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昭和初期に無人化していた尖閣諸島

 

   尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) (注1) は、昭和初期には既に無人化していたのである。

   尖閣諸島開拓者の古賀辰四郎氏の息子の古賀善次氏の妻である古賀花子氏は尖閣諸島の領有問題発生後に尖閣諸島で鰹節工場を「昭和十六年まで」 していたと述べているが (注2) 、これはウソと考えられる。1940年(昭和15年)2月5日に発生した「大日本航空阿蘇号不時着事故」 (注3) 当時、既に無人島だったからである。

   それどころか、その前年の1939年5月25日に尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を調査した石垣島測候所の正木任氏の報告『尖閣群島を探る』 (注4) によれば、「行政上は沖縄県 八重山郡石垣町字 登野城に属すれども、昔から定住する者全くなく、明治20年頃から大正年間漁期に漁夫が、一時的に鰹製造のために住むくらいのものであった。」との事である。また、調査当時、魚釣島 (釣魚嶼) にいたのは与那国島から汽船や軍艦等のデッキ用箒のための蒲葵の葉脈採取の一団がいたものの古賀氏の従業員はいなかったようで「古賀商店の古い鰹製造所の跡」があったのみのようである。

   また、1930年7月28日の 先嶋朝日新聞の記事 [ この頃無人島 古賀氏より拂下出願 ] (注5) によれば、記者の文章と思われる部分では、「現在では月給十五円で番人を三人おいて夜光貝の採取等をさせ、冬になると漁業等をして少し賑わうようである。」とあるが、現地で16日間調査をした沖縄営林署属仲宗根嘉四郎氏の談話では、「無人島は南小島、北小島、久場島、魚釣島、からなっていて」と食い違っており、古賀氏が払い下げ申請した昭和5年段階で無人島だったのに払い下げ交渉を有利にするため古賀氏側がウソを記者に述べた可能性も排除できない。

   久場島 (黄尾嶼) については、更に早い時期にリン酸肥料の原料の石化した鳥糞 (グアノ) を削り取り終わった後で撤退していた疑いがある。

 

   古賀氏は尖閣諸島で自然環境破壊して収奪的に利益を出す事により占有をしていたので、もし仮に日本にアメリカの「グアノ島法」 (注6) のような個人の占有に自動的に国家の実効支配代理の授権をする法律があったと仮定しても、収奪後に撤退した時点で実効支配が終了して「無主地」に戻ると解すべきである。少なくとも、古賀辰四郎氏・古賀善次氏親子による個人の収奪的占有を国家の(プラスの意味の)実効的占有と認定すべきではない。


なぜ、古賀氏は尖閣諸島から撤退したのかの原因は、次のいずれかもしくは、その複合であると考えられる。

 

(1) 日本政府が尖閣諸島周辺の漁業権が台湾側にあると認めた可能性

   これは昭和10年代に、古賀氏の尖閣諸島でのカツオ漁の衰退と入れ替わって台湾漁船が尖閣諸島周辺に出漁していた事実 (注7) 及び、台湾の元・総統である李登輝氏の「戦前の日本の国会は、尖閣諸島と与那国、基隆(キールン)の漁業権を台湾に譲っている。」という発言 (注8) と符合する。ただし、私が国立国会図書館の[ 帝国議会会議録検索システム ]で「台湾 漁業権」のキーワード検索しても、李登輝発言を裏付ける記録は発見できなかった。(私の探し方が悪かったのか李登輝氏がウソ・ハッタリを述べたのか日本政府が記録を隠しているのか不明である。) もし仮に李登輝発言が真実だとしても、古賀氏も細々ながら昭和10年くらいまで尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) 周辺で漁業していたとすれば、たとえば島から3海里内だけ古賀氏に漁業権を認め、3海里外を台湾側の漁業権としたような場合も考えられる。

   尚、中国領論者の中には日本の裁判所の判決で台湾側に漁業権が認められたとの主張を以前見た事があり、私は図書館で少し調べたが発見できなかった。もし仮に日本の裁判所の判決によると主張するなら裁判所名と事件番号を示すか、裁判所名と判決日付を示すべきであり、それ抜きの主張は妄言としか思えない。

 

(2) 収奪的・環境破壊的利用により資源が減少し採算が取れなくなった可能性。 ( 別記事・[ 日本は尖閣諸島で環境破壊をしまくっていた ] 参照。 )

   黄尾嶼 (久場島) については、グアノ (ウミドリの糞が固まったもので肥料等の原料) は大部分を採り尽くした事と逃亡した家猫のつがいによるネコの繁殖によってアホウドリが居なくなった事が撤退の原因と考えられる。カツオについてはダイナマイト漁をしていたとすればカツオが魚釣島 (釣魚嶼) に寄り付かなくなった可能性も少しはある。しかし、台湾から尖閣諸島に出漁していた漁船が多かった (注7) そうなので、それほど減ってなかったはずである。

 

(3) 日本が尖閣諸島の港湾整備をしなかったため20トン以上の漁船が利用できず、台湾漁船との競合で敗れた可能性。

尖閣諸島事業の開拓者である古賀辰四郎氏が漁師と共に造った船着場に接岸できたのは15トン程度の比較的小型の船のみだったため採算性が悪かった可能性がある。もし仮に、日本政府や地元自治体が港湾建設をしなかった事が古賀氏撤退の大きな原因ならば、日本の行政の欠落であって国家としての実効的占有の欠落である。( 別記事・[ 日本は尖閣諸島において必要な行政を行っていなかった ] 及び [ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ] 参照 )

 


目次

2016年11月22日( 2016年11月17日・当初版は こちら 。 )

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 昭和初期に無人化した尖閣諸島   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1)  歴史的・自然地理学的観点からすれば、「尖閣諸島」というより「冊封使航路列島北部」というべきである。

 

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(注2) 『沖縄現代史への証言・下』(1982年2月発刊)の古賀善次氏の妻、花子氏へのインタビュー記事参照。
(田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の『古賀花子へのインタビュー in 1979』参照)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/kogazenji/index.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

 

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(注3) wikipedia「大日本航空阿蘇号不時着事故」参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本航空阿蘇号不時着事故

 

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(注4) 正木任 著『尖閣群島を探る』(「採集と飼育」3巻4号・昭和16年4月発行)参照。
(田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の『採集と飼育』参照)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/collecting-1941/

 

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(注5) 先嶋朝日新聞・1930年7月28日記事・[ この頃無人島 古賀氏より拂下出願 ] 参照。
(石垣市ホームページ・[ 尖閣諸島関連データベース ]参照)
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/detail.php?id=20104&era=s&nendai=00

 

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(注6) wikipedia「グアノ島法」参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/グアノ島法

>この法律では、アメリカ合衆国は島を占有するが、

>グアノが枯渇した後は占有を続ける必要はないというものだった。

>しかし、必要がなくなった後の領土の扱いをどうするかは定められていなかった。

>当時の理解としては、国際法上の無主地(terra nullius)に戻るということであった。

 

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(注7) 日本財団および特定非営利活動法人CANPANセンターによるCANPANプロジェクトでの、尖閣諸島文献資料編纂会による [ 2009年度 尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 ― 沖縄県における戦前~日本復帰(1972)の動き  ] の [ 2009年度 尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 ― 沖縄県における戦前~日本復帰(1972)の動き 1章  ] PDFファイルp.49-58参照。

http://fields.canpan.info/report/download?id=11678

 

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(注8) 沖縄タイムス・2002年9月24日記事・[ 特集 沖縄の海図・メッセージ復帰30年 ] 参照。

 

>それよりも、台湾の漁民にとって、もっと重要な問題に漁業権がある。

>戦前の日本の国会は、尖閣諸島と与那国、基隆(キールン)の漁業権を台湾に譲っている。

 

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