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尖閣諸島に関する領土問題を教えられる先生方へ(詳細版)
[ 高等学校学習指導要領(平成30年3月公示)の矛盾とウソ ]
高等学校学習指導要領(平成30年3月公示) >尖閣諸島の編入についても触れること (p.67) >・・・・・ >「国家主権,領土(領海,領空を含む。)」及び「我が国の安全保障と防衛」については,国際法と関連させて取り扱うこと。 (p.99) |
文部科学省教育課程課に問い合わせたところ、当該部分は外務省のホームページの記事・[ 尖閣諸島情勢に関するQ&A ]の「Q2:尖閣諸島に対する日本政府の領有権の根拠は何ですか。」に対する回答の「A2」を念頭に置いているとの事であったので、その一部を引用します。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html#q2
>1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って,正式に日本の領土に編入しました。
>この行為は,国際法上,正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています(先占の法理)。
>尖閣諸島は,1895年4月締結の下関条約第2条に基づき,日本が清国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれません。
問題は沖縄県知事が第二次世界大戦終結まで標杭 (国標) の建設をしなかった事です。それについて外務省は回答を拒否したので、内閣官房の「領土・主権対策企画室」のオガワ氏に問い合わせたところ、「沖縄県知事が標杭を建設した記録はみつからなかった」旨の回答を得ました。ちなみに、故・井上清・京都大学教授が1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』で沖縄県知事が標杭 (国標) の建設をしなかった事を指摘されて以降、日本領論者は井上清著『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を目の敵にして批判・反論したものの、沖縄県知事が標杭 (国標) の建設をしなかった事については反論はありません。
国際法の「先占の法理」では実効支配 (実効的占有) が必要なのに公開の領有宣言も標杭の建設もしておらず実効支配 (実効的占有) が無いのは明白です。
国際法の「先占の法理」では、いずれの国にも属さない「無主地」を領有の意思を以って国の機関 (または国から授権を受けた私人や法人) によって実効的占有をすれば先占が成立し領土になるとなっています (たとえば、『国際法辞典』筒井若水 編・有斐閣・初版第1刷・「先占」項目参照)。
そのため、仮に尖閣諸島が1895年 (明治28年)の年初時点で無主地だったと仮定しても、同じ年の1895年 (明治28年) 4月17日の下関条約署名までに日本は尖閣諸島を実効的占有しておらず、先占は1895年 (明治28年) 4月17日の下関条約署名まで完了しておらず、尖閣諸島は下関条約によって「台湾の附属島嶼」として「割譲」され日本領になったのです。
実際、尖閣諸島が割譲されて日本領になった事を前提に作成された旧・海軍省の外局の水路部 (現在の海上保安庁・海洋情報部の前身) 作成の水路誌や旧・陸軍の参謀本部の外局の陸地測量部 (現在の国土地理院の前身) 作成の地図が存在します (別記事・[ 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す ]参照)。
ところが、武力によって日清戦争の戦果として割譲された土地は第二次世界大戦後に中国に返還せねばならないので、尖閣諸島は中国領なのです。
参考資料 (1) : [ 国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 (レファレンスコード:A01200793600) 参照 ] 日清戦争中の1895年 (明治28年) 1月14日の閣議で、以前から久場島と魚釣島に標杭 (国標) 建設の許可を求めていた沖縄県知事に対して、沖縄県の所轄と認めるので標杭 (国標) の建設を認めるとした決定。尚、資料の標題に『標杭ヲ建設ス』とありますが実際には建設されていません。標題に騙されないよう要注意!!本来のタイトルは『標杭建設ニ関スル件』です。 参考資料 (2) : 井上清著『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』は本来は書籍ですが、下記urlでインターネット公開されてます。 |
[ 尖閣諸島日本領論強制教育の問題点 ]
学習指導用領による尖閣諸島日本領論強制教育には、少なくとも以下の重大な問題があります。
第一に、尖閣諸島日本領土論が正しくない事です 。これは政府による教育の不正利用で第二次世界大戦中の軍国主義的教育と本質が同じです。もちろん、教育の自由や学問の自由に対する侵害となる不正な強制です。
第二に、中国の経済規模を示すGDPが2040年までにアメリカのGDPを抜く可能性が高く、中国の軍事装備総額が第二次世界大戦終結百周年の2045年までにアメリカを抜く可能性が高く、日本はアメリカの軍事力を背景とする領土維持が困難になり、尖閣諸島の領土紛争から石垣島等の先島諸島が占領されたり、場合によっては日本全土が占領される危険がある事です。
第三に、尖閣諸島領有問題の原因の一つとして、清朝中国が尖閣諸島の島の近代的測量をしなかったという領土管理上の怠慢もあります (別記事・[ 中国は釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼近海の近代的地図作成を怠っていた ]参照)。しかし、もし仮に、領土管理の甘かった清朝中国には領有する資格が無いというような指導をすれば、現在の日本国内で資産管理能力の低い高齢者から振り込め詐欺するのは正義だと誤解する生徒が出てくる危険があり、生徒のモラル破壊や教育の荒廃を招く危険があります。
第四に、政策の硬直化を招く危険がある事です。善悪を抜きにしても尖閣諸島周辺の制海権・制空権を日本が握っているのはアメリカの軍事力が中国を上回っているからで、そのミリタリーバランスが崩れれば前提が変わります。その際、子供時代に尖閣諸島が絶対的日本領だと教えられれば成人しても尖閣諸島が絶対的日本領だと思い込んで、それが嘘・誤りだと認識しにくくなり、後の政府が実は本当は中国領でしたと中国に謝罪して返還する政策変更の余地を封じてしまう危険があるのです。
第五に、標準的な小中学生では尖閣諸島日本領土論が誤っている事が理解しにくい事です。ただし、小学校高学年の児童や中学生なら、後掲の現在の国土地理院の前身である参謀本部・陸地測量部 (注1) 作成の地図の一部を見れば日本領である事を鵜呑みにはできない事を理解できるかもしれません。
[ 児童・生徒でも理解しうる可能性のある事項 ]
下の地図を御覧になってください。左の地図では沖縄県と台湾の間に境界線がありません。右の二つの地図では尖閣諸島の島名で中国語が使われています。中央の地図画像の「黄尾嶼」の日本名は「久場島」です。いずれも国土地理院の前身の陸地測量部 (注1) が昭和8年(1933年)に発行した5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)の一部です。低解像度の画像なら国土地理院が公開している『魚釣島』の旧版地図の簡易画像から確認できます。( 国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所で鮮明な画像を閲覧できます。 また、謄本・抄本も購入可能です。) これは日本が下関条約後に、「無主地先占」から「台湾の附属島嶼」として「割譲」されたという認識に方針変更した証拠です (別記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す ]参照)。それは平均的な小学校高学年児童の理解力を超えていますが、沖縄県と台湾の間に境界線がない地図が変だという事は大半の小学校高学年児童にとって理解可能でしょう。
尚、国土地理院の地形図で「黄尾嶼」・「赤尾嶼」の中国名は1988年(昭和63年)測量による1989年(平成1年)発行の5万分の1地形図『魚釣島』まで使用されていましたが、2003年(平成15年)測量による2003年(平成15年)発行の5万分の1地形図『魚釣島』以降は「久場島」・「大正島」の日本名が使われています。
「陸地測量部」作成の地図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行) は、国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧可能です (リスト番号:164-14-9)。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/etsuran.html
また、鮮明な謄本・抄本も購入可能です (リスト番号:164-14-9)。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html
また、中学生の場合、学校にインターネット端末で授業が行なえる設備があれば、現在の海上保安庁海洋情報部の前身である旧・海軍省の外局の水路部 (注2-1) (注2-2) 作成の水路誌を比較すれば以下の事がわかります。
(1) 日清戦争開戦時 (下関条約署名の前年) に発行された水路誌『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) (注3) では尖閣諸島の島が英語名のカタカナ表記だったのが、日清戦争後 (下関条約締結後) に発行された水路誌の付録の『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) (注4) では中国名になっています。その後の水路誌『日本水路誌 第2巻下』 (明治41年・1908年刊行) (注5) では尖閣諸島の主島の魚釣島のみ中国名の「釣魚嶼」から日本名の「魚釣島」に変更されています (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。尚、海上保安庁海洋情報部に問い合わせたところ、第二次世界大戦後も平成12年 (2000年) 発行の『九州沿岸水路誌』までは「黄尾嶼」・「赤尾嶼」の中国名が使われ、平成17年 (2005年) 発行の『九州沿岸水路誌』以降になってやっと「久場島」・「大正島」という日本名に変更されたそうです。
尚、「英語名」と「中国名」の対応は、沖縄県立図書館がインターネット公開している『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) の p.142-143 で照合してください。「中国名」と「日本名」との対応は コトバンク の「尖閣諸島」 か、少し見づらいですが国土地理院の「魚釣島」の図歴 か、 緯度・経度で照合してください(国土地理院電子国土web参照)。ただし、緯度・経度では若干のズレがありますので、昔の測量で誤差があり、周辺が海なので対応する島はそれしかないと生徒さんに説明してください。
(参考):緯度・経度で『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)と国土地理院電子国土webとの照合結果。(若干のズレがあります。)
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ラレー岩」: 北緯25度55分 東経124度34分 の位置は国土地理院の電子国土WEBの下記urlでの十字マークです。 http://maps.gsi.go.jp/#11/25.916667/124.566667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ホアピンス島北面」: 北緯25度47分7秒 東経123度30分30秒 http://maps.gsi.go.jp/#11/25.785278/123.508333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「チアウス島」: 北緯25度58分30秒 東経123度40分 http://maps.gsi.go.jp/#10/25.975000/123.666667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2 |
(2) 日清戦争直後に発行された水路誌の付録の『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) (注4) では「臺灣北東の諸島」とされており旧・海軍省の外局の水路部は下関条約で「台湾の附属諸島」として割譲されたと認識していた事を示しています (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍 ]参照)。日本の領土になった原因が日清戦争中の秘密閣議による「無主地先占」ではなく日清戦争で大勝利した事によって中国領だった台湾の附属諸島の一部として割譲されたという水路部の認識を示しています。割譲の場合は日本が第二次世界大戦で敗北した事により返還せねばなりません。
さらに、中学校・高等学校の近くに国会図書館の「図書館送信参加館」があれば、熱意のある中学生・高校生の場合、次の事も検証できます。
(3) 無主地先占した島や諸島である小笠原群島・大東島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島(南沙諸島)は日本海軍水路部作成の水路誌に所轄(管轄)や編入(領有)の記述があるにもかかわらず尖閣諸島に関しては所轄(管轄)や編入(領有)の記述が存在しません (別記事・[ 旧・海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。
高校生の場合には、下記の日本領論者のウソを理解できる者もいるでしょう。
(4) 「尖閣諸島は台湾省に属していなかったので清朝中国領でなく割譲対象でない」という日本領論者のウソ・・・欧米には本土から離れた無人島について通常の行政区画に入れていない場合があり (別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ]参照)、また、下関条約での割譲対象は「台湾省」ではなく「台湾及び附属島嶼」だった (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。
(5) 「尖閣諸島に関して現存する最古の文献では尖閣航路を水先案内したのは琉球人だったので琉球人の発見で日本領」という日本領論者のウソ・・・尖閣諸島に関して現存する最古の文献である明朝中国の冊封使・陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』 (1534年公刊) では、尖閣航路を水先案内したのは琉球人だった事がしるされていますが、その原因が役所に保管されていた航路に関する過去の記録が火災や風水害で消失し、前回の冊封船はの出航は相当前 (55年前) で当時の船員に聞く事ができなかった事が記されています。
さらに、実は明朝初期に朝貢のための独自の渡海能力のなかった琉球三王国に初期の明朝中国皇帝は進貢船 (朝貢船) にできる船を数十隻与え、操船のための航海士・船員も派遣したのです (別記事・[ 明朝中国は琉球王国に船と航海技術者を与えた ]参照)。明朝初期に琉球に派遣された航海士・船員の子孫は陳侃が冊封に琉球に行った時点では明朝中国と琉球王国の二重国籍で陳侃の冊封船にも水先案内として乗り込んでいました。(ただし、その後の明朝皇帝が二重国籍を禁じ明朝中国籍を剥奪しました。)
そもそも、沖縄県各所で古い中国銭が出土しており、明朝成立以前に中国民間交易船は何回も沖縄に来ていた事が考古学的に判明しており、尖閣諸島は明王朝成立前に中国の民間交易船が発見していた可能性が高いのです (別記事・[ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚島発見を示唆する ]参照)。しかも、冊封使・陳侃の琉球渡航より前の明朝初期に明朝初代皇帝が中国・福建省の東海上で朝貢してきそうな小王や大酋長を探すように命じて朝貢勧誘の中国船も相当航行しており、さらには琉球三王国に船を数十隻も贈っており数十回航行しており、常識的に考えれば尖閣諸島を発見したのは中国人のはずです。
大西洋の最初の横断をスペイン女王に提案しスペイン艦隊を率いたコロンブスはジェノバ共和国人でしたが、発見された中南米はスペイン領になりました(ただし、トルデシリャス条約によりブラジルはポルトガル領)。尖閣諸島に関する現存最古の文献である中国の公文書に中国の公船からの望見記述があれば国際法上は中国による発見です (別記事・[ 現存最古の記録で琉球王国派遣船員の操船でも中国による発見 ]参照)。
尚、英語の得意な高校生の場合は、国連サイトの「パルマス島事件」 判決原文から「パルマス島事件」 判決がパルマス島近くの島の大酋長を冊封したオランダにパルマス島の間接的実効支配を認めている事から、明朝中国に冊封される予定の次期琉球国王の臣下による洋上からの実効支配は冊封されて国王になった時点で明朝中国に帰属した事がわかります (別記事・[ パルマス島事件判決はオランダに冊封された大酋長による間接的支配を有効とする ]参照)。
(6) 「尖閣諸島で事業を行なっていた古賀辰四郎氏によって日本領になった」との民間人の日本領論者の誤り・・・そもそも古賀辰四郎氏自身が日清戦争で日本が大勝したため「台湾の附属島嶼」として尖閣諸島が清朝中国から割譲されたとの認識をしていました (別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼と認識 ])。割譲の場合は清朝中国領だった事を認めているので、いくら強固な実効支配をしても無主地先占にはなりません。また、仮に無主地だったとしても個人の占有は国家の追認抜きには国家の実効支配になりません (別記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ]参照)。さらに、古賀辰四郎氏の尖閣諸島での事業は環境破壊が伴っていたにもかかわらず日本政府が放置していた事です (別記事・[ 日本は尖閣諸島で環境破壊をしまくっていた ]参照)。大正時代に尖閣諸島の魚釣島附近で遭難した中国漁船員を救助した事は評価できますが中国側に魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知しており公然性にも欠けます (別記事・[ 魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知した日本政府 ]参照)。
さらに、昭和初期には古賀辰四郎氏の死後に尖閣諸島の事業を引き継いだ古賀善次氏が事業撤退していた事です (別記事・[ 昭和初期に無人化していた尖閣諸島 ]参照)。
(7) 「中国や台湾が石油の埋蔵が指摘されるまで地図や人民日報記事で日本領だと認めていたので、黙認によって日本領」という日本領論者のウソ・・・国連が条約に関する慣習国際法を法典化した「条約法に関するウィーン条約 (条約法条約) 」第48条によれば国家が締結した条約や条約に添付されている地図でも、勘違いによる場合は錯誤無効によって無かった事にして訂正できる場合もありうるのです (別記事・[ 尖閣諸島問題での国境の勘違いは国際法上訂正可能 ]参照)。ましてや中国本土や台湾の国内向けの地図や中国語記事の勘違いについて、勘違いの主たる原因が日本やフランスにあれば訂正可能なのです。
条約法に関するウィーン条約 (条約法条約) 第48条 (原文は外務省ホームページ資料参照) 1 いずれの国も、条約についての錯誤が、条約の締結の時に存在すると自国が考えていた事実又は事態であつて条約に拘束されることについての自国の同意の不可欠の基礎を成していた事実又は事態に係る錯誤である場合には、当該錯誤を条約に拘束されることについての自国の同意を無効にする根拠として援用することができる。
2 1の規定は、国が自らの行為を通じて当該錯誤の発生に寄与した場合又は国が何らかの錯誤の発生の可能性を予見することができる状況に置かれていた場合には、適用しない。
3 条約文の字句のみに係る錯誤は、条約の有効性に影響を及ぼすものではない。このような錯誤については、第七十九条の規定を適用する。 |
(8) 日本領論者の中には尖閣諸島に近い石垣島や与那国島等の八重山諸島の漁民だと主張する者がいますが、18世紀後半に極東地域の探検・測量調査に来たフランスのラペルーズ船長は与那国島沖で停泊した際に見た与那国島島民の丸木舟の漕ぎ方が下手である旨を評しています。さらに、明治時代には沖縄本島の糸満から多数の漁民が石垣島や与那国島に移住しました。現在の石垣島や与那国島の漁師は彼らの子孫か彼らに漁業技術を習った者の子孫です。そもそも、職業漁師がいる島に他所の島から多数の漁民が移住してくれば大紛争が起きるはずで、すんなりと沖縄本島の漁民が石垣島や与那国島等の八重山諸島に移住したという事は琉球王国時代の石垣島や与那国島等の八重山諸島に職業漁師がいなかった証拠です。また、沖縄に鰹節や干物の製造技術が伝わったのは明治以降で、鰹節や干物の製造技術が無かった琉球王国時代に尖閣諸島で魚を採っても腐らせずに持ち帰る方法が無かったのです (別記事・[ 明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由 ]参照)。
明治になって琉球処分後に古賀辰四郎氏が蒸気船をチャーターして沖縄本島の糸満漁民を乗せ尖閣諸島に向かわせ調査営業させ、魚類や鳥類の宝庫である事が判明してから、沖縄の漁民等が尖閣諸島に殺到したのです。つまり、明治期の尖閣諸島開拓では本土の資本家が主導し、沖縄本島の糸満漁民が漁業を指導し、本土の鰹節製造技術者が鰹節製造を指導し、(沖縄本島から移住した漁民以外の)石垣島や与那国島等の八重山諸島住民は尖閣諸島でも当初は下働きでした。尖閣諸島の魚釣島 (釣魚嶼) は名前の通り周辺海域に極めて魚が多かったので沖縄本島出身の糸満漁民である玉城保太郎氏が水中眼鏡・「ミーカガン」発明後は素もぐりで銛 (もり) で魚を突く漁も行なわれたでしょう。しかし、魚釣島 (釣魚嶼) 周辺は極めてサメ・フカが多く水中眼鏡・「ミーカガン」発明前は素もぐりで銛で魚を突く漁はサメに襲われる危険があったので行なわれてなかったでしょう。古賀辰四郎氏の尖閣諸島事業所に出稼ぎした石垣島や与那国島等の八重山諸島からの島民は、魚釣島や久場島で銛 (もり) に初めて出会ったと思われます。琉球王国での魚釣島の別名は「魚根 (福建音ではイーグン)」だったそうで、魚釣島に出稼ぎに来て初めて銛 (もり) と水中眼鏡・「ミーカガン」による素潜り漁に出会った石垣島や与那国島等の八重山諸島住民が魚釣島から持ち帰って「イーグン」と呼んだと私は推測します。これは戦国時代に種子島から伝来した火縄銃を「種子島」と呼んだり、南京やカンボジア経由で日本に伝来したカボチャを「ナンキン」とか「カボチャ」と呼んだのと同じ理屈でしょう (別記事・[ 魚釣島の別名の「ユクン」・「イーグン」の語源が「魚根」だった可能性について ]参照)。
(9) 明治政府の内務卿だった山縣有朋は尖閣諸島について清朝中国の冊封船の航路目標としての利用は認めたものの清朝中国による領有の証跡が無いとし、無主地先占可能である旨の見解を示しています (内閣官房・「尖閣諸島資料ポータルサイト」の記事・[ 太政官上申案 ]参照)。当時としては、国際法上、そういう見解も有力な見解だったでしょうが、その後のクリッパートン事件判決で証跡が無くとも洋上からの実効支配が認められた事から、尖閣諸島を冊封船の航路目標としていた清朝中国には洋上からの実効支配が認められます (別記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める ]参照)。尚、日本政府は沖縄県知事に日本領の証跡となる標杭 (国標) 建設を認めましたが、沖縄県知事は標杭 (国標) 建設しておらず (別記事・[ 国標を設置しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有 ]参照)、下関条約の内容が確定した署名時点までに沖縄県知事は日本領の証跡となる標杭 (国標) を建設してなかったのです。ちなみに、第二次世界大戦後にアメリカ軍占領下の石垣市が標杭建設するまで尖閣諸島に標杭は建設されませんでした。しかし、占領下の地方自治体には無主地先占の能力はありません (別記事・[ 占領下の地方自治体には無主地先占の権能は無い ]参照)。尚、明治・大正時代には古賀辰四郎の事務所や鰹節工場が尖閣諸島に建設されましたが、(高校社会の範囲を超えますが国際法上は)、特別な授権の無い私人の占有は国家の実効支配にはなりません (別記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ]参照)。
読解力や常識のある高校生の場合、日本史の授業において、更に次の事も理解できるかもしれません。
(10) 下関条約の文理解釈から日本は「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」と「台湾省」の語を使い分けている事から、割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」には台湾省に属さない島も含まれうる事が理解できるでしょう (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。
尚、高校生の場合には誤っている事を時間をかければ完全に理解可能な生徒が少数いるでしょうが、全体を完全に把握するのは初歩的な国際法の知識も必要で、しかも非常に長時間を要するため受験勉強の兼ね合いから困難です。 |
[ 国際法廷での解決は? ]
国際法廷での裁判では、国内の民事裁判のように相手を強制的に訴えれない場合が多く、非常に難解な点があり高校教育のレベルを超えています。それどころか、有名大学の法学部でも知らずに卒業して弁護士になってる方もおられると思います。そのため、高校教育でも教師側から言及すべきではないとは思いますが、学習指導要領が尖閣諸島につき「領土問題は存在しない」と教え込む事を強制しているので、その危険性に関連して少し述べておきます。
今まで、もし仮に国際法廷での裁判を受けても中国が敗訴する可能性が高く敗訴すれば政権転覆の危険があり、中国政府としては経済力・軍事力でアメリカを上回るまで我慢して、経済力・軍事力でアメリカを上回れば軍事的解決を目指す方針だったと推測されます。しかし、私が十分な主張・証明を示したので、中国政府がそれを理解し実践すれば100%勝訴可能です。方針転換して、日本に国際法廷への付託を求めてくる可能性も少しはあるでしょう。しかし、もし仮に、せっかく平和的解決を目指して中国が日本に国際法廷への付託を求めてきた場合に、日本政府は尖閣諸島につき「領土問題は存在しない」と国際法廷への付託を拒否するかもしれません。そして、中国も日本のように国際司法裁判所の選択条項受諾宣言をすれば国際司法裁判所で裁判できると言い逃れも可能でしょう。それは、中国が東南アジア諸国との間の南シナ海領有問題があって国際司法裁判所の選択条項受諾宣言が困難な事を見越しての戦略でしょう。尖閣諸島につき「領土問題は存在しない」という日本の学習指導要領の規定は単に現実無視であるだけでなく、国際法廷への付託拒否のための布石にもなりうる主張です。
もし仮に尖閣諸島問題で中国が (国際司法裁判所の選択条項受諾宣言をせずに) 日本に国際法廷への付託を求めて来れば日本は応じるべきです。それを拒否すれば、日本は国際的に厳しい非難に晒されるでしょう。それを考えれば、尖閣諸島につき「領土問題は存在しない」と教え込む教育は危険な教育です。尚、日本が国際法廷への付託を拒否しても中国には海洋法条約によって仲裁裁判所での裁判を日本に強制する裏技的な方法もありますが、実際には、国際司法裁判所への付託を拒否すれば国際法廷での解決を日本が拒否したとして2040年代に軍事攻撃に繋がる可能性の方が高いでしょう。尖閣諸島につき「領土問題は存在しない」などという日本政府の危険な屁理屈を生徒に教え込むのは危険な愚策の片棒を担ぐ事になると私は考えます。
完全な検証のための作業は多岐にわたり、初歩的な国際法知識だけでなく相当程度の漢文読解能力や英語読解能力や天文・測量に関する知識まで必要になります。
国語 (漢文) ・社会・英語・地学・生物学の先生方が協力して検証される事を希望します。
特に、鄭舜功著『日本一鑑』で釣魚嶼に巡視があった事を示す「略」の字に私は気付きましたが (別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す ]参照)、岡山大学教授 (当時) と中国人研究者による日本語訳では訳せてません。この事を漢文の得意な先生方に御確認していただきたく御願いします。
2018年12月8日 (2018年9月17日・当初版は こちら 。)
標準版は こちら。
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 尖閣諸島に関する領土問題を教えられる先生方へ 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。http://www.gsi.go.jp/common/000102612.pdf
>1888●測量局が陸軍参謀本部陸地測量部を経て、
>翌年に参謀本部陸地測量部となる。
(注2-1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html
>1888年 明治21年 6月27日 水路部 海軍の冠称を廃し水路部と改称
(注2-2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかる。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html
(注3) 『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行)は、下記urlの国立国会図書館デジタルコレクション参照。(通常のインターネット回線で閲覧可能)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180
(注4) 『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行)は、下記urlの国立国会図書館デジタルコレクション参照。(通常のインターネット回線で閲覧可能)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055
(注5) 『日本水路誌 第2巻下』 (明治41年・1908年刊行)は、下記urlの沖縄県立図書館・貴重資料デジタル書庫参照。
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61715