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 李鴻章・全権代表襲撃事件により下関条約は中国側に解釈権

 

 

    日清戦争の終結のために日本と清朝中国は下関で講和交渉を行なった。その下関での講和交渉中に清朝中国の李鴻章・全権代表が襲撃される事件が起きた。これは単に外交使節の安全確保という国際法上の義務違反だけでなく、下記の二点により日本に極めて重大な過失があったのである。

 

(1) 4年前の1891年5月11日に訪日中のロシア皇太子が襲撃 (注1) を受けていたので、清朝中国の李鴻章・全権代表が襲撃される危険がある事が明白だった。

(2) 日本は清朝中国に李鴻章か恭親王を全権大使とする事を要求 (注2) しており、恭親王が清朝中国での重要皇族であったため李鴻章は襲撃事件による負傷後も全権代表として交渉せざるをえなかった。

 

   そして、下関条約 (日清媾和条約) において清朝中国から日本に割譲された「台湾全島及びその附属島嶼」 (注3) に尖閣諸島が含まれるか否か条約中に明示されておらず「台湾全島及びその附属島嶼」の地図も貼付されていない (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった可能性大 ]参照 ) が、清朝中国の李鴻章・全権代表が襲撃された事により、身の危険を感じて清朝中国の全権代表の李鴻章が交渉を早めに切り上げた可能性がある。よって、下関条約における「台湾全島及びその附属島嶼」の範囲の詳細が詰められてなかった責任は全面的に日本が負うべきであり、日本の下関で講和会議をしており条約に台湾の添付する地図を用意する責任があったのに条約に地図が添付されてなかった事も考慮すれば、下関条約における「台湾全島及びその附属島嶼」の範囲の解釈権が中国側にあるとすべきである。しかも、実は日本側が意図的に「台湾全島及びその附属島嶼」の範囲の詳細を詰めなかった疑いがあるのだ (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)。

   ともかく、当時は排他的経済水域の概念も無く領海の範囲も3海里に過ぎなかったので、清朝中国政府の実務の最重要人物である李鴻章が再襲撃の危険に怯えながら無人島の帰属交渉を詰めなくても過失は無い。

   尚、古来、中国では福建省沿岸の島嶼のさらに東の異民族の島嶼を「流求」としており、その「流求」が明王朝初期に沖縄本島の三人の王 (実質的には王というより大酋長だった可能性もある) が明朝中国の求めに応じて朝貢し台湾の諸民族は朝貢しなかったので、明朝中国は面積の狭い沖縄を「大琉球」とし台湾及びその附属島嶼を「小琉球」とした経緯があり (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照) 、福建省沿岸の島嶼のさらに東の異民族の島嶼を「流求」諸島のうち、琉球王国に属さない島は「小琉球」 すなわち「台湾及びその附属島嶼」になるのである。実際、明朝中国時代の鄭舜功著『日本一鑑』にも(「小東」とは「小琉球」と注釈した上で) 釣魚嶼 (魚釣島 )は小東の小島と書かれている (注4-1) (注4-2)。 よって、もし仮に襲撃事件がなく中国のみに解釈権がある事にならずとも本来から釣魚嶼 (魚釣島 ) 等のいわゆる「尖閣諸島」は台湾の附属島嶼なのである。


目次

2018年9月6日 (2017年9月25日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) wikipedia「大津事件」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/大津事件

 

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(注2) wikipedia「下関条約」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/下関条約

 

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(注3) wikisource「下関条約」参照。

https://ja.wikisource.org/wiki/下関条約

 

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(注4-1) 鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」参照。

 

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(注4-2) ( 鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」の日本語訳の ) 大友信一・刘震宇 (1983) : 岡山大学紀要・1983年12月・vol.4;  p.250-236 (横書き・縦書き混在のためページの表示が逆になっている事に注意、縦書きページ表示では84頁から97頁) 参照。

 

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