量だった。また、サマラン号ベルチャー船長の1845年の調査後も英国は尖閣諸島の洋上からの測量を継続していた可能性が高く、日英同盟 (注5) が締結された1902年までは、日本は実効支配で英国と争っても仲裁裁判で勝てなかったはずである。1896年に国から尖閣諸島を借り受けた古賀辰四郎氏が1897年から本格的に開拓に着手しているが特権も明確な授権も無い個人の占有は国際法上は国家の占有とはみなされないからである。(もし仮に、古賀辰四郎氏に特権を与えるか授権をしても、最初の1年間は仲裁裁判で勝てないし、当時、有色人種は欧米諸国から下に見られていた事や英国が世界最強国家だった事も考えると、やはり、1902年までは仲裁裁判で勝てなかったであろう。)

   それゆえ、もし仮に、英国がサマラン号ベルチャー船長の1845年の調査の実績及びその後の継続的な測量を以って尖閣諸島の無主地先占を主張してきた場合に、日本は尖閣諸島を無主地先占で得たと主張すれば英国に国際法上勝てないので、日本は尖閣諸島を日清戦争の戦果として清朝中国から割譲を受けたと説明する予定だったと考えれば、上述の尖閣諸島に関する日本の不可解な行動も合理的な整合性があったと納得できるのである。(ただし、日英同盟が締結された1902年から日英同盟失効の1923年 (注5) までは英国は同盟国の日本に尖閣諸島の無主地先占の権利の主張はしなかったであろう。また、現実的に考えても、当時は古賀辰四郎氏の尖閣事業も成功し多数の労働者が尖閣諸島で居住しており、いかに個人の占有が国家による占有とみなされないとしても、古賀辰四郎氏と労働者を強制排除して英国が占有するのは困難があったはずである。)

   しかし、日英同盟失効の1923年以降に1933年の日本の国際連盟 (注9) 脱退によって日本と英国の関係は険悪になっており、更に、その頃に、古賀氏の尖閣諸島からの事業撤退が重なっており (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ] 参照) 、日本にとっては、再び英国による尖閣諸島の無主地先占主張の潜在的脅威が復活したのである。(現在の国土地理院の前身の)陸地測量部が上陸による実測をせずに洋上からの測量で 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』を昭和8年(1933年)に発行したのは、地形図による実効支配と、日清戦争の戦果として下関条約で清朝中国から「割譲」されたとの主張の余地を明確にする意図があったものと思われる。尚、上陸による実測をしなかったのは急いだためだけでなく、航空機の発達により「望楼」・「見張り所」 (注10) として軍事利用する必要性が減少し、昭和8年(1933年)当時レーダー未開発だった日本にとって尖閣諸島の軍事的価値が大幅に低下し、資源としてもアホウドリの減少や採算の合うグアノ (海鳥の糞が固まって燐鉱石になった物) は採り尽くした事により、昭和8年時点の日本にとっては、尖閣諸島の価値が低く上陸による実測をするほどの価値がなかったためと思われる。

   尚、日本海軍水路部 (注1-1) (注1-2) 作成の水路誌や日本陸軍の参謀本部陸地測量部 (注2) 作成の地形図が割譲を強く示唆するのは、英国に対する対策だけでなく、日本の軍部として日清戦争の大勝利による戦果としてアピールしたいという欲求もあったと推定される。仮に「無主地先占」なら文官の功績になり軍の功績が否定されてしまうからである。

 


目次

2018年12月29日 (2016年11月27日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 英国には割譲で得たと主張する予定だった   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1-1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。

http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html

>1888年 明治21年 6月27日                  水路部          海軍の冠称を廃し水路部と改称

 

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(注1-2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかる。

https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html

 

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(注2) 下記urlの国土地理院資料参照。

http://www.gsi.go.jp/common/000102612.pdf

>1888●測量局が陸軍参謀本部陸地測量部を経て、

>翌年に参謀本部陸地測量部となる。

 

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(注3) 下記の故・井上清・京都大学教授の指摘による。

 

井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

(下記の巽良生氏のサイトに転載されている。)

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

> のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。

>日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。

>標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。

>すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、

>この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、

>長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、

>その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、

>下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

> (註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 

尚、上記の故・井上清・京都大学教授の指摘に対して、現在まで40年以上経過しているが日本政府や沖縄県や日本領論者から(事実誤認との)反論は無い (別記事・[ 国標を設置しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有 ]参照)。

 

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(注4) 沖縄県では1908年(明治41年)4月1日まで基礎的行政区画は町村ではなく、「間切」という琉球王国時代の行政区画が継続使用されていた。

wikipedia「間切」(2017年9月11日 (月) 07:27版) 参照。

 

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(注5) wikipedia「日英同盟」 (2018年7月25日 (水) 17:10版) 参照。

 

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(注6-1) 石垣市役所公式ホームページにおける石垣市教育委員会市史編集課作成記事・『八重山近・現代史年表』 (明治12年~昭和20年8月14日まで) 参照。

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/Timeline/timeline-page/timeline-11.html

>明治35年(1902)

>・・・・・

>12月    尖閣諸島魚釣島・久場島・南小島・北小島、大浜間切に編入、登野城村に地籍を設定

 

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(注6-2)  下記urlの石垣市による『尖閣諸島関連記事データベース』(明治)参照。

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/list.php?era=m

 

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(注7) 下掲の旧版・5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)の低解像度画像は下記の国土地理院 WEB サイトで公開されている。

http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14

鮮明な画像は国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧可能。また、鮮明な謄本・抄本も購入可能可能。詳細は国土地理院ホームページの「地形図・地勢図図歴」参照。

 

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(注8) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ] の [ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ] 参照。

Sir Edward Belcher・サマラン号艦長の航海記全体は下記urlの「The Internet Archive」ホームページにおいて University of California Libraries の蔵書がMicrosoft社の支援により公開されている。

https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala

https://archive.org/stream/narrativeofvoyag01belciala#page/n409

https://archive.org/details/narrativeofvoyag02belciala

https://archive.org/stream/narrativeofvoyag02belciala#page/572/mode/2up

   ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。

   尚、本来、「Hoa-pin-san」は冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』の「針路図」では釣魚台 (魚釣島) の二つ手前の花瓶嶼を意味するはずだったのにフランス人のイエズス会士・Gaubil神父がフランスのイエズス会に送った手紙に添付した地図で一つズレ、後年、フランスの調査隊のラペルーズ船長の故意または重過失によって更に一つズレて欧米の海図に釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」と記載され、その後に、サマラン号艦長Sir Edward Belcherが冊封使船の航路でなく南からアプローチし、雇った石垣島の水先案内人達 (Pa-tchung-san pilots) が「Hoa-pin-san」という名前を知らなかった事からサマラン号艦長Sir Edward Belcherはラペルーズ船長由来の誤った名前で表記された海図によって釣魚嶼 (魚釣島)に行き、ラペルーズ船長由来の誤った名前のまま調査報告したため、欧米では釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」として定着した (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照 )

 

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(注9)  wikipedia「国際連盟」 (2018年9月13日 (木) 10:16版) 参照。

 

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(注10) 日本が離島に軍事用の望楼を設置した事例として、日露戦争の日本海海戦直後に竹島(リアンクール岩・独島)に望楼を造り海底ケーブルを引いた事例がある。

下記urlの島根県ホームページの塚本孝氏著の竹島研究会参考資料参照。

https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/07.pdf

 

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