5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す
問題の所在: 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島の「久場島 (黄尾嶼) 」・「大正島 (赤尾嶼) 」が石垣町に属す事は示されているものの、久場島 (黄尾嶼)は、当時の正式名称であった日本名の「久場島」ではなく、「黄尾嶼」という中国名で表示されており、右下の「一般図」には沖縄県と鹿児島県との境界線が引かれているにも関わらず、沖縄県と台湾との間の行政区画の境界線が存在しません。尚、大正島の名称も中国名の「赤尾嶼」が日本の正式名の「大正島」より優先的に表示されています。しかし、国土地理院の前身の陸地測量部が二重に間違う事など考えられません。 |
上図の緑枠部分の拡大画像を下に示します。下の「一般図」はクリックすると鮮明な画像が表示されます。
私の見解:
5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』発行の約二ヶ月前の昭和8年(1933年)3月27日に日本は国際連盟を脱退しており、日英同盟が既に10年前に失効した英国とは険悪な関係になっており、尖閣諸島で事業を展開していた古賀氏も尖閣諸島から撤退しかけてました (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ] 参照) 。そのため、もし仮に、英国がサマラン号ベルチャー船長の1845年の調査 (注1) の実績を以って尖閣諸島の無主地先占を主張してきた場合に、日本は尖閣諸島を無主地先占で得たと主張すれば英国に国際法上勝てないので、日本は尖閣諸島を日清戦争の戦果として清朝中国から「台湾の附属島嶼」として割譲を受けたと説明する予定だったと考えられます (別記事・[ 英国には割譲で得たと主張する予定だった ] 参照) 。そのため、「台湾の附属島嶼」として割譲を受けたと説明しやすいように「久場島」を中国名「黄尾嶼」と表記し、「大正島」は中国名「赤尾嶼」の表記を優先させ、沖縄県と台湾の間に境界線も引かなかったのでしょう。(尚、「石垣村」と表記したのは中華民国漁船員救助で中華民国領事に「沖縄県八重山郡尖閣列島」と通知したので誤魔化しようがなかったためでしょう。)
更に、5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)を作成した陸地測量部 (注2) は (陸軍の) 参謀本部に属しており、 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』が発行された昭和初期には、軍部は国際的な軍縮に同調する議会制民主主義と敵対を初め、昭和7年には五・一五事件を引き起こしており、尖閣諸島が日本領になった原因(権原)を「無主地先占」ではなく、日清戦争の勝利によって得た戦果としての「割譲」と主張したかった動機もあった可能性があります。「無主地先占」だと文官役人の功績になりますが戦果による「割譲」だと軍の功績になるからです。そういう意味でも、日清戦争の講和条約(下関条約)で割譲された台湾の附属島嶼だと示したくて「久場島」を中国名の「黄尾嶼」とし、沖縄県と台湾との間に境界線を引かなかったのでしょう。
2018年10月8日 (2016年10月18日・当初版は こちら 。)
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。参考サイト:
国土地理院 WEB サイト における旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)参照。下記urlのページの一覧でリスト番号「164-14-9」 をクリックすると表示できます。
画像は不鮮明です。
http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14
鮮明な画像は国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧することができます。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/etsuran.html
また、鮮明な謄本・抄本も購入可能です。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html
(注1) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ] の [ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ] 参照。
Sir Edward Belcher・サマラン号艦長の航海記全体は下記urlの「The Internet Archive」ホームページにおいて University of California Libraries の蔵書がMicrosoft社の支援により公開されている。
https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala
https://archive.org/stream/narrativeofvoyag01belciala#page/n409
https://archive.org/details/narrativeofvoyag02belciala
https://archive.org/stream/narrativeofvoyag02belciala#page/572/mode/2up
ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。
尚、本来、「Hoa-pin-san」は冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』の「針路図」では釣魚台 (魚釣島) の二つ手前の花瓶嶼を意味するはずだったのにフランス人のイエズス会士・Gaubil神父がフランスのイエズス会に送った手紙に添付した地図で一つズレ、後年、フランスの調査隊のラペルーズ船長の故意または重過失によって更に一つズレて欧米の海図に釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」と記載され、その後に、サマラン号艦長Sir Edward Belcherが冊封使船の航路でなく南からアプローチし、雇った石垣島の水先案内人達 (Pa-tchung-san pilots) が「Hoa-pin-san」という名前を知らなかった事からサマラン号艦長Sir Edward Belcherはラペルーズ船長由来の誤った名前で表記された海図によって釣魚嶼 (魚釣島)に行き、ラペルーズ船長由来の誤った名前のまま調査報告したため、欧米では釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」として定着した (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照 )。
(注2) 下記urlの国土地理院資料参照。
http://www.gsi.go.jp/common/000102612.pdf
>1888●測量局が陸軍参謀本部陸地測量部を経て、
>翌年に参謀本部陸地測量部となる。