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 国標を建設しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有 (標準版)

 

   日清戦争中の1895年1月になって、日本政府は久場島・魚釣島について取り締まりの必要からとして沖縄県の所轄と認めて標杭 (国標) の建設を許可した (注1) 。ところが、沖縄県知事は標杭(国標)を建設しなかった (注2-1) (注2-2)

   通常の無主地先占では国標の建設は要件ではない (注3) 。しかし、尖閣諸島の場合には、閣議で標杭 (国標) の建設を認められたにもかかわらず、当時の沖縄県知事が建設しなかった事は、閣議の標題が『標杭建設ニ関スル件(注4) であるため標杭が建設という事実行為があって初めて領有意思を伴った実効的占有の開始が成立するのであって、標杭が建設されなかった事から無主地先占のための実効的占有が不成立と考えるべきである。実際、それ以前に尖閣諸島及び周辺海域で日本政府がなした事は明治18年に沖縄県職員・石澤 兵吾が尖閣諸島の簡易な調査を行なったものの沖縄県庁や日本政府への非公開の報告のみであり、1845年の英国軍艦のベルチャー船長の上陸調査の国際的公開より明らかに劣るもので、発見や歴史的占有や国際的公表をした王朝時代の中国よりも劣後している。よって、明治28年(1895年)1月14日時点のみならず明治28年(1895年)の日清戦争終結(1895年5月8日)後の台湾引渡し(1895年6月2日)まで尖閣諸島に関して日本は国家としての実効的占有があったとは認定できず、明治28年(1895年)1月14日の秘密閣議の『標杭建設ニ関スル件』 により先占が成立し尖閣諸島が日本領になったとの日本政府の主張は (仮に尖閣諸島が1895年年初時点で無主地だったと仮定しても) 国際法に反する

   国際法上は批准書交換により下関条約が有効になり、翻って、下関条約の内容が確定した署名時の明治28年(1895年)4月17日時点で日本の実効支配が無かった事により、下関条約の内容が確定した署名時の明治28年(1895年)4月17日時点で尖閣諸島は (たとえ清朝中国の近代的実効支配が英国より劣っていても) 日本との関係では清朝中国領であったため、清朝中国から日本への割譲が確定したと解される。すなわち、下関条約の署名時の明治28年(1895年)4月17日までに実効支配が無かった以上は必然的に割譲となるのである。

   しかも、日本海軍も日本陸軍も割譲と考えていた証拠がある (別記事・[ 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す ]参照)。日本の旧・海軍省の外局の「水路部」 (現在の海上保安庁・海洋情報部の前身) が作成した「水路誌」は下関条約署名より前には尖閣諸島の島名を参考にした英国の水路誌の英語名のカタカナ表記から下関条約発行後には中国名に変更し (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)、割譲対象の「台湾の附属諸島嶼」である事を認める「台湾北東の諸島」としている (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍 ]参照)。さらに、第二次世界大戦終結までの水路誌各誌には、小笠原群島・大東島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島(南沙諸島)については先占関連の国土編入記述があるのに尖閣諸島については国土編入記述が無い (別記事・[ 旧・海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。また、日本陸軍の参謀本部に属していた「陸地測量部」 (現在の国土地理院の前身) が作成した地図『吐ロ葛喇及尖閣群島』 (昭和8年発行) の右下部分に附属していた (縮尺800万分の1) 「一般図」では沖縄県と鹿児島県の間には境界線があるにもかかわらず沖縄県と台湾の間には境界線が存在せず、「久場島」は「黄尾嶼」という中国名のみで表記され、「大正島」は日本名が併記されているものの「赤尾嶼」という中国名が優先表記されていた (別記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す ]参照)。

   尚、もし仮に、沖縄県知事が下関条約署名までに標杭 (国標) を建設していたとしても日本が無主地先占できたとは考えにくい。クリッパートン島事件判決から絶海の無人島の場合は沖合いの船上から実効支配できた事になり、明朝・清朝中国の冊封船や明朝・清朝中国の臣下である琉球国王の進貢船 (朝貢船) による船上からの実効支配が認められるので「無主地」ではなかったからである。しかし、クリッパートン島事件判決以前の1895年時点では無人島に国家の証跡がなければ無主地という見解もありえたので、当時としても無主地先占を主張するなら標杭 (国標) 建設は必要不可欠だった。ところが、現実には、その標杭 (国標) を沖縄県知事は建設しなかったのである。よって、無主地先占の主張の余地は無いのである。そして、下関条約署名までに標杭 (国標) を建設していたとしても日本が無主地先占できたとは考えにくかった事も沖縄県知事がに標杭 (国標) を建設しなかった大きな理由の一つだろう。


目次

2018年12月19日  (当初・2016年10月21日版は こちら 。)

詳細版は こちら

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 国標を建設しなかったので無主地先占不成立で割譲による領有   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1)  国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 (レファレンスコード:A01200793600)・(所蔵館における請求番号:類00715100・国立公文書館 ) 参照。

[ 沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス ] (注意:資料の標題に『標杭ヲ建設ス』とあるが実際には建設されていない。標題に騙されないよう要注意!!本来のタイトルは『標杭建設ニ関スル件』である。)

 

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(注2-1) 内閣官房「領土・主権対策企画室」のオガワ氏に電話で問い合わせたところ、「沖縄県知事が標杭を建設した証拠はみつからなかった」旨の回答を得た。

 

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(注2-2) 井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

> のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。

>日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。

>標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。

>すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、

>この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、

>長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から

>「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、

>下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。

>これも法的には日本国家の行為ではない。

>(註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 

ここまで指摘されて、日本政府も日本領論者も40年以上反論できないでいる。

 

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(注3) クリッパートン島事件で勝訴したフランスは国旗も残さず国標も建設していない。

 

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(注4) 国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 (レファレンスコード:A01200793600)・(所蔵館における請求番号:類00715100・国立公文書館 ) 参照。

[ 沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス ] (注意:資料の標題に『標杭ヲ建設ス』とあるが実際には建設されていない。標題に騙されないよう要注意!!本来のタイトルは『標杭建設ニ関スル件』である。)

 

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