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 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍

 

   下関(赤間関市)での日清戦争講和条約交渉では日本の首相の伊藤博文はわずか5日間で「台湾全島及びその附属諸島嶼」の割譲の返答を清朝中国の全権代表の李鴻章にせまった (別記事・[ 「台湾及び附属島嶼」割譲交渉で5日間しか検討期間を与えなかった日本 ]参照) ため、下関条約署名時に下関条約の台湾の附属諸島嶼の範囲は確定してなかった。実際、日清講和条約 (下関条約) には台湾の地図が添付されてなかった (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照)。それどころか下関条約発効後の台湾引渡し時の1895年6月2日にも下関条約の台湾の附属諸島嶼の範囲は確定してなかったし、日本は中国側の島名目録作成提案も拒否した (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)。下関条約の台湾の附属諸島嶼の範囲について合意があったのは台湾海峡より東側の清朝中国領だった島が割譲対象とされた事のみだったと考えられ詳細な範囲が未定だった。

   よって、以下に示す日本の海軍省の外局の水路部が台湾本島及び附属島嶼に関して日清戦争後で最初に刊行した水路誌・『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)が水路部に外交上の代表権が無くても日本の見解を示すものと考えざるをえない。また、清朝中国は日本が福建沿岸の島を台湾の附属諸島嶼と主張さえしなければ構わないとしていたので、下関条約の事後合意(条約法条約・31条3項a参照)とみなしうる。

   日本の旧・海軍省の外局の水路部 (注1) (注2) が、台湾本島及び附属島嶼に関して日清戦争後で最初に刊行した水路誌・『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)では、尖閣諸島の島嶼である「釣魚嶼・尖頭諸嶼 (北小島・南小島) ・黄尾嶼・赤尾嶼」が「台湾北東ノ諸島」の一部とされていた。(この版から中国名が使用された。以前は英語名のカタカナ表記だった。)

   この事は、旧・日本海軍・水路部が尖閣諸島を日清戦争の勝利によって清朝中国から割譲を受けた台湾の附属島嶼であるとの認識を示すものである (注3-1)  (注3-2) (注3-3)


付記・1:尖閣諸島の島嶼である「釣魚嶼・尖頭諸嶼 (北小島・南小島) ・黄尾嶼・赤尾嶼」が「台湾北東ノ諸島」の一部として解説されているのは『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)及び『日本水路誌・第二巻・附録・第一改版』(明治35年12月刊行)のみである。明治41年以後に刊行された水路誌では目次・項目配列上は尖閣諸島は内地の「南西諸島」に含められ台湾との関連には言及されていない。しかし、明治28年の下関条約締結直後の水路誌において尖閣諸島の島嶼が「台湾北東ノ諸島」の一部とされた事は日本海軍が下関条約によって台湾の附属島嶼として尖閣諸島の島嶼が割譲されたとの認識を間接的に示すものである。

付記・2:『日本水路誌・第二巻・附録』の2年前の明治27年7月に刊行された『日本水路誌・第二巻』に現在の尖閣諸島の島嶼が記載されていたが、それは参考にした英国の水路誌『The China Sea Directory』が第三巻では中国沿岸に含めていたのに1873年発行の第四巻では琉球諸島に含めていた事に由来すると考えられる。そのため、英国の水路誌『The China Sea Directory』が第三巻に依拠していた『台湾水路誌』 (明治6年刊行) や『寰瀛水路誌・巻四』では台湾側に含めていたのを明治27年7月に刊行された『日本水路誌・第二巻』で日本側に変更したのであるが、明治27年7月は日本の内閣が秘密閣議で領有を決定する以前であり、また、『日本水路誌』に記載されていても外国の島である場合がある事は『日本水路誌・第二巻・附録』のp.126に当時スペイン領だった巴旦列島が記載されている事からも明らかである。


参考資料

『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)

国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055

 

『日本水路誌・第二巻』(明治27年7月刊行)

国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180

 

『寰瀛水路誌.・卷四』

国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084219

 

『台湾水路誌』 (明治6年刊行)

田中邦貴氏のホームページ[尖閣諸島問題]の記事・『台湾水路誌 明治6年』参照

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/taiwancoastpilot-1873/


目次

2019年8月24日 (2018年3月8日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東諸島」の一部とした日本海軍   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。

http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html

>1888年 明治21年 6月27日                  水路部          海軍の冠称を廃し水路部と改称

 

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(注2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかる。

https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html

 

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(注3-1) 『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行) 緒言参照。

『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行) の緒言を国会図書館デジタルコレクションより引用。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055

 

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(注3-2) 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年10月刊行・第一改版)では序文で「日本水路誌第二巻附録(台湾及其附属諸島)」としている。

『日本水路誌第二巻下』は沖縄県立図書館の「貴重資料デジタル書庫」において画像公開されており、その序文を上掲の画像として表示した。

https://www.library.pref.okinawa.jp/item/index-1104050413_1002003356.html

 

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(注3-3) 韓国のハン・チョルホ 東国大学教授が2014年に『日本水路誌・第二巻・附録』(明治29年7月刊行)が版図の変動によって出版された事を指摘されたそうである。

https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56665727.html

https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56664253.html

 

http://dokdo.yu.ac.kr/uploads/bbs/bbs_01/9521424070701.pdf

 

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