無料アクセス解析

 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない

 

 

   明治・大正期に尖閣諸島を占有していた古賀辰四郎氏と古賀善次氏は公務員でも現役軍人でも封建領主でもなく日本政府から警察・裁判権等の公法上の特権の授与もなく、日本政府の代理としての実効的占有の明確な授権を受けていたわけでもない。日本政府から尖閣諸島の貸与を受け、その後、所有権の譲渡を受けてはいるが、これは私人間でも可能な私法上の契約であって、国家の実効支配の代理の公法上の明確な授権ではない。しかも、古賀辰四郎氏は日本が日清戦争に大勝した結果として台湾の附属島嶼として割譲されたと認識しており(別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼と認識 ]参照)、先占の代理意思もなかった。更に、日本にはアメリカの「グアノ島法」 (注1) のように私人の占有を自動的に国家の占有とする授権をする法律も存在しなかった。

   国際法上の「無主地先占」は国家によってなされねばならない。これは、国家を形成しない原住民の居住地を人が住んでいるにもかかわらず国際法が「無主地」とみなした事の裏返しである。ただし、国家によって明確に授権を受けた私人や特別な法人による間接的占有は国家による占有とみなされる。また、古来から土着して居住している住民が存在する場合は、その住民が歴史的に属する国家に帰属すると認められる余地はある。(しかし、尖閣諸島開拓者の古賀辰四郎氏は尖閣諸島で生まれ育ったわけでなく福岡県出身者であったし、古賀辰四郎氏の開拓以前から尖閣諸島に居住していた者はいなかった。)

   尚、「発見」については私人の行為でも領土紛争発生前の国家による公式・公開の追認によって国家による「発見」とみなしうる。しかし、実効的占有に関しては公法上の特権や授権の無い民間人の占有は国家による実効的占有と同一視しうる程度の占有がなければ、たとえ領土紛争発生前の国家による公式・公開の追認があっても国家の実効占有とはみなすべきではない。それゆえ、もし仮に日本政府が追認していたと仮定しても、古賀辰四郎氏が苦労して造った船着場は、あまりに貧弱すぎて国家による実効支配・実効的占有とはみなしがたい。

  

   尚、常に国旗掲揚したり外国人漂流者を救助した場合は領土紛争発生前に国家による公式・公開の追認があれば国家による実効的占有とみなしうる余地はあるだろう。しかし、古賀事務所に「日の丸」が掲揚されている写真が存在するものの常に国旗掲揚されてたか否かは不明であり (注2) 、また、大正時代に魚釣島 (釣魚嶼) に漂着した中国漁船の船員の保護も中国側に架空の島名を通知した事 (別記事・[ 魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知した日本政府 ] 参照) から、国家による公然たる実効支配とみなしがたい。古賀氏によって作成された魚釣島 (釣魚嶼) の貧相な船着場は、もし仮に領土紛争発生前に国家による公式・公開の追認があっても、あまりに貧相すぎて国家によって建設された港湾設備とはみなす事はできない。しかし、地学雑誌で発表された論文中の黒岩恒 (1900) (注3-1) の釣魚嶼地質図と宮島 幹之助(1901) (注3-2) の黄尾嶼地図は国家の地図作成当局による予備測量による簡易な地形図レベルの水準に達しているので、もし仮に、領土紛争以前に日本政府による公式・公開の追認があったならば国家による実効的占有とみなしうる余地はあったが後述のように追認はなかった。

   竹島 (リアンクール岩、独島) の場合には領土紛争発生前である明治時代の編入時に追認したとする公文書が存在するが (注4) 、尖閣諸島の場合には竹島 (リアンクール岩、独島) とは異なり明確な追認は第二次世界大戦後の領有問題発生まで存在しない。それどころか、古賀辰四郎氏は尖閣諸島は日清戦争で日本が大勝した結果として台湾本島と共に日本に割譲されたと認識していたのである (別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼と認識 ]参照)。前述の黒岩恒 (1900) の釣魚嶼地質図と宮島幹之助(1901) の黄尾嶼地図についても領土問題発生前の公式・公開の追認がなく、陸軍陸地測量部 (現・国土地理院) 作成の5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)において黒岩恒 (1900) の釣魚嶼地質図と宮島幹之助(1901)の黄尾嶼地図の引用・利用の表記が無い。尚、黒岩恒氏宮島幹之助博士も島名を中国名で表記しており (注3-1) (注3-2) 、調査のスポンサーの古賀辰四郎氏と同様に尖閣諸島は日清戦争で日本が大勝した結果として台湾本島と共に日本に割譲されたと認識していたと推測される。

   結局、古賀氏の個人的占有は国家としての実効的占有とはならないので、尖閣諸島に対する日本の実効支配はわずかである。

   ところが、更に本質的に重要な事がある。下関条約では台湾の附属島嶼は割譲の対象となっており (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照) 、台湾の附属島嶼である尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) の島嶼は条約の内容が確定した署名日の1895年4月17日までに日本が実効的先占を完了してなければ、日本側が台湾附属島嶼の島名目録の受け取りを拒否した事 (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)と相まって、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) は「台湾の附属島嶼」の一部として清朝中国から日本に割譲された事になる。よって、日本が古賀辰四郎氏の尖閣諸島占有の追認も台湾引渡しの1895年4月17日までにせねばならないが、古賀辰四郎氏が日本政府から尖閣諸島の貸与を受け尖閣諸島での事業に取り組んだのは翌年の1896年であり、もし仮に1896年以後に追認しても無効である。

   しかも、もし仮に、尖閣諸島が下関条約で清朝中国から日本に割譲された台湾の附属島嶼に含まれないと仮定しても、古賀氏は尖閣諸島を収奪的利用にともなって一時的に占有したものの息子の善次氏の代で結局は撤退している (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ] 参照) 。そのため、もし仮に古賀氏の個人的占有を日本の国家としての占有と仮定しても、収奪的利用しかせず撤退すれば、その時点で古賀氏の占有による日本の間接的実効的占有は終了したと考えるべきである。尚、古賀氏は昭和7年 (1932年) に国から尖閣諸島を購入した後は完全撤退したと推定され、その後にも農林省職員や石垣島測候所職員らが3回程度上陸調査をしたようであるが、1940年に発生した阿蘇号遭難事件後も避難小屋の設置もせず1945年7月に発生した「尖閣諸島戦時遭難事件(尖閣諸島戦時遭難事件とは - Weblio辞書 参照) では50名以上が死亡した。古賀氏による収奪的環境破壊を日本政府が放置していた事 (別記事・[ 日本は尖閣諸島で環境破壊をしまくっていた ]参照) 等を考えると日本は負 (マイナス) の実効支配しかしていなかったというべきである (別記事・[ 日本は尖閣諸島において必要な行政を行っていなかった ]参照)。


目次

2018年9月27日 (2016年11月19日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1)  wikipedia「グアノ島法」参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/グアノ島法

 

戻る

(注2)  もし仮に古賀氏が尖閣諸島で営業していた時期に常時国旗掲揚していたと日本が立証できたとしても、台風の直撃を受ける島なので撤退時には国旗を降ろして撤退したはずで、国旗を降ろす事は国家の実効的占有の終了を象徴すると解釈される。

 

戻る

(注3-1) 黒岩 恒 『尖閣列島探険記事』:地学雑誌・12 巻 (1900) 9 号 p. 528-543 論文末尾附図 参照。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/12/9/12_9_528/_pdf/-char/ja

 

戻る

(注3-2) 宮島 幹之助 『黄尾島』:地学雑誌・13 巻 (1901) 2 号 p. 79-93 論文末尾附図 参照。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/13/2/13_2_79/_pdf/-char/ja

 

戻る

(注4) 竹島 (リアンクール岩、独島) の場合は、明治38年(1905年)1月28日の閣議で私人である中井養三郎氏の占有を (日本の国家としての実効的占有として) 追認する旨決定されている。

下掲のアジア歴史資料センター資料 ( 国立公文書館・請求番号:類00981100、レファレンスコード:A01200222600 ) 参照。

 

「依テ審査スルニ 明治三十六年以来 中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ、コレヲ本邦所属トシ」と書かれているのが読み取れる。

 

戻る