明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由
(1) 明治期の尖閣諸島での漁業・開拓は福岡県出身者の古賀辰四郎氏のような県外の実業家の主導で行われた。
(2) 尖閣諸島に近い石垣島・与那国島に沖縄本島の糸満から漁民が大挙して移住し漁業をした。この事は琉球王国時代には石垣島・与那国島には職業漁師がいなかった事を示唆する。(もし仮に琉球王国時代から石垣島・与那国島に職業漁師がいれば漁場荒らしとして大紛争が起きていたはずだが、そういう事はなかったからである。)
(3) 1787年に与那国島の島民達が丸木舟を漕ぐ様を見たフランス人探検家のラペルーズ船長が「その操作はあまり上手ではなかった」と評した程度の技能しかなかった。( 『ラペルーズ世界就航記』参照。下に日本語訳本の当該記述部分掲載。 )
(4) 琉球王国では鰹節製造がされておらず (沖縄本島の北西の伊平屋島を除いて) 干物を作る事もなかったので遠方の尖閣諸島から魚を持ち帰る手段を欠いていた (注1)。ちなみに尖閣諸島に鰹節製造所を造った古賀辰四郎氏も宮崎県や高知県から鰹節製造技術者を呼び寄せていた (注2) (注3)。
(5) 琉球王国時代に魚釣島の近くまで行きながら琉球王国役人の大城永保は危険動物がいるかもしれないと上陸をためらった。この事は琉球王国時代に魚釣島に上陸した琉球人がいなかった事を示唆する。 ( 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。 )
(6) 古賀辰四郎氏の下で漁業技術指導していた糸満漁師の玉城保太郎氏が水中眼鏡 ( ミーカガン ) を発明するまではサメの多い魚釣島周辺では、たとえイーグン ( 銛 ) があっても素潜りは危険だし、泳ぎの速いカツオを素潜りで獲れたとは考えにくい。また、船の上から銛でカジキやクジラを狙う突きん棒漁が沖縄で始まったのは動力船が導入された明治以降と考えられる。
(7) 明治時代になって、急に沖縄の漁民が大挙して尖閣諸島に殺到した事は、琉球王国時代に琉球漁民が尖閣諸島で漁業してなかった事の証である。( 1890年当時沖縄県属として八重山島役所に勤務していた塙忠雄氏作成の行政文書参照。下に掲載。 )
(8) 向姓家譜(具志川家)に釣魚嶼 ( 魚釣島 ) の俗称として「魚根久場島」 ( 國吉 まこも氏・沖縄大学地域研究所特別研究員 著・『尖閣諸島の琉球名と中国名のメモ 』 ( 地域フォーラム・vol.40 p.14 ) 参照 ) とあり、その中国語発音の発音と聞き取りしだいで「魚根(yugen)」は中国語標準音でも「ユクン」とも聞こえうる。更に琉球王国に渡来した中国人「久米三十六姓」は福建系であり福建南部の方言である閩南語では「イーグン」とも聞こえうる。( オンライン発音辞書「Forvo」)の「魚(閩南語)」及び「根(閩南語)」参照。「魚(閩南語)」は「イー」と聞こえるし「根(閩南語)」は「グン」と聞こえる。)
(9) 以上を総合すると、銛の石垣島方言「イーグン」が魚釣島の語源というより、魚釣島の古賀氏の下で働いた石垣島島民が琉球王国時代に石垣島に無かった銛や水中眼鏡 ( ミーカガン ) を魚釣島から持ち帰り、銛を魚釣島の別名「魚根」の中国語福建南部の方言の閩南語読みの「イーグン」と呼ぶようになった可能性もある。これは、戦国時代に内地の武将が火縄銃を伝来した場所にちなんで「種子島」と呼んだ事や、かぼちゃ(ナンキン)と呼ばれる南北アメリカ大陸原産のウリ科の野菜がカンボジアや中国経由で日本に持ち込まれ、それが呼称になった現象と同じと思われる。( 別記事[ 魚釣島の別名の「ユコン」・「イーグン」の語源が「魚根」だった可能性について ] 参照。 )
2019年2月24日 ( 2016年9月12日・当初版は こちら 。 )
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。参考資料 (1): 『八重山嶋に係ル書類』:1890年当時沖縄県属として八重山島役所(現石垣市役所)に勤務していた塙忠雄(はなわただお)氏作成の行政文書を「尖閣諸島資料ポータルサイト」より引用。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1890041600103.html
参考資料 (2): 『ラペルーズ世界就航記』 小林忠雄 編訳・白水社 (1988年2月15日発行) p.49・p.50参照。
フランス語が得意な方は、ネット上で、La Pérouse著の "Voyage de La Pérouse autour du Monde "
https://archive.org/details/voyagedelaprou002lap
からPDFをダウンロードして、原書p.380の下記の一文を訳されたい。
>Leurs pirogues n'étaient construites qu'avec des arbrescreusés , et ils les manoeuvraient assez mal.
尚、ネット上に複数の英訳本がある。
" A voyage round the world ( Vol 2 ) "
https://archive.org/details/voyageroundworld21lapr
>Their canoes were made out of hollowed trees, and they managed them
>very indifferently.
( p.346-347 )
尚、Google book (p.317)では、
>Their canoes were formed only of trees hollowed out,
>and they managed them but badly.
という英訳になっている。
(注1) 沖縄本島の北西に位置する伊平屋島には「スーファイ」という伝統的な魚の干物は存在した。「DEEokinawa」の下記の記事参照。
[ 沖縄の魚がとうとう干物になったぞ ]
https://www.dee-okinawa.com/koneta/2017/02/himono.html
(注2) 『2009年度 尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 ― 沖縄県における戦前~日本復帰(1972)の動き 1章 』(尖閣諸島文献資料編纂会 編) p.33-47 参照。
日本財団ホームページの下記urlより当該報告のPDFファイルがダウンロードできる。
http://fields.canpan.info/report/detail/19262
(注3) 1906年(明治39年)12月16日 琉球新報 第2面記事 [ 鰹製造人の油津行 ] 参照。
「石垣市・尖閣諸島関連記事データベース」において下記urlで公開されている。
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/detail.php?id=20032&era=m&y=1906
>無人島に於ける鰹製造者宮崎県人三十三名は、此度の御嶽丸便にて油津へ向け出航せり。
ちなみに、上記記事における「無人島」とは尖閣諸島を指す。