(注意)これは、閲覧用ではありません。これは、過去記事保存資料用です。最新版を御覧ください。
マスコミは尖閣諸島問題の真実を伝えるべき
マスコミは尖閣諸島問題に関して日本政府の主張をそのまま伝えるのではなく、真実を伝えるべきです。
そのために、次の事を確認してください。
[ 容易に確認できる事 ]
この項目では、インターネット上の公的サイト及び東京区部の公的機関・図書館で得られる公的資料を前提に一般人が理解しうる事項を述べましょう。
まず、下の地図を御覧ください。
沖縄県と台湾の間に境界線がありません。上掲の地図を作成したのは参謀本部 陸地測量部 (注1) で現在の国土地理院の前身です。そして、上掲の地図は『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)の右下部分の『一般図』です。低解像度画像なら国土地理院ホームページで閲覧できます。鮮明な画像は国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧することができます (注2)。(東京に本拠のあるマスコミの記者さんなら一時間程度で御確認できるでしょう。) また、鮮明な謄本・抄本も購入可能です (注3)。
参考サイト: 国土地理院 WEB サイト における旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)参照。下記urlのページの一覧でリスト番号「164-14-9」 をクリックすると表示できます。 ただし、画像は不鮮明な低解像度画像です。それでも、沖縄県と台湾の間に境界線が無い事は確認可能です。 http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14 |
上掲の5万分の1地形図・旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)では尖閣諸島の「久場島」が「黄尾嶼」と中国名のみで表示され、「大正島」は中国名の「赤尾嶼」が日本名の「大正島」より優先的に表示されています。
さて、今度は現在の海上保安庁・海洋情報部の前身の海軍省の外局の水路部 (注4-1) (注4-2) が作成した水路誌について述べましょう。まず、通常のインターネット回線で閲覧可能な図書館が公開している文献の範囲で述べます。
日清戦争開戦時 (下関条約署名の前年) の明治27年 (1894年) 刊行の水路誌・『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) では英国の水路誌を参考にしたため尖閣諸島の島の名前は英語名のカタカナ表記でした。ちなみに、表記の「ラレー岩」は「大正島 (赤尾嶼)」 で、「ホアピンス島」は「魚釣島(釣魚嶼)」で、「チアウス島」は「久場島 (黄尾嶼)」です (注5) 。
それが日清戦争後に「台湾の附属島嶼」の割譲を受けた事から臨時で刊行された水路誌・『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) では中国名表記に変更されています (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。
尖閣諸島の島名の日本名と英語名と中国名の対応の調べ方:
通常のインターネットの範囲で、尖閣諸島の島名の中国名と英語名の対応を調べる場合は、沖縄県立図書館がインターネット公開している『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) (注6-1) ・p.142-143 での中国名と英語名の併記を参考にしてください。 国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて尖閣諸島の島名の中国名と英語名の対応を調べる場合は、『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行) (注7) ・p.49 もしくは 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) (注6-2) p.142-143 での中国名と英語名の併記を参考にしてください。 尖閣諸島の島名の日本名と中国名の対応は、国土地理院地方測量部または沖縄支所で、5万分の1地形図・『魚釣島』・(1973年測量・1974年発行・リスト番号:164-14-2)での中国名と日本名の併記を参考にしてください。 尚、「ピンナクル諸嶼」というのは英国水路誌の"The Pinacle group"の訳で南北小島及び周辺の岩礁を指します。尚、日本人で始めて魚釣島 (釣魚嶼) の学術調査をした黒岩恒は1900年発行の『地学雑誌』(第12巻8号)のp.477において釣魚嶼と尖閣諸嶼と黄尾嶼を合わせて「尖閣列島」と命名しています。上記の「ピンナクル諸嶼」に相当する「尖閣諸嶼」 と「尖閣列島」とは異なる事に注意してください。 |
また、日清戦争後の水路誌・『日本水路誌.・第2卷 附録』(明治29年・1896年刊行) で「台湾北東ノ諸島」に分類しており (上掲の画像参照)、下関条約の割譲対象である「台湾の附属島嶼」との認識が示されています。ちなみに、下関条約では割譲地域を定める第二条では「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」とあり、受け渡しに関する第5条の「台湾省」と用語を使い分けている事に注意してください (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。
日清媾和条約 (下関条約) 第二條清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 アジア歴史資料センター・『日清講和条約・調印書』(レファレンスコード:B13090893700参照) https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/main/18950417/pdf/18950417_01.pdf |
さらに、通常のインターネット回線で閲覧可能な資料に加え、国会図書館または国会図書館送信参加館で閲覧可能な水路誌まで含めれば以下の事も判ります。
無主地先占した島や諸島である小笠原群島・大東島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島(南沙諸島)は日本海軍水路部作成の水路誌に所轄(管轄)や編入(領有)の記述がありますが、尖閣諸島の記述はありません。この事は海上保安庁・海洋情報部の職員の寄高 (ヨリタカ) さんも認めておられるので海上保安庁・海洋情報部の寄高さんに御確認願います。この事は日本海軍水路部作成の水路誌が尖閣諸島を割譲によって日本領にした事を示しています (別記事・[ 旧・海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。
尚、日本政府や日本領論者は海底油田の存在が指摘されるまで、中国 (台湾を含む) の地図では尖閣諸島は地図の国境線の日本側に描かれたように見え、1953年1月8日の人民日報記事は尖閣諸島が琉球諸島に属するとし、尖閣諸島が日本領である事を容認していたと主張しています。これについては、少し法律の素養は必要ですが、条約に関する国際慣習法を国連が法典化した条約である「条約法に関するウィーン条約」 (条約法条約) の第48条によれば、十分に調査をしたはずの条約ですら錯誤による無効の主張によって誤った表現を無効として無かった事にして訂正ができる場合があり 、国境に関する勘違い (錯誤) でも錯誤無効として無かった事にして訂正の余地があります。よって、中国 (台湾を含む) の国内向けの地図や中国語で書かれた人民日報記事に勘違い (錯誤) で国境の誤りがあっても、その勘違いの原因が日本や第三国にあれば錯誤無効によって無かった事にして訂正可能です (別記事・[ 尖閣諸島問題での国境の勘違いは国際法上訂正可能 ]参照)。
条約法に関するウィーン条約 (条約法条約) ・第48条 (原文は外務省ホームページ資料参照) 1 いずれの国も、条約についての錯誤が、条約の締結の時に存在すると自国が考えていた事実又は事態であつて条約に拘束されることについての自国の同意の不可欠の基礎を成していた事実又は事態に係る錯誤である場合には、当該錯誤を条約に拘束されることについての自国の同意を無効にする根拠として援用することができる。
2 1の規定は、国が自らの行為を通じて当該錯誤の発生に寄与した場合又は国が何らかの錯誤の発生の可能性を予見することができる状況に置かれていた場合には、適用しない。
3 条約文の字句のみに係る錯誤は、条約の有効性に影響を及ぼすものではない。このような錯誤については、第七十九条の規定を適用する。
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また、日本政府や日本領論者は大正時代に魚釣島 (釣魚嶼) 沖で遭難した中国人漁船員を救助し、中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」で救助された事の感謝状をもらった事をもって中国が尖閣諸島を日本領だと認めたとの主張をしています。中国としては清朝中国が台湾の附属島嶼として割譲したわけだから日本領だと認めるのは当然でしょう。
問題は日本政府が魚釣島 (釣魚嶼) の事を「和洋島」という架空の島名で通知した事です。この事について、石垣市立八重山博物館の学芸員だった島袋綾野氏が発見して、石垣市立八重山博物館紀要・第22号に [ 外務省記録文書に見る「感謝状」のいきさつ ] の一部分に「誤記の可能性が高い」との注釈として発表されましたが、報道されたのは八重山諸島の地方紙だけです。そもそも、誤記だとすれば魚釣島 (釣魚嶼) の俗称の「和平島」 を公文書に記載し、更に誤記した事になり二重の過失であり考えにくいだけでなく、常識的に、「和洋」という語は「中華」の語の対比で、英国人のサマラン号のベルチャー船長が測量し上陸して近代的調査をし、日本が領有し、中国とは無縁の島だという意味の架空名で報告したと推理した方が整合性が高いでしょう (別記事・[ 魚釣島の事を「和洋島」という架空名で通知した日本政府 ]参照)。ともかく、仮に誤記だとしても「和洋島」という架空の名称で通知したのは事実なので全国的に報道すべきです。石垣市立八重山博物館の島袋綾野氏に問い合わせて確認してください。また、「アジア歴史センター」展示資料・『遭難支那人(福州人)救助ニ関スル件』・(レファレンスコード:B12081793600 ) を参照して確認してください。
以上、インターネット上の公的サイト及び東京区部の公的機関・図書館で得られる公的資料を前提に一般人が理解しうる事項を述べました。
(付記・1):
21世紀の日本政府は尖閣諸島が中国名で表記されるとヒステリックな拒否反応を示し、尖閣諸島の島名を中国名で表示したグーグルマップに対し日本政府は憲法の表現の自由を無視して抗議しました。ほとんど犬がライバルの犬の匂いを嗅ぎ付けて吠えるような反応です。もちろん、水路誌における尖閣諸島の島名も2005年から日本名に変更されました (海上保安庁海洋情報部へ問い合わせ結果)。 尚、国土地理院の地形図における尖閣諸島の島名も2003年から日本名単独表記に変更されました。
なぜ、日清戦争後に海軍水路部も陸軍陸地測量部も、わざわざ中国名表記にしたのかというと、考えられる理由は二つあります。まず、清朝中国から日清戦争の戦果として「割譲」を受けたという事を内外にアピールするためだったと私は推測しています。「無主地先占」なら文官の手柄ですが、「割譲」なら日清戦争での戦果で軍の功績です。しかも、日清戦争直後の時点でも尖閣諸島では英国の実効支配の方が上だったのです。英国は1845年にサマラン号のベルチャー船長が緯度・経度・標高を測量し、世界初の近代的上陸調査をして航海記で公表し、その後も継続して測量して水路誌で公表していたのです。日本は日清戦争直後まで調査のシロウトの沖縄県職員が数時間上陸調査しただけで非公開で、沖縄県知事も標杭 (国標) を建設せず、民間人が無秩序に上陸して漁をしたり鳥や卵を採っていただけです。上述の『日本水路誌.・第2卷 附録』の刊行後に古賀辰四郎氏が政府から尖閣諸島を借り受け開発に着手しましたが、国際法上は特別な授権の無い私人の占有は国家の実効支配とはみなされず、「無主地先占」では英国に勝てないので清朝中国から「割譲」を受けたという体裁を採ったものと思われます。
さらに、沖縄県知事が秘密閣議決定で許可された標杭 (国標) を建設しなかった事も清朝中国からの「割譲」を裏付けています。
「割譲」だとすれば、下関条約発効まで清朝中国領だった事を認めた事になり、第二次世界大戦の敗戦とポツダム宣言の受諾によって中国に返還せねばなりません。
(付記・2):
海軍水路部作成の水路誌や陸軍陸地測量部作成の地図が「割譲」を前提にしているだけでなく、下関条約の内容が確定した署名時点で尖閣諸島が割譲対象の「台湾の附属島嶼」に該当するため、日本が尖閣諸島を無主地先占するには下関条約署名以前に中国や英国に優越する実効支配を確実にし国際的に公知の事実とせねばなりませんでした。
しかし、実際には下関条約署名以前には日本人漁師らが無秩序に魚や鳥や鳥の卵を乱獲しているだけで、調査に不慣れな沖縄県職員が数時間上陸調査しただけで、非公開の閣議で沖縄県の所轄とし、警察の仮の管轄を決めただけで、沖縄県知事も標杭 (国標) 建設をしておらず、近代的実効支配はサマラン号ベルチャー船長の航海記や水路誌で上陸調査結果や測量結果を国際的に公開していた英国に劣後していたのは明白で、冊封船による航路目標としての利用を国際的に公開していた清朝中国の洋上からの歴史的実効支配にも劣後しており、下関条約署名時点で国際的に尖閣諸島は日本領とは認められていない状況だったので「無主地先占」ではなく「割譲」なのです。
2030年代には中国のGDPがアメリカを抜き、2040年代には軍備で中国軍がアメリカ軍を抜く可能性が高いのです。その時になって真実を伝えても遅すぎます。2040年に尖閣諸島を返還し謝罪すれば、「なぜ、今まで盗んでいたのだ」と中国人は怒り狂うでしょう。
2018年9月29日
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ ] でコメントしてください。(注1) 下記urlの国土地理院ホームページ資料参照。
http://www.gsi.go.jp/common/000102612.pdf
>1888●測量局が陸軍参謀本部陸地測量部を経て、
>翌年に参謀本部陸地測量部となる。
(注2) 下記urlの旧版地図の閲覧窓口 参照。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/etsuran.html
(注3) 下記urlの「旧版地図の謄抄本交付申請」 参照。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html
(注4-1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html
>1888年 明治21年 6月27日 水路部 海軍の冠称を廃し水路部と改称
(注4-2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかります。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html
(注5) 本文の囲み記事で書いたように『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行)p.142-143 または『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行) ・p.49 で確認するのが確実ですが、『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) の島の緯度・経度から国土地理院の電子国土WEBの位置とで比定 (同定) する方法もあります。
ただし、『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年・1894年刊行) の島の緯度・経度には若干の誤差があるため不完全な比定 (同定) 方法ですが、それらしい島が比定 (同定) できます。
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ラレー岩」: 北緯25度55分 東経124度34分 の位置は国土地理院の電子国土WEBの下記urlでの十字マークです。
http://maps.gsi.go.jp/#11/25.916667/124.566667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「ホアピンス島北面」: 北緯25度47分7秒 東経123度30分30秒
http://maps.gsi.go.jp/#11/25.785278/123.508333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
『日本水路誌・ 第2巻』 (明治27年刊行)における「チアウス島」: 北緯25度58分30秒 東経123度40分
http://maps.gsi.go.jp/#10/25.975000/123.666667/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2
(注6-1) 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) を通常のインターネット回線では、現時点では沖縄県立図書館・貴重資料デジタル書庫の下記urlで閲覧できる。
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61715
(注6-2) 『日本水路誌・第二巻下』(明治41年刊行) を国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて閲覧する場合は、下記によって閲覧できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304288
書誌ID:000009131782
(注7) 『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行)を国会図書館または国会図書館送信参加館に出向いて閲覧する場合は、下記によって閲覧できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304272
書誌ID:000009137361