「台湾及び附属島嶼」割譲交渉で5日間しか検討期間を与えなかった日本

 

 

   『日本外交文書(第28巻第2冊)』によれば、日清戦争の講和交渉で、台湾の割譲要求をした日本に清朝中国の清朝中国の李鴻章・全権代表は占領されてもいないし巨額の戦争賠償金の支払いに台湾を抵当(担保)として欧米から金策する予定だったので反対したが、1895年4月10日の会談で伊藤博文総理はわずか4日の刻限とした。その後、一日だけ引き伸ばされ1895年4月15日が刻限となり結果として5日間の考慮・検討期間となった。当時は日本と中国間で海底ケーブル経由でモールス通信により文面の送受信は可能だったが画像の送受信はできず飛行機もなかったので清朝中国本国政府との連絡による詳細な検討はできず台湾の附属島嶼の範囲については実質的に日本が勝手に決定する事となったと思われる。尚、講和交渉で「台湾」についての最初の言及は1895年4月1日で、その4月1日の会談後に「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を割譲対象とする条約案を渡してはいるものの、会談で「附属島嶼」への最初の言及をしたのは1895年4月10日の会談においてである。また、1895年4月10日の会談で示した日本側条約案の「覚書」に関係する地図を伊藤博文が清朝中国の李鴻章に貸与した旨が『日本外交文書(第28巻第2冊)』・p.408にあるが、下関条約調印書に添付された地図は遼東半島の地図のみだったので (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照)、遼東半島の地図のみの貸与で「台湾及び附属島嶼」の地図は貸与されなかったか、もしくは「彭佳山」の誤記により誤解を招く『台湾全島之図』という地図が貸与された可能性が高い。


日清戦争の講和交渉の資料について:

   日清戦争の講和交渉の記録は『日本外交文書(第28巻第2冊)』において公開され、外務省ホームページで「日本外交文書デジタルアーカイブ」としてインターネット公開されている (ただし、インターネットで『日本外交文書(第28巻第2冊)』を閲覧するには「Djvuビューアー」が必要になるが、「日本外交文書デジタルアーカイブ」トップページから「Djvuビューアー」ダウンロードサイトへのリンクが張られている)。

   尚、伊能嘉矩 著・『台湾文化志 (下巻)』 (国立国会図書館デジタルコレクションにて公開) の第16編第1章にも日清戦争の講和交渉の記録があり、中国本国政府は日本が占領済みの澎湖諸島に近い台湾本島南部のみ割譲し台湾北部を中国に残す案を李鴻章に提案したそうだが、李鴻章が後の紛争の火種となる事を恐れて台湾本島南北二分割案に反対したそうである。中国側内部で対案として検討されたのは台湾本島南北二分割案と租借案のみだったようで、当時は画像の送受信はできず排他的経済水域もなく領海幅も3海里だったので附属島嶼の範囲まで本国政府と協議しなかったと考えられる。


目次

2019年3月10日 (2019年2月24日・当初版は こちら。 )

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp