魚釣島の別名の「ユクン」・「イーグン」の語源が「魚根」だった可能性について
向姓家譜(具志川家)によれば、琉球王国時代の釣魚嶼の俗称は「魚根久場島」だったそうです (注1-1) (注1-2)。
冊封使・陳侃以降は多くの場合において琉球王国から派遣された水先案内人 ( 看針通事・夥長 ) が航路を決定していました。魚釣島は冊封使録には「釣魚嶼」・「釣魚台」・「釣魚山」として紹介されていますが、冊封使船の航行を担当する彼らにとって魚が釣れるか否かより釣魚嶼周辺の暗礁で船が損傷したり座礁したりする危険の回避が重要だったはずです。もちろん、琉球人だけで運行していた進貢船 ( 朝貢船 ) の場合も釣魚嶼周辺の暗礁への注意が必要です。
そして、暗礁は内地の漁師は「根」と呼びます。沖縄でも「曽根 ( スニ ) 」 (注2) と呼ぶようなので、沖縄でも暗礁を「根」と「曽根 ( スニ ) 」を短縮して呼ぶ事もあったはずです。
つまり、釣魚嶼の俗称の「魚根久場島」の「魚根」は暗礁への注意喚起を促す琉球の船員の呼称だったと私は考えます。マスト上の見張り役の水夫 ( 鴉班 ) も「魚」とか「根」とかの基本漢字は知っていたはずです (注3) 。
「魚根」は現代の中国語の標準語の発音を示すピンインでは「yugen」で「ユクン」とも聞き取れる可能性がありますし、琉球王国に渡来した中国人「久米三十六姓」は福建系であり福建南部の方言である閩南語では「イーグン」とも聞き取れる可能性があります。( オンライン発音辞書「Forvo」)の「魚(閩南語)」及び「根(閩南語)」を聞くと、私には、「魚(閩南語)」は「イー」と聞こえ、「根(閩南語)」は「グン」と聞こえます。)
宮良當壮 著・『八重山語彙』では、石垣島方言の「イーグン」は「銛」の意味だそうです。しかし、宮良當壮 著・『八重山語彙』は昭和5年 ( 1930年 ) 発行ですので調査は昭和初期に行われた可能性が高く、琉球王国時代の語彙とは断定できません。
また、琉球王国時代に与那国島の島民達が丸木舟を漕ぐ様を見たフランス人探検家のラペルーズ船長は「その操作はあまり上手ではなかった」と評した (注4) そうです。そして、明治期に与那国島や石垣島の漁業を主導したのは沖縄本島の糸満から与那国島や石垣島に移住してきた糸満漁夫達です。よって、琉球王国時代の与那国島や石垣島の島民の漁業技術は低かったと考えられます。プロの漁師が存在する島に他の島から漁師が大挙して移住すれば漁場荒らしとして大騒動になったはずだからです。
さらに、水中眼鏡 ( ミーカガン ) が糸満漁夫の玉城保太郎によって発明されたのは明治時代です。水中眼鏡 ( ミーカガン ) のなかった琉球王国時代に、もし仮に、石垣島の島民が釣魚嶼に行けたと仮定しても、釣魚嶼周辺はサメが非常に多い海域 (注5) (注6) (注7) (注8) なので水中眼鏡無しでの素潜りでは高速で泳ぐカツオを獲る前にサメに襲われるだけです。また、沖縄では船の上からカジキやクジラを銛で突く「突きん棒漁」が始まったのは明治以降に動力船が導入されて以降と考えられます。すなわち、水中眼鏡も突きん棒漁用の動力船もなかった時代には銛だけ存在しても意味が無かったはず (注9) なので、石垣島の島民が初めて銛という漁具を知ったのは明治時代に魚釣島の古賀氏の下で働いて以降の可能性が高いのです。
昔、日本の内地の「戦国時代」の武将が画期的兵器の火縄銃を「種子島」と伝来地にちなんだ名称で呼んでいた事や、カボチャ ( ナンキン ) と呼ばれるアメリカ大陸原産のウリ科の野菜がカンボジアや南京経由で日本に輸入された事から「カボチャ」とか「ナンキン」の名で呼ばれるようになったのと同様に、石垣島では明治期に魚釣島から伝来した「銛」を魚釣島の別称である「魚根」の中国語福建南部方言の閩南地方の発音の「イーグン」 にちなんで「イーグン」と呼んだ可能性もあると私は考えます。 ( オンライン発音辞書「Forvo」)の「魚(閩南語)」及び「根(閩南語)」参照。 )
尚、琉球王国時代に石垣島の島民が釣魚嶼で漁をしていなかったと考えられる理由については、別記事 [ 明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由 ] を参照してください。
2019年3月13日 ( 2016年9月12日・当初版は こちら 。 )
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 魚釣島の別名の「ユクン」・「イーグン」の語源が「魚根」だった可能性について 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1-1) 國吉まこも氏 ( 沖縄大学地域研究所特別研究員 ) 著・『尖閣諸島の琉球名と中国名のメモ 』 ( 地域フォーラム・vol.40 p.14 ) 参照 。
(注1-2) [ 尖閣諸島資料ポータルサイト ] の下記urlの記事 [ 向姓具志川家家譜十二世諱鴻基 ] 参照。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1819000000103.html
(注2) 渡久地健・西銘史則 著・『漁民のサンゴ礁漁場認識 : 大田徳盛氏作製の沖縄県南城市知念「海の地名図」を読む』 ( 琉球大学学術リポジトリ ) 表3参照。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/123456789/32848/3/No4p077.pdf
>スニ 曾根 (干出しない)斑礁、暗礁
(注3) 現在では、「魚」は小学校2年、「根」は小学校3年で習う初歩的な漢字である。
下記の文部科学省ホームページ記事参照。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/koku/001.htm
(注4) 『ラペルーズ世界就航記』 小林忠雄 編訳・白水社 (1988年2月15日発行) p.49・p.50参照。
フランス語が得意な方は、ネット上で、La Pérouse著の "Voyage de La Pérouse autour du Monde "
https://archive.org/details/voyagedelaprou002lap
からPDFをダウンロードして、原書p.380の下記の一文を訳されたい。
>Leurs pirogues n'étaient construites qu'avec des arbrescreusés , et ils les manoeuvraient assez mal.
尚、ネット上に複数の英訳本がある。
" A voyage round the world ( Vol 2 ) "
https://archive.org/details/voyageroundworld21lapr
>Their canoes were made out of hollowed trees, and they managed them
>very indifferently.
( p.346-347 )
尚、Google book (p.317)では、
>Their canoes were formed only of trees hollowed out,
>and they managed them but badly.
という英訳になっている。
(注5) 國吉まこも氏 ( 沖縄大学地域研究所特別研究員 ) 著・『尖閣諸島の琉球名と中国名のメモ 』 ( 地域フォーラム・vol.40 p.15 ) 参照 。
http://forum.sitemix.jp/forumpdf/vol40.pdf
>※2:鄭舜功『日本一鑑』は、極めて興味深い。なぜなら福州から琉球、
>そして日本に至るまでの針路を記している中で、『釣魚嶼』について特に、
>島の周囲には“巨大な長さ4m弱のサメ?(魚編に沙)族”が多く見られると、
>具体的な島の状況を記しているからである。
(注6) 下掲の『日本一鑑』の「萬里長歌」の釣魚嶼関連部分参照。
(注7) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。明治になって釣魚嶼の領有を勧めた元・琉球王国役人で釣魚嶼を間近で見た大城永保が魚釣島 (釣魚嶼) について「沿海は鮫鱶其他の鱗族最も多し。」旨を述べていた事がわかる。
(注8) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 古賀辰四郎ヘ藍綬褒章下賜ノ件 ] 中の古賀辰四郎の経営の大要参照。古賀氏は(サメを獲って)「鱶鰭(ふかひれ)」を造っていたのがわかる。
(注9) ただし、日本内地の紀州 ( 現・和歌山県 ) の太地 ( たいじ ) や房総半島南端のように江戸時代からクジラ漁が行われていた地方では、江戸時代から銛が使われていました。