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クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める

 

    太平洋北東部の無人島のクリッパートン島は18世紀初頭に島名の由来になった英国人の私掠船船長 (広義の海賊) のクリッパートンが発見し利用していた。その百年以上後の1858年にフランスはクリッパートン島の沖合いの船上から領有宣言をしたがクリッパートン島には領有の証跡を残さず立ち去り、その後に寄港したハワイ王国の新聞に英文で領有宣言を掲載した。

   クリッパートン島事件とは、狭義には、無人島クリッパートン島に対する主権の帰属をめぐってメキシコとフランス間で争われ国際仲裁裁判に付された事件である (注1) 。メキシコとフランス両国は1909年にイタリア国王エマヌエル三世に国際仲裁裁判を付託し1931年にフランス勝訴の判決がなされた。判決は絶海の無人島の場合は洋上からの無主地の実効的先占を認めた (注2-1) (注2-2) (注2-3) (注3-1) (注3-2) (注3-3)

   尚、当該仲裁判決はイタリア国王によってなされたが実際の起草は法律顧問団が作成したと推定されており (注4)、国際海洋法裁判所裁判官であった山本草二博士も支持されており (注5) 、国際慣習法を形成する国際法判例であり、多くの国際法関連書籍で紹介されている。

   以下において、尖閣諸島領有問題とクリッパートン島事件を比較検討する。

   明朝及び清朝時代に中国の公船である冊封使船は中国本土から琉球王国に航行する際に釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島の島を航路目標として利用しており、冊封使 (副使を含む) の記録だけでも9回の望見記録がある。これは沖合いの船上からの実効支配と考えうる。更に、明朝・清朝中国皇帝の臣下だった琉球国王の臣下が操船する琉球王国の公船である進貢船 (朝貢船) も中国本土から琉球王国への帰路に二百回程度は望見していたと推測される。これはパルマス島事件判決により間接的実効支配と考えうる (別記事・[ パルマス島事件判決はオランダに冊封された大酋長による間接的支配を有効とする ]参照) 。

   クリッパートン島先占のためフランスはハワイ王国の新聞で公示した。中国も尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を国際的に公開していた。まず、明朝中国時代の1639年に釣魚嶼が航路目標にされていた中国の水路誌『順風相送』がオックスフォード大学学長に贈られオックスフォード大学図書館に現存する。(ただし、中国領論者の中には当該書籍の発行年代を明朝初期だとする者がいるが、16世紀半ば以降の内容が記載されており、オックスフォード大学図書館に現存する版の発行時期は16世紀半ば以降1639年以前である。)また、赤嶼 (大正島) の東が中国の国境と記載された清朝時代の冊封使・汪楫の著書『使琉球雑録』は江戸時代に日本に輸入され徳川幕府の蔵書となり現在は国立公文書館所蔵となっている。さらに、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を航路目標とする冊封使船の模範的航路の針路図が掲載されている清朝時代の冊封副使・徐葆光著『中山伝信録』は江戸時代に日本でも出版され、キリスト教の布教のため清朝中国に滞在していた宣教師のGaubil神父によりフランス語に翻訳された要約版がフランスで出版された。よって、国際公示が有ったと認定される。

   尚、クリッパートン島先占のためフランスが洋上からしたような明確な領有宣言を明朝中国がしたか否かについては不明である。なぜなら、冊封使・陳侃 著 『使琉球録』(1534年発行)より前の記録が火災や水害で消失してしまったからである (注6-1) (注6-2)。おそらく、領有宣言という発想は明朝中国には存在せず、明朝中国は領有宣言をしなかったと私は推測する。しかし、仮に領有宣言をしていなかったとしても1534年時点の国際慣習法での無主地の領有の要件はフランスがクリッパートン島の領有宣言をした1858年より甘く、また、鄭舜功著『日本一鑑』には釣魚嶼 (魚釣島) に漢族と考えられる漁民が住み明朝中国の巡視があった事が記されている (別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す ]参照)ので、釣魚嶼 (魚釣島) については一旦は巡視による実効的占有によって確実な明朝中国領になっており領有宣言が無くても中国領になったと考えるべきである。

   さらに、明朝・清朝中国は航路目標として実際に利用しており、環境にやさしい事も考慮すれば単なる領有宣言のみでクリッパートン島を利用しなかったフランスや環境破壊を伴った古賀辰四郎氏の尖閣諸島の占有より高い評価を受けるであろう。しかも、清朝中国の台湾に関する公式調査記録である黄叔璥著『台海使槎録』では「紅頭嶼」については版図に入れない事を明示しているが「釣魚台」 (魚釣島) については軍事的重要性が指摘されており「釣魚台」 (魚釣島) については間接的に領有意思が示されている事 (別記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示 ]参照) から領有宣言に相当すると考えるべきである。おまけに、クリッパートン島のようなフランス本国からはパナマ運河の無かった時代には南アメリカ南端を回って一万km以上のはるかかなたの無人島では領有意思の表明が無ければ領有意思は不明だが、尖閣諸島は中国本土に近く琉球王国との交流で航路目標として命名の上で利用していただけでなく、明朝・清朝中国は高価品を満載した進貢船・冊封使船の安全確保・シーレーン確保のため海賊排除の巡視も兼ねていたはずで制海権による軍事的な実効支配もあったと考えられる。(ただし、台湾北部の鶏籠港 (基隆港) 沖がスペインやオランダや反政府勢力の支配下にあった時期や19世紀には制海権を失っていた。)ちなみに18世紀初頭までは欧米の海賊が世界中で跳梁跋扈していた (wikipedia「海賊の黄金時代」) ので、現在よりシーレーン確保の重要性は高かった。海賊が跳梁跋扈していた時代に重要航路を国際公開したという事は(台湾北部がスペインやオランダや反政府勢力に支配されていた1624年から1683年半ばまでを除いて)当該海域の軍事的な実効支配があった事を意味する (別記事・[ 鶏籠港沖の制海権を失った時は冊封使船は鶏籠嶼を避けていたと考えられる ]参照) 。もし仮に、釣魚嶼 (魚釣島) に海賊が見張り台・望楼を造っていると冊封船や進貢船 (朝貢船) から報告を受ければ明朝・清朝中国は排除したはずだからである。

   フランスがクリッパートン島の領有宣言をしハワイ王国の新聞で公示した時期は19世紀半ばなのでフランスは近代的測量によるクリッパートン島の正確な緯度・経度も公示していた可能性が高いが、明朝・清朝中国は尖閣諸島の島について近代的測量による緯度・経度測定を実施していない。しかし、冊封船の水先案内を担当した琉球王国を日本は強制併合し、魚釣島と釣魚台、久場島と黄尾嶼、久米赤島 (大正島) と赤尾嶼を日本が比定 (同定) できていたので明朝・清朝中国が近代的測量による緯度・経度測定をしていなかった事は日本に対する公示としては重大な欠陥にはなりえない。

   尚、清朝時代には事実上は薩摩藩の武力による隠れ支配によって実質的には琉球王国は清朝中国と日本に両属していたが、清朝中国への進貢 (朝貢) は琉球国王の清朝中国皇帝への臣属の儀式であり、また、もし仮に尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) に海賊が見張り台建設等の拠点化をしているのを発見した場合、海賊を排除するのは清朝中国だったはずなので、進貢船 (朝貢船) による尖閣諸島 (冊封使航路列島北部)沖合いからの実効支配は清朝中国に帰属する。薩摩藩は清朝中国に対して秘密裏に隠れ支配をしていただけでなく、ペリー来航以前の江戸時代の日本では大型船の建造・保有が禁じられており、また、外国領土は無人島でも幕府の許可なく渡航できなかったので仮に尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) に海賊が拠点を構築しても排除できなかったからである。


広義のクリッパートン島事件

   通常は「クリッパートン島事件」というと国際仲裁裁判に付されたメキシコとフランスの争いを指すが、裁判にはならなかったものの、フランスとアメリカの間でもクリッパートン島の領有をめぐる問題もあった。その時のアメリカ政府の対応も尖閣諸島領有問題に関する国際慣習として重要である。

   アメリカは1856年に「グアノ島法」という法律を制定し、「あらゆる島、岩、珊瑚礁に堆積するグアノを米国市民が発見した際は、他国政府による法的管理下になく、他国政府の市民に占領されておらず、平和裡に占有してその島、岩、珊瑚礁を占領したときはいつでも、米国大統領の裁量で米国が領有したと判断して差し支えない」という内容のグアノ (海鳥の糞等が堆積して石化したものでリン酸肥料になる) が堆積した無人島に関して無主地領有のための非個別的で包括的な授権を法定した (wikipedia「グアノ島法参照) 。

   その直後の1858年にフランス海軍士官がフランス政府を代理してクリッパートン島沖の洋上の商船上から領有宣言文を起草しハワイ王国 の新聞に英文で公示した。その39年後の1897年に、クリッパートン島を巡視したフランスはクリッパートン島にアメリカ国旗が掲げられ3人の人間がグアノを採掘している事を確認し、アメリカ政府と協議した。そしてアメリカに領有の意思が無い事を確認した。この事は国際公示をすれば無人島に何らの領有を示す痕跡が無くとも39年後も実効支配が存続する事をアメリカが認めた事になり国際慣習となった事に留意すべきである。

   よって、日本外務省ホームページにおける記事 [ 尖閣諸島情勢に関するQ&A ] で、

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html#q9

尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した

 

としているが、クリッパートン事件判決前の1885年に当時の内務卿だった山縣有朋が清朝中国が航路目標としての利用していた事は認めたもの清朝中国の領有の証跡が無いと述べ無主地だと判断した事は1885年当時としては国際法の有力見解でありえたが、クリッパートン事件判決後の21世紀にそういう主張をするのは問題である。上述の日本の外務省ホームページの主張はメキシコとフランス間でのクリッパートン事件判例が絶海の無人島の場合には洋上からの実効支配を認めている事  (注2-1) (注2-2) (注2-3) (注3-1) (注3-2) (注3-3) と、フランスとアメリカ間での協議でアメリカが39年前にフランスが洋上から領有宣言を行いハワイ王国の新聞で公示した事により39年後もクリッパートン島に実効支配の痕跡がなくともフランスの実効支配を有効とした国際慣習を無視している。しかも、逆に、日本は1895年1月に沖縄県に尖閣諸島への標杭建設を認めた秘密閣議後も標杭 (国標) を建設しておらず国際公示もしなかった。そのため、もし仮に、下関条約署名の同年(1895年)4月17日の前日に尖閣諸島を調査しても日本の領有の痕跡は発見されなかったであろう。単に、クリッパートン事件の判例及び訴外でのアメリカの対応によって形成された国際慣習に反するだけでなく日本政府は自己矛盾の主張をしているのである。


付記

   尚、現時点のクリッパートン島のwikipediaのスペイン語版にはマゼランが1521年に発見したとする書籍がある旨の記述があるが、それはデタラメだと思われる。なぜなら、マゼラン艦隊は南米大陸南端を越えて太平洋に入ってから二つの無人の諸島を発見しているが、いずれも赤道以南と記録されており (注7) 、マゼラン艦隊乗組員は星座を見ており、太平洋でマゼラン艦隊が発見した無人島では北極星が見えなかったはずで、当時の北極星と真の北極方向の誤差が現在より大きく3度程度あった事を考慮しても北極星の見えない北緯3度以南の島であった事は確実であって北緯10度のクリッパートン島をマゼラン艦隊が発見したとは考えられない。


目次

2019年1月8日 (2018年1月3日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 『国際法辞典』・筒井若水 編集代表・有斐閣・1998年3月30日初版第1刷発行 「クリッパートン島事件」項目 参照。

 

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(注2-1) クリッパートン島事件 仲裁裁判判決・全文日本語訳は、『島の領有と経済水域の境界画定』・芹田 健太郎 著・有信堂高文社・1999年6月3日初版第1刷発行 「補章」・「クリッパートン島事件仲裁判決」参照。

 

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(注2-2) クリッパートン島事件 仲裁裁判判決・フラン語原文は、下記URLの国際連合ホームページ資料 参照。

http://legal.un.org/docs/?path=../riaa/cases/vol_II/1105-1111.pdf&lang=O

 

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(注2-3) クリッパートン島事件仲裁判決の全文英語訳は、下記urlの The International Law Students Association のサイトの資料参照。

https://www.ilsa.org/jessup/jessup10/basicmats/clipperton.pdf  (リンク切れ)

下記のurlは"The Internet Archive"による保存記事。

https://web.archive.org/web/20170828103705/https://www.ilsa.org/jessup/jessup10/basicmats/clipperton.pdf

 

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(注3-1) 『 国際法判例百選 [ 第2版 ] 』 小寺彰・森川幸一・西村弓 編 有斐閣 2011年9月25日 発行 p.56-57 深町朋子 解説 参照。 

 

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(注3-2) 『島嶼研究ジャーナル第3巻1号』 p.137・クリッパートン島事件(メキシコ対フランス)・堀井進吾 解説 参照。

 

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(注3-3) 『国際関係法辞典  第2版』 (国際法学会 編・三省堂2005年9月15日・第1刷)の「クリッパートン島事件」項目参照。

 

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(注4) 玉田大(2011) 『国際裁判における理由附記義務』 神戸法学雑誌 61巻1・2号p.7参照。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81004340.pdf

 

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(注5) 『国際法』 【新版】・山本草二 著・有斐閣・2001年2月28日新版第14刷・p.285・286 参照。

 

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(注6-1) 陳侃『使琉球録』原本の画像は筑波大学サーバーで公開されており、当該記述部分は下記urlにある。日本語訳は次の注釈 (注6-2) 参照。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/ch/ch/15/00000001.gif

>命時禮部査封琉球國舊案因曾遭回祿之變燒毀無存其

>頒賜儀物等項請査於

>內府各監局而後明福建布政司亦有年久卷案

>爲風雨毀傷其造船並過海事宜皆訪於耆民

>之家得之至於往來之海道交祭之禮儀皆無

>從詢問特令人至前使臣家詢其所以亦各凋

>喪而不之知後海道往來皆頼夷人爲之用其

>禮儀曲折臣等臨事斟酌期於不辱而已因恐

>後之奉使者亦如今日著爲此録使之有所徴

>而無懼此紀略所以作也又嘗念

 

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(注6-2) 『陳侃 使琉球録』・原田禹雄 訳注・榕樹書林 (1995年6月4日発行) p.123・124 参照。

 

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(注7) 『大航海時代叢書・第一期・第一巻』(岩波書店)の『マガリシャス最初の世界一周航海』参照。

 

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