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 日本は清朝中国の実効支配不足を承知で割譲を受けた

 

    下関条約 (日清講和条約) 第二条では「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」が割譲対象になっている (注1)。しかし、日本は1871年に台湾に漂着した宮古島島民54人が台湾南部の原住民に殺害される事件(宮古島島民遭難事件)に対して1874年に台湾に出兵し苦労の末に犯行をした原住民を討伐した。その時点で台湾本島の中央山岳地帯と東岸には清朝中国の近代的実効支配がほとんどなされておらず首狩りが横行していた事を日本政府は認識した。その後、清朝中国は台湾本島の中央山岳地帯と東岸を行政区域に編入し、東岸原住民の多数を占める農牧・漁業系のアミ族はおとなしいので従ったと考えられるが、台湾本島の中央山岳地帯と北東岸では狩猟系原住民による首狩りが横行したままだった。それどころか、後装連発式ライフル銃を入手した狩猟系原住民による首狩りは激しくなったと推定される。台湾の事を研究していた日本はその事を知っていたはずだ。

   それにもかかわらず、清朝中国による実効支配が不完全な台湾本島の中央山岳地帯と北東岸も含めた台湾本島全体を割譲の対象とした事は、台湾に執着していたフランス (注2) が台湾本島東岸が無主地だと主張して台湾に進出するのを防ぐためだった事と、日清戦争時に日本軍が台湾本島に上陸できなかった事によると思われる。

   また、台湾引渡しで台湾の附属島嶼の目録を日本側の水野公使に渡そうと提案した清朝中国側の李経方・全権代表の提案を拒否した。拒否の理由の一つとして、目録からの脱漏や無名の島の存在によって日中いずれの領土でもなくなる事を危惧した事が記録に残っている。清朝中国中央政府は公文書である黄叔璥著『台海使槎録』中において紅頭嶼 (蘭嶼) について金が産出するとしながら「版図不入」として領有放棄していた (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照) が、日本は清朝中国が実効支配していない紅頭嶼 (蘭嶼) も台湾の附属島嶼として割譲対象にしたのである。よって、今更、下関条約署名時に尖閣諸島について、清朝中国の実効支配がなかったと主張するのがおかしいのである。今更、清朝中国の実効支配がなかったと主張するくらいなら下関条約署名時に尖閣諸島を割譲対象から除外しておくべきだったのである。だし、下関条約署名以前には日本は数時間調査しただけで調査結果も非公開だったので、下関条約署名直前に公正中立な判定がされれば、発見と洋上からの実効支配のあった清朝中国か、近代的上陸調査を最初にし公開した後も測量を継続して測量結果を補正し続けていた英国の領有が優先されたであろう。(ちなみに、日本の水路誌の尖閣諸島に関する記載内容は下関条約署名の1895年時点では英国の水路誌に頼ってた。)


付記

   日本のウヨクや台湾独立派らは往々にして、下関条約当時、台湾本島東部は清朝中国が実効支配してなかったので清朝中国領でなかったと主張する。たしかに台湾本島の中央山岳地帯と北東岸の実効支配は極めて不完全だったと推測されるが、下関条約 (日清講和条約) 第二条で「台湾全島」を割譲対象にした事から、今更不服を言うのがおかしいのである。また、日本軍が日清戦争終結まで上陸できなかった事から、下関条約署名時点で判定すれば、台湾全体が清朝中国領と判定されたであろう。


目次

2018年4月20日 (2018年3月29日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) アジア歴史資料センター資料 [ 日清媾和条約・調印書 ] (レファレンスコード:B13090893700) 参照。

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/contents/pdf/B13/B13090893700.bjyoyaku_0001.f02.00000293.pdf#pagemode=none

 

(注2) 伊藤潔 著・『台湾』 (中公新書・1993年8月25日初版)p.67-68参照。