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清朝中国は釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼近海の近代的測量を怠っていた

 

   清朝中国が尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) の島について近代的測量を行なわなかった疑いが濃厚です。そのため、第二次世界大戦後に中国が尖閣諸島が下関条約で日本に割譲された事を失念し、第二次世界大戦終結直後に返還請求し忘れた原因の一つになったと考えられます。

 

   比較的安価で揺れる船上でも使用可能な六分儀が18世紀末までには普及していたと考えられます。ちなみに中国は六分儀の発明以前の1716年の冊封使船に緯度計測・測量技術者を同乗させていましたが (注1) 、その回の冊封使船は釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼付近を通過しなかったので (注2)  、鶏籠と那覇の中間の緯度である事しかわかってませんが、それでも、中国に滞在していたフランス人宣教師Gaubil神父がフランス本国に送った地図からすると緯度については誤差0.5度以内で把握していたようです (別記事・[ ゴービル神父の琉球地図の主要地点の緯度・経度 ]参照)。尚、林子平の地図にも緯線がありましたが、冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』に記載された首里城の緯度・経度も無視し1度強ズレており、その結果、尖閣諸島の緯度も1度強ズレる杜撰な地図でした。

   しかし、絶海の孤島での経度の測定は緯度の測定に比べはるかに困難でした。概ね正確で比較的容易な経度算出の道具であるクロノメーターと呼ばれる航海用の高精度な時計が量産され出したのが19世紀の初め頃でした。本来ならば、清朝中国も外国から蒸気船の軍艦を購入し始めた1880年代には主要な島の緯度・経度を測量すべきだったのです。

   しかも、日本が釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼の領有を画策し始めた1885年には中国でも問題になっていたそうなので、早急に清朝中国は釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼周辺海域の近代的地図 (注3) の作成をすべきでしたが、島名を本来の漢字表記した実測による近代的地図 (注4) は作成されませんでした。これは地図による実効支配が不完全だった事を意味します。

   近代的実測地図が必要な理由は三つあります。

   第一には、他国が比定 (同定) できるようにするためです。しかし、この事に関しては、冊封船の水先案内を担当した琉球王国を日本は強制併合し、魚釣島と釣魚台、久場島と黄尾嶼、久米赤島 (大正島) と赤尾嶼を日本が比定 (同定) できていたので明朝・清朝中国が近代的測量による緯度・経度測定をしていなかった事は日本に対しては重大な欠陥にはなりえません。

   第二には、付近を航行する船舶の安全確保のためです。近代的実測地図を清朝中国が作成しなかった事は、この義務を清朝中国が怠った過失を意味します。ただし、日本より先に、英国の調査隊のサマラン号のベルチャー船長が、釣魚嶼・黄尾嶼のほぼ正確で実用的な緯度・経度及び最高点の標高を測量し赤尾嶼のおおよその緯度・経度を公開した (注5) ので、中国の過失は結果としては重大な事故の原因にはなりませんでした。それは中国にとって幸運な事でした。

   第三には、自国の領土管理のためです。近代的実測地図を清朝中国が作成しなかったため、後の国民党中国政府も共産党中国政府も失念していたわけですが、日清戦争後に割譲されたため、その間の50年間の失念による実効的占有の不在は過失とはならず、第二次世界大戦後も沖縄をアメリカが占領統治しており沖縄返還による日本の直接支配が再開される以前に気付いた事は中国にとって幸運な事でした。

   結局、清朝中国が近代的実測による地図を作成しなかった事は過失ではあっても重大な欠陥にはならないと考えられます。


付記

   清朝中国が独自に近代的実測地図を作成すべき状況になったのは、二人のフランス人の過失により、ヨーロッパ人によるアルファベット表記の近代的実測地図で島の順序が二つズレた事が原因です (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ]参照)。そのため、フランスによる地図だけでなく英国による近代的実測地図もアルファベット表記がズレてしまい、島の順序が二つズレてなければ清朝中国は実測せずに流用できたはずなのに、中国はフランス製地図のみならず英国製の近代的実測地図も流用できなくなってしまったのです。それは中国にとって不運な事でした。


目次

2018年11月9日 (2016年9月24日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 『増訂・使琉球録解題及び研究』 夫馬進 (編) ・榕樹書林・1999年9月15日発行によれば「量視日影八品官」という緯度計測・測量担当者が派遣され冊封使船に同乗していたそうである。

 

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(注2) 徐葆光 著 『中山傳信録』 第一巻・「前海行日記」に「當見鶏籠山花瓶棉花等嶼及び彭佳山皆不見」とあり、原田禹雄 訳『中山傳信録 (新訳注版) 』 (榕樹書林)p.53・54 では、「鶏籠山や花瓶・棉花などの嶼、および彭佳山があらわれなければならないのだが、すべてあらわれなかった」とある。

 

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(注3) 18世紀半ばにキリスト教の布教のため中国に来ていたフランス人宣教師Gaubilは、前任者のフランス人宣教師達が中国皇帝の命により作成した『皇輿全覧図』の台湾北部の緯度・経度情報と冊封使録の記録から、尖閣諸島等の冊封使航路の島の緯度・経度を推測して作成した"Carte des Isles de Liéou-Kiéou"をフランス本国のイエズス会に送っていたが、その地図における緯度・経度の誤差は赤尾嶼の経度以外は比較的小さかった。

Gaubil神父が18世紀半ばに中国から本国フランスのイエズス会に送った琉球地図を読み取ると、緯度・経度の誤差について下記の結果が得られた (別記事・[ ゴービル神父の琉球地図の主要地点の緯度・経度 ] 参照) 。

Tiaoyu su (釣魚嶼・魚釣島):緯度誤差14分、経度誤差18分

Hoangouey su (黄尾嶼・久場島):緯度誤差27分、経度誤差6分

Tchehoey su (赤尾嶼・大正島):緯度誤差17分、経度誤差1度3分

   尚、Gaubil神父の地図では釣魚嶼 (魚釣島) の緯度・経度の誤差は見通し距離以内であるが、黄尾嶼 (久場島) や赤尾嶼 (大正島) の緯度・経度の誤差は見通し距離を越える。「見通し距離」は光の直進を前提とすれば三平方の定理で求められるが、実は上空ほど大気の密度が低い事によって光が下方に曲がる「大気差」という現象の存在のため直進の場合より見通し距離は長くなる。実際の見通し距離は、船上の船員の目の位置が海面より高い事で長くなる事と、波や靄やギリギリだと無限に高性能な望遠鏡は無い事から見通し距離が短くなる事があるが、それが相殺すると考えて、晴れた日中の見通し距離を島の標高による「大気差」を考慮した CASIOの「高精度計算サイト での計算を参考値とするのが妥当と思われる。

 

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(注4) 実は、実測しなくても欧米の地図・海図・水路誌・航海記録にあるアルファベット表記の島名と冊封使録にある本来の漢字表記の島名が比定 (同定) できれば、欧米の地図・海図・水路誌・航海記録を基に清朝中国は本来の漢字表記の島名による地図が作成できたはずなのである。しかし、中国にとって不運な事に18世紀半ばにGaubil神父がHoapinsu (花瓶嶼) とPongkiachan (彭佳山) の順序を誤り、更に決定的な事には18世紀後半のフランス海軍のラペルーズ調査隊が故意または重過失によって本来は「花瓶嶼」を意味するはずの"Hoapinsu"を「釣魚嶼 (魚釣島)」と取り違えたため黄尾嶼 (久場島) が「釣魚嶼 (魚釣島)」を意味するはずの"Tiaoyu-su"とされてしまい、冊封使航路の航行を琉球人まかせにしていた事も相まって清朝中国は欧米の地図・海図・水路誌・航海記録にあるアルファベット表記の島名と冊封使録の本来の漢字表記の島名が比定 (同定) できなくなってしまったのである  (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照) 。そのため自ら実測せねば正確な緯度・経度表示のある近代的地図は作成できなくなってしまったが、清朝中国が自ら冊封使録にある本来の漢字の島名で表記された尖閣諸島の緯度・経度表示のある近代的地図を作成しなかった事が現在の紛争の一因でもある。

 

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(注5) 田中邦貴氏のサイト「尖閣諸島問題」の「Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46」参照。

 

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