マスコミは尖閣諸島問題の真実を伝えるべき
マスコミは尖閣諸島問題に関して日本政府の主張をそのまま伝えるのではなく、真実を伝えるべきです。
そのために、次の事を確認してください。
[ 沖縄県知事が国標を建設したか内閣官房の「領土・主権対策企画調整室」と沖縄県庁に取材してください ]
日本政府は明治28年 (1895年) 1月14日の閣議で沖縄県知事に久場島と魚釣島に標杭 (国標) 建設を許可しました。この事に関して内閣官房の「領土・主権対策企画調整室」と沖縄県庁に以下の事を取材してください。
沖縄県知事は第二次世界大戦終結までに久場島と魚釣島に標杭を建設したのでしょうか? もし仮に、沖縄県知事が尖閣諸島に標杭を建設してなかったら、日本は尖閣諸島を実効支配したのはいつですか? もし仮に、下関条約署名前に日本による尖閣諸島の実効支配が無かった場合に、下関条約署名前に「無主地先占」はできたのでしょうか? もし仮に、下関条約署名前に日本の「無主地先占」が完了してない場合は割譲で領有した事になるのではありませんか? |
( 上掲の画像は国立公文書館のサイト「アジア歴史資料センター」 のレファレンスコード「A01200793600」資料より引用。)
[ 公的資料から容易に確認できる事 ]
この項目では、インターネット上の公的サイト及び東京区部の公的機関・図書館で得られる公的資料を前提に一般人が理解しうる事項を述べましょう。
(1) まず、下の地図を御覧ください。
沖縄県と台湾の間に境界線がありません。上掲の地図を作成したのは参謀本部 陸地測量部 (注1) で現在の国土地理院の前身です。そして、上掲の地図は『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)の右下部分の『一般図』です。低解像度画像なら国土地理院ホームページで閲覧できます。鮮明な画像は国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧することができます (注2)。(東京に本拠のあるマスコミの記者さんなら一時間程度で御確認できるでしょう。) また、鮮明な謄本・抄本も購入可能です (注3)。
参考サイト: 国土地理院 WEB サイト における旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)参照。下記urlのページの一覧でリスト番号「164-14-9」 をクリックすると表示できます。 ただし、画像は不鮮明な低解像度画像です。それでも、沖縄県と台湾の間に境界線が無い事は確認可能です。 http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14 |
上掲の5万分の1地形図・旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)では尖閣諸島の「久場島」が「黄尾嶼」と中国名のみで表示され、「大正島」は中国名の「赤尾嶼」が日本名の「大正島」より優先的に表示されています。
(2) さて、今度は現在の海上保安庁・海洋情報部の前身の海軍省の外局の水路部 (注4-1) (注4-2) が作成した水路誌について述べましょう。まず、通常のインターネット回線で閲覧可能な図書館が公開している文献の範囲で述べます。
(2-1) 日清戦争開戦時 (下関条約署名の前年) の明治27年 (1894年) 刊行の水路誌・『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) では英国の水路誌を参考にしたため尖閣諸島の島の名前は英語名のカタカナ表記でした。ちなみに、表記の「ラレー岩」は「大正島 (赤尾嶼)」 で、「ホアピンス島」は「魚釣島(釣魚嶼)」で、「チアウス島」は「久場島 (黄尾嶼)」です (注5) 。
それが日清戦争後に「台湾の附属島嶼」の割譲を受けた事から臨時で刊行された水路誌・『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) では中国名表記に変更されています (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。
尖閣諸島の島名の日本名と英語名と中国名の対応の調べ方:
通常のインターネットの範囲で、尖閣諸島の島名の中国名と英語名の対応を調べる場合は、沖縄県立図書館がインターネット公開している『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) (注6-1) ・p.142-143 での中国名と英語名の併記を参考にしてください。 国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて尖閣諸島の島名の中国名と英語名の対応を調べる場合は、『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行) (注7) ・p.49 もしくは 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) (注6-2) p.142-143 での中国名と英語名の併記を参考にしてください。 尖閣諸島の島名の日本名と中国名の対応は、国土地理院地方測量部または沖縄支所で、5万分の1地形図・『魚釣島』・(1973年測量・1974年発行・リスト番号:164-14-2)での中国名と日本名の併記を参考にしてください。 尚、「ピンナクル諸嶼」というのは英国水路誌の"The Pinacle group"の訳で南北小島及び周辺の岩礁を指します。尚、日本人で始めて魚釣島 (釣魚嶼) の学術調査をした黒岩恒は1900年発行の『地学雑誌』(第12巻8号)のp.477において釣魚嶼と尖閣諸嶼と黄尾嶼を合わせて「尖閣列島」と命名しています。上記の「ピンナクル諸嶼」に相当する「尖閣諸嶼」 と「尖閣列島」とは異なる事に注意してください。 |
(2-2) また、日清戦争後の水路誌・『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) で「台湾北東ノ諸島」に分類しており (上掲の画像参照)、下関条約の割譲対象である「台湾の附属島嶼」との認識が示されています。ちなみに、下関条約では割譲地域を定める第二条では「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」とあり、受け渡しに関する第5条の「台湾省」と用語を使い分けている事に注意してください (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。
日清媾和条約 (下関条約) 第二條清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 アジア歴史資料センター・『日清講和条約・調印書』(レファレンスコード:B13090893700参照) https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/main/18950417/pdf/18950417_01.pdf |
(2-3) さらに、通常のインターネット回線で閲覧可能な資料に加え、国会図書館または国会図書館送信参加館で閲覧可能な水路誌まで含めれば以下の事も判ります。
無主地先占した島や諸島である小笠原群島・大東島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島(南沙諸島)は日本海軍水路部作成の水路誌に所轄(管轄)や編入(領有)の記述がありますが、尖閣諸島の記述はありません。この事は海上保安庁・海洋情報部の職員の寄高 (ヨリタカ) さんも認めておられるので海上保安庁・海洋情報部の寄高さんに御確認願います。この事は日本海軍水路部作成の水路誌が尖閣諸島を割譲によって日本領にした事を示しています (別記事・[ 旧・海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。
(3) 日本政府や日本領論者は大正時代に魚釣島 (釣魚嶼) 沖で遭難した中国人漁船員を救助し、中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」で救助された事の感謝状をもらった事をもって中国が尖閣諸島を日本領だと認めたとの主張をしています。中国としては清朝中国が台湾の附属島嶼として割譲したわけだから日本領だと認めるのは当然でしょう。
問題は日本政府が魚釣島 (釣魚嶼) の事を「和洋島」という架空の島名で通知した事です。この事について、石垣市立八重山博物館の学芸員だった島袋綾野氏が発見して、石垣市立八重山博物館紀要・第22号に [ 外務省記録文書に見る「感謝状」のいきさつ ] の一部分に「誤記の可能性が高い」との注釈として発表されましたが、報道されたのは八重山諸島の地方紙だけです。尚、島袋綾野氏は誤記だとされていますが、そもそも、誤記だとすれば魚釣島 (釣魚嶼) の俗称の「和平島」 を公文書に記載し、更に誤記した事になり二重の過失であり考えにくいだけでなく、常識的に、「和洋」という語は「中華」の語の対比で、英国人のサマラン号のベルチャー船長が測量し上陸して近代的調査をし、日本が領有し、中国とは無縁の島だという意味の架空名で意図的に架空名で報告したと推理した方が整合性が高いでしょう (別記事・[ 魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知した日本政府 ]参照)。ともかく、仮に誤記だとしても「和洋島」という架空の名称で通知したのは事実なので全国的に報道すべきです。石垣市立八重山博物館の島袋綾野氏に問い合わせて確認してください。また、「アジア歴史センター」展示資料・『遭難支那人(福州人)救助ニ関スル件』・(レファレンスコード:B12081793600 ) を参照して確認してください。
(4) 日本政府や日本領論者は海底油田の存在が指摘されるまで、中国 (台湾を含む) の地図では尖閣諸島は地図の国境線の日本側に描かれたように見え、1953年1月8日の人民日報記事は尖閣諸島が琉球諸島に属するとし、尖閣諸島が日本領である事を容認していたと主張しています。これについては、少し法律の素養は必要ですが、条約に関する国際慣習法を国連が法典化した条約である「条約法に関するウィーン条約」 (条約法条約) の第48条によれば、十分に調査をしたはずの条約ですら錯誤による無効の主張によって誤った表現を無効として無かった事にして訂正ができる場合があり 、国境に関する勘違い (錯誤) でも錯誤無効として無かった事にして訂正の余地があります。よって、中国 (台湾を含む) の国内向けの地図や中国語で書かれた人民日報記事に勘違い (錯誤) で国境の誤りがあっても、その勘違いの原因が日本や第三国にあれば錯誤無効によって無かった事にして訂正可能です (別記事・[ 尖閣諸島問題での国境の勘違いは国際法上訂正可能 ]参照)。
条約法に関するウィーン条約 (条約法条約) ・第48条 (原文は外務省ホームページ資料参照) 1 いずれの国も、条約についての錯誤が、条約の締結の時に存在すると自国が考えていた事実又は事態であつて条約に拘束されることについての自国の同意の不可欠の基礎を成していた事実又は事態に係る錯誤である場合には、当該錯誤を条約に拘束されることについての自国の同意を無効にする根拠として援用することができる。
2 1の規定は、国が自らの行為を通じて当該錯誤の発生に寄与した場合又は国が何らかの錯誤の発生の可能性を予見することができる状況に置かれていた場合には、適用しない。
3 条約文の字句のみに係る錯誤は、条約の有効性に影響を及ぼすものではない。このような錯誤については、第七十九条の規定を適用する。
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(5) アメリカの信託統治領になる予定の第三条以外の領土に関する規定が大雑把だったのは、日本がサンフランシスコ講和条約作成で主導的立場にあったアメリカに、日本国民の領土喪失感を口実にサンフランシスコ講和条約に緯度経度表示や地図の添付を避けるよう要請した事が大きな原因の一つです。『日本外交文書・サンフランシスコ平和条約・対米交渉』 中の第77項目・[ 英国の平和条約案に対するわが方の逐条的見解について ]・p.397 を御覧ください。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf2_05.pdf
日本の外務省はホームページの記事『尖閣諸島情勢に関するQ&A』には、あたかもサンフランシスコ講和条約で緯度・経度や地図で明定されているような印象を与えかねない緯度・経度で示された範囲を地図で図示していますが、それは「沖縄返還協定」の「議事録」において示された緯度・経度による範囲を地図上に表示した悪質な心理操作です。なぜなら、「沖縄返還協定」の返還領域は(既に返還された奄美群島と南方諸島を除く)サンフランシスコ講和条約第三条の範囲に限定され、正式に批准された「沖縄返還協定」の本文と批准されていない「議事録」の内容が矛盾する場合には「議事録」の矛盾する部分が無効だからです。
以上、インターネット上の公的サイト及び東京区部の公的機関・図書館で得られる公的資料を前提に一般人が理解しうる事項を述べました。
[ 少し努力すれば信頼性の高い資料から確認できる事 ]
この項目では、少し努力すれば信頼性の高い資料から確認可能な事項を述べます。
(6) 「クリッパートン島事件」仲裁裁判 (メキシコ対フランス) 判決と、訴訟外においてフランスの主張に従ったアメリカの対応 (国際慣行):
この判決の理由における重要な点は絶海の無人島に対しては洋上からの実効支配を認めた点です。よって 「クリッパートン島事件」仲裁裁判の判旨から尖閣諸島を航路目標として利用していた事を国際的に公開していた明朝・清朝中国には尖閣諸島に対する洋上からの実効支配が認められるのです (別記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める ]参照)。
この判決についてはネット上には日本語の適切な解説はないようなので図書館で以下の書籍を閲覧してください。
国際連合ホームページにおけるクリッパートン島事件 仲裁裁判判決原文 は下記urlにありますが、フランス語です。
http://legal.un.org/docs/?path=../riaa/cases/vol_II/1105-1111.pdf&lang=O
日本語訳は下記で紹介する芹田健太郎 著・『島の領有と経済水域の境界画定』の「補章」p.316-323にあります。
クリッパートン島事件の日本語参考文献:
『島の領有と経済水域の境界画定』 (芹田健太郎 著・有信堂高文社 1999年6月3日初版第1刷発行) における補章 p.316-323 『 国際法判例百選 [ 第2版 ] 』 (小寺彰 他 編・有斐閣 2011年9月25日発行) における p.56-57・『先占・クリッパートン島事件』(深町朋子 著) 『島嶼研究ジャーナル第3巻1号』 における p.137・『クリッパートン島事件(メキシコ対フランス)』・堀井進吾 著 |
(7) 日本領論者の中には清朝中国時代に尖閣諸島が台湾省に属していなかったので中国領でないと主張する者もいますが、欧米では海外属領の無人島が行政区画に属さない場合があります。上述のクリッパートン島もそうですし、太平洋戦争で有名なミッドウェー島もそうです
(別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ]参照)。欧米の事例だけでなく日本でも明治9年(1876年)に小笠原諸島を正式に領土編入宣言しましたが直後は内務省の管轄で東京府に編入されたのは明治13年(1880年)です。絶海の無人島では地方行政が行なわれないため行政区画に属させる必要性が無いからでしょう。全国紙やテレビ局にはフランスやアメリカの絶海の無人島の海外属領の地方行政について調べてください。
しかも、下関条約では割譲対象は「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」であって「台湾省」ではありません
(別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。
(8) 沖縄県各地で宋王朝成立前の中国の古銭が出土しています。宋王朝成立前に日本の船で沖縄に立ち寄ったのは鑑真を乗せた遣唐使船だけなので、中国の民間交易船が宋王朝成立前に沖縄に頻繁に来航していた証拠になります。尖閣諸島の釣魚嶼 (魚釣島) の最高地点の標高は362mなので、波の穏やかな晴天の日中には約65kmの距離の船上から発見しえたと考えられ、宋王朝成立前に中国の民間交易船が釣魚嶼 (魚釣島) を発見していた可能性が高いのです (別記事・[ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚島発見を示唆する ]参照)。
(9) 日本領論者の中には尖閣諸島を発見したのは石垣島や与那国島等の八重山諸島の漁師だと主張する者がいます。しかし、石垣島や与那国島の漁師は明治期に沖縄本島から移り住んだ糸満漁民の子孫か弟子なのです。だいたい、もし仮に琉球王国時代の石垣島や与那国島に職業漁師がいれば明治期に沖縄本島から漁師が大挙して移住できないでしょう。また、18世紀後半に与那国島沖に立ち寄り尖閣諸島の緯度・経度を測量したフランスのラペルーズ船長は与那国島の島民の丸木舟の漕ぎ方が下手だと評しています。沖縄に鰹節や干物の製法が伝わったのは明治以降で、もし仮に尖閣諸島で魚を釣っても鰹節や干物にできなければ持ち帰れないでしょう。明治期に尖閣諸島での漁業を主導したのは古賀辰四郎氏のような内地の資本家で、漁業技術を指導したのは沖縄本島の糸満漁民で、鰹節製造技術は宮崎県出身者が指導したのです (別記事・[ 明治以前に琉球の漁民が尖閣諸島で漁をしてなかったと考えられる理由 ]参照)。尚、石垣島の明治期の方言の記録で「魚釣島 (釣魚嶼)」 も漁具の「銛 (モリ) 」も「イーグン」という事から石垣島の漁民が発見したと主張する者もいるようですが、琉球王国時代に「魚釣島 (釣魚嶼)」 の琉球名が「魚根」だったので、その福建読みが「イーグン」だったのです。福建読みというのは明朝初代皇帝が琉球の文明開化のために福建の中国人を琉球に派遣したからです。そして、「魚釣島 (釣魚嶼)」の古賀氏に雇われた沖縄本島出身の糸満漁民の指導の下で下働きした石垣島島民が「銛 (モリ) 」という漁具に、イーグンと呼んでいた「魚釣島 (釣魚嶼)」において出合ったので「銛 (モリ) 」を「イーグン」と呼んだのでしょう。戦国時代に種子島経由で日本に入ってきた火縄銃を「種子島」と呼んだり、カンボジアや南京経由で入ってきた野菜のパンプキンを「カボチャ」とか「ナンキン」と呼ぶのと同じ理屈でしょう。だいたい、糸満漁民の玉城保太郎氏が水中眼鏡 ( ミーカガン ) を発明するまではサメだらけの「魚釣島 (釣魚嶼)」で「銛 (モリ) 」による素潜り漁は不可能だったのです。
(10) 尖閣諸島に関する現存する最古の文献である明朝中国から琉球王国に向かった冊封使・陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』 (1534年公刊) には、冊封使・陳侃が琉球王国への航路の経験のある中国人船員がいなかったので琉球王国への航行に不安に感じていたところ、琉球王国の次期国王 (冊封前なので名目上は未即位だが琉球王国の君主) が琉球王国への航路を操船・水先案内する船員を派遣してくれたので喜んだ事が記されています。そして、琉球王国から派遣された船員の操船・水先案内によって冊封使船が中国本土・福建省から琉球王国に航行し、その途中で航路目標として釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島を含む冊封使航路の列島が登場します。
日本領論者の中には、上記の記述をもって尖閣諸島を発見したのは琉球人だと主張するさもしい漢文翻訳家の原田禹雄氏や漢文学者の石井望氏がいます。そして、上述の記述のみを紹介して日本領の根拠として扇動しています。
しかし、上述の冊封使・陳侃の著書の『使琉球録』 を最後まで読めば、「陳侃等謹題為周咨訪以備採擇事」の項目には琉球王国への航路がわからなくなった原因について書かれており、過去の琉球王国に赴いた冊封使の記録が (中央官庁の役所である) 「礼部」では焼失し、琉球王国への出航地である福建省の「福建布政司」では風雨で傷んでしまっていた事と以前の冊封使船の乗組員が引退してしまった事が原因だとわかります。陳侃の前の冊封使の出航は55年も前の1479年で当時の船員は引退し、ほとんど死亡していたはずなので、航海の記録が滅失していれば航路がわからなくなって当然なのです。常識的に考えれば、明王朝初期に明朝中国の公船が尖閣諸島を望見した航海記録があったはずです。
さらに、明王朝初期に明朝中国は渡海能力の無かった琉球に数十隻もの船を与え操船技術者も派遣しました (別記事・[ 明朝中国は琉球王国に船と航海技術者を与えた ]参照)。冊封使・陳侃の航海でも明王朝初期に明朝中国から琉球に派遣された航海士の子孫らが操船していたと考えられます。後の1548年に明朝皇帝が二重国籍を禁じ明朝中国籍を剥奪しますが陳侃が冊封使として琉球王国に向かった1534年当時では彼らは二重国籍でした。
そもそも、明朝中国は琉球王国に大盤振る舞いしていたわけで、もし仮に琉球人が尖閣諸島を発見していたなら横取りするはずがないのです。当時は排他的経済水域も無く尖閣諸島の経済的価値が低かったからです。
さらに、冊封使・陳侃の尖閣諸島の望見は明朝中国の公船・軍艦である冊封船からのもので、皇帝に提出した公文書である『使琉球録』に記載されており、仮に航路案内した琉球人船員が発見したと仮定しても、明朝中国の臣下である琉球国王 (ただし、航海当時は冊封前だったので次期国王内定者) の臣下であり、国際法上は国家としての発見が明朝中国に帰属するのは明白です (別記事・[ 現存最古の記録で琉球王国派遣船員の操船でも中国による発見 ]参照)。
(11) 日本領論者の中には古賀辰四郎氏・古賀善次氏親子が尖閣諸島で事業をした事を日本の実効支配の根拠にしていますが、そもそも古賀辰四郎氏・古賀善次氏親子は尖閣諸島が日清戦争での日本の大勝利によって台湾と共に割譲されたという認識を持っていました (別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼として割譲と認識 ]参照)。
また、(封建領主でもなく土着民でもない) 個人による占有の場合は国家からの特別な授権がなければ国家による実効的占有 (実効支配) とは認められません (別記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ]参照)。それゆえ、国家としての日本による実効支配はわずかで、しかも、なすべき行政を行なわず放置していたのです (別記事・[ 日本は尖閣諸島において必要な行政を行っていなかった ]参照)。そのため、尖閣諸島では環境破壊されまくっており (別記事・[ 日本は尖閣諸島で環境破壊をしまくっていた ])、日本は尖閣諸島で負 (マイナス) の実効支配をしていたのです。
尚、仮に日本がいかに強固に実効的占有 (実効支配) をしていたとしても領有の原因 (権原) が割譲なので先占にはなりません。
(付記・1):
21世紀の日本政府は尖閣諸島が中国名で表記されるとヒステリックな拒否反応を示し、尖閣諸島の島名を中国名で表示したグーグルマップに対し日本政府は憲法の表現の自由を無視して抗議しました。ほとんど犬がライバルの犬の匂いを嗅ぎ付けて吠えるような反応です。もちろん、水路誌における尖閣諸島の島名も2005年から日本名に変更されました (海上保安庁海洋情報部へ問い合わせ結果)。 尚、国土地理院の地形図における尖閣諸島の島名も2003年から日本名単独表記に変更されました。
なぜ、日清戦争後に海軍水路部も陸軍陸地測量部も、わざわざ中国名表記にしたのかというと、考えられる理由は二つあります。まず、清朝中国から日清戦争の戦果として「割譲」を受けたという事を内外にアピールするためだったと私は推測しています。「無主地先占」なら文官の手柄ですが、「割譲」なら日清戦争での戦果で軍の功績です。しかも、日清戦争直後の時点でも尖閣諸島では英国の実効支配の方が上だったのです。英国は1845年にサマラン号のベルチャー船長が緯度・経度・標高を測量し、世界初の近代的上陸調査をして航海記で公表し、その後も継続して測量して水路誌で公表していたのです。日本は日清戦争直後まで調査のシロウトの沖縄県職員が数時間上陸調査しただけで非公開で、沖縄県知事も標杭 (国標) を建設せず、民間人が無秩序に上陸して漁をしたり鳥や卵を採っていただけです。上述の『日本水路誌.・第2卷 附録』の刊行後に古賀辰四郎氏が政府から尖閣諸島を借り受け開発に着手しましたが、国際法上は特別な授権の無い私人の占有は国家の実効支配とはみなされず、「無主地先占」では英国に勝てないので清朝中国から「割譲」を受けたという体裁を採ったものと思われます。
さらに、沖縄県知事が秘密閣議決定で許可された標杭 (国標) を建設しなかった事も清朝中国からの「割譲」を裏付けています。
「割譲」だとすれば、下関条約発効まで清朝中国領だった事を認めた事になり、第二次世界大戦の敗戦とポツダム宣言の受諾によって中国に返還せねばなりません。
(付記・2):
海軍水路部作成の水路誌や陸軍陸地測量部作成の地図が「割譲」を前提にしているだけでなく、下関条約の内容が確定した署名時点で尖閣諸島が割譲対象の「台湾の附属島嶼」に該当するため、日本が尖閣諸島を無主地先占するには下関条約署名以前に中国や英国に優越する実効支配を確実にし国際的に公知の事実とせねばなりませんでした。
しかし、実際には下関条約署名以前には日本人漁師らが無秩序に魚や鳥や鳥の卵を乱獲しているだけで、調査に不慣れな沖縄県職員が数時間上陸調査しただけで、非公開の閣議で沖縄県の所轄とし、警察の仮の管轄を決めただけで、沖縄県知事も標杭 (国標) 建設をしておらず、近代的実効支配はサマラン号ベルチャー船長の航海記や水路誌で上陸調査結果や測量結果を国際的に公開していた英国に劣後していたのは明白で、冊封船による航路目標としての利用を国際的に公開していた清朝中国の洋上からの歴史的実効支配にも劣後しており、下関条約署名時点で国際的に尖閣諸島は日本領とは認められていない状況だったので「無主地先占」ではなく「割譲」なのです。
2030年代には中国のGDPがアメリカを抜き、2040年代には軍備で中国軍がアメリカ軍を抜く可能性が高いのです。その時になって真実を伝えても遅すぎます。2040年に尖閣諸島を返還し謝罪すれば、「なぜ、今まで盗んでいたのだ」と中国人は怒り狂うでしょう。
2018年12月9日 (2018年9月29日・当初版は こちら 。)
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ マスコミは尖閣諸島問題の真実を伝えるべき 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1) 下記urlの国土地理院ホームページ資料参照。
http://www.gsi.go.jp/common/000102612.pdf
>1888●測量局が陸軍参謀本部陸地測量部を経て、
>翌年に参謀本部陸地測量部となる。
(注2) 下記urlの旧版地図の閲覧窓口 参照。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/etsuran.html
(注3) 下記urlの「旧版地図の謄抄本交付申請」 参照。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html
(注4-1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html
>1888年 明治21年 6月27日 水路部 海軍の冠称を廃し水路部と改称
(注4-2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかります。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html
(注5) 本文の囲み記事で書いたように『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行)p.142-143 または『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行) ・p.49 で確認するのが確実ですが、『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) の島の緯度・経度から国土地理院の電子国土WEBの位置とで比定 (同定) する方法もあります。
ただし、『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) の島の緯度・経度には若干の誤差があるため不完全な比定 (同定) 方法ですが、それらしい島が比定 (同定) できます。
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ラレー岩」: 北緯25度55分 東経124度34分 の位置は国土地理院の電子国土WEBの下記urlでの十字マークです。
http://maps.gsi.go.jp/#11/25.916667/124.566667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ホアピンス島北面」: 北緯25度47分7秒 東経123度30分30秒
http://maps.gsi.go.jp/#11/25.785278/123.508333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「チアウス島」: 北緯25度58分30秒 東経123度40分
http://maps.gsi.go.jp/#10/25.975000/123.666667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
(注6-1) 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) を通常のインターネット回線では、現時点では沖縄県立図書館・貴重資料デジタル書庫の下記urlで閲覧できる。
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61715
(注6-2) 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) を国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて閲覧する場合は、下記によって閲覧できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304288
書誌ID:000009131782
(注7) 『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行)を国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて閲覧する場合は、下記によって閲覧できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304272
書誌ID:000009137361