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 下関条約の「台湾」の割譲範囲は自然地理学的に決められた

 

   下に日清戦争の講和条約の下関条約の第二条と第三条と第五条を政策研究大学院大学・田中明彦研究室のデータベース「世界と日本」中の 日清媾和條約 より転記して示す。

   下関条約においては、「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」(第二条) と「臺灣省」(第五条) の語を使い分けている。これは行政区画である台湾省に属さない台湾の附属島嶼も割譲範囲に含めるという意味である。実際、尖閣諸島を含む冊封使が航路目標とした台湾北東の諸島は台湾省に属さない台湾の附属島嶼であった (別記事・[ 冊封使航路列島は行政区画に属さない清朝中国の海外属領 ]参照)。

第二條

清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス

一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地

鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ

遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼

二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼

三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

第三條

前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ

該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ

但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ

第五條 

日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ

日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

   第二条第二号は「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」とあり第二条には「台湾省」の語は無い。逆に、受け渡し事務に関する第五条第二項には「台湾省」の語が使われているが、「台湾省」として行政を行なっている地域については受け渡し事務の対象としたからであろう。ちなみに、澎湖列島は範囲が自然地理学的に緯度・経度によって規定されている。よって、下関条約で割譲された臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」は行政区画ではなく自然地理学的に規定されたと考えるべきである。

   そして、当時の海軍・海運先進国の英国の水路誌三誌のうち、"The China Sea directory (vol.3)"(注1-1) と"The China pilot"(注1-2) が台湾の附属島嶼に分類し、"The China Sea directory (vol.4)"(注1-3) が宮古島群島 (MEIACO SIMA GROUP)に分類していたが尖閣諸島と宮古島や(石垣島・与那国島等からなる)八重山諸島 とは沖縄トラフの深い海で隔てられている。下関条約当時は沖縄トラフの最深部までの測深は技術的にできなかったとしても深い海で隔てられている事は清朝中国のみならず日本も知っており日清戦争直後に台湾及び附属島嶼が日本領になった事を受けて臨時刊行された水路誌『日本水路誌. 第2卷 附録』では台湾北東の諸島に分類していた (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍 ]参照)。尚、"The China Sea directory (vol.4)"の分類は海底地形を考慮した自然地理学的には不当な分類である事が下関条約当時までには英国も理解していたはずである。海底地形的には、赤尾嶼 (大正島) 以外が水深150m以内の浅い海に属し、赤尾嶼 (大正島) も水深200m以内の狭義の大陸棚からわずかに離れるだけで水深200m超部分は3海里以内で、大雑把に述べれば尖閣諸島は水深200m以内の狭義の大陸棚辺縁の島の集合とも言える。下関条約当時は玄武岩の年代測定はできなかったが、現在の知見では台湾基隆沖の花瓶嶼・綿花嶼・彭佳嶼も尖閣諸島の黄尾嶼 (久場島)・赤尾嶼 (大正島) も300万年以内にできた小規模玄武岩質火山で火山列を形成している。これは尖閣諸島を含む台湾本当の北東に連なる列島が「台湾-宍道褶曲帯」という地質構造によって生成された事を示している。

   しかも、人文地理学的にも、「台湾省」という行政区画にさえこだわらねば冊封使が航路目標にした尖閣諸島を含む冊封使列島は歴史的に「台湾の附属島嶼」なのである。中国では元朝以前は福建省東方の島嶼で澎湖諸島より東の島嶼は「琉求」と呼ばれていたが、明朝以降は朝貢に応じた琉球三王国のあった沖縄本島を「大琉球」、朝貢に応じなかった台湾本島を「小琉球」と分類した。尖閣諸島は琉球王国の版図には含まれていないので「小琉球」の附属島嶼である (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照)。明朝時代の鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」にも釣魚嶼 (魚釣島) が小東 (小琉球) の島である事が記されている。さらに、18世紀前半に台湾で起きた大規模な反乱直後に清朝中国の中央政府幹部役人の黄叔璥が(おそらく台湾が漢族による反満州族の反乱の拠点となる事を恐れた当時の満州族出身の皇帝の康熙帝の命を受け反乱防止対策を兼ねて)台湾を調査してまとめた報告書の地誌『台海使槎録』に釣魚台 (魚釣島) が軍事的重要拠点として紹介され (別記事・[ 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島 ]参照)、以後の台湾に関する清朝中国の地誌で同様の記述が受け継がれている。よって、人文地理学的にも釣魚嶼 (魚釣島) は台湾に属する。

   条約の全権代表署名原本には、「臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼」の範囲を示す附屬地圖が存在しないが (別記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった ]参照)、それは講和交渉を日本の下関で行っていた事から日本の過失である。しかも、台湾省の受け渡しにおいて日本は台湾附属島嶼の目録を拒否しており (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)、日本政府が清朝中国中央政府が領有放棄した紅頭嶼 (蘭嶼) (注2) までも割譲対象に含めようとしていた疑いがある。いくら紅頭嶼 (蘭嶼) が自然地理学的に台湾の附属島嶼とみなしうる余地があっても中国領でない島は割譲対象になりえないのであるが、日本政府はスペインやオランダには日本独自の実効支配では対抗できない可能性が高かったので中国からの割譲を偽装しようとしていた疑いがあるのである。ただし、日清戦争直後にスペイン側から控えめな問い合わせをしてきた (日本外交文書デジタルアーカイブ・第28巻第1冊・p.292-300 参照) ので日本はスペインを積極的には騙す必要が無くなり、その後、台湾領有開始後に紅頭嶼 (蘭嶼) で行政を行なったので結果として国際法上の問題は発生しなかった。しかし、これはスペインが紅頭嶼 (蘭嶼) が下関条約によって清朝中国から日本に割譲されたと錯誤 (勘違い) した事を前提としており、厳密に言えば日本には相手が勝手に錯誤に陥った事を悪用した「オレオレ詐欺」的不正が存在した。

(補足説明):私は、当時の日本政府が、「紅頭嶼」(蘭嶼島)で金が産出すると誤解し、また、当時の日本政府は清朝中国が「紅頭嶼」(蘭嶼島)を版図に入れていなかった事を知っていたと考えている。というのは、日本側は中国の台湾に関する書籍である黄叔璥著『台海使槎録』が日清戦争以前から日本に輸入されていた可能性が高く (注3) 、日本政府は『台海使槎録』で「紅頭嶼」(蘭嶼島) には金が産出し原住民が鏃や槍の穂先に金を使っていると書かれ (注4) 、また、「不入版図」 とされていたため (注2) 、日本は「紅頭嶼」(蘭嶼島) が目録から除外される事を危惧したものと私は推測している。 ただし、「紅頭嶼」(蘭嶼島) で金が産出するというのは誤情報で、実際には「紅頭嶼」(蘭嶼島)では金属は産出せず、「紅頭嶼」(蘭嶼島)  原住民は漂流船から金属を得ていたと考えられている (注5) (注6) 。しかし、そもそも清朝中国が「紅頭嶼」(蘭嶼島)で金が産出すると知っていて領有放棄するというのは不自然であり、イエズス会宣教師から情報収集しているフランスやせっせと中国の書籍から情報収集している日本に虚偽情報を掴ませるため黄叔璥が意図的に虚偽情報を記載したものと思われる。

尚、日本は19世紀後半に「紅頭嶼」(蘭嶼島) が当時は非公開だった書類上では恒春県に編入され (注7) 、その直後に当時は非公開で台東直隷州にも編入された (注8) 事は知らなかったと考えられる。恒春県に編入されていた事を示す恒春県志』の原稿は1894年作成であるが、1895年時点では一般刊行されておらず (注9)、 台東直隷州に編入された事を示す『臺東州采訪冊』も1895年時点では一般刊行されておらず (注8)  日本に輸入されてなかったからである。尚、一旦、18世紀に清朝中央政府は「紅頭嶼」(蘭嶼島) の領有を放棄しており (別記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示 ]参照)、中央政府の許可なく地方政府が無断で書類上だけ領土編入しても無効と考えられる。実際、清朝中国中央政府の許可なく地方政府が勝手に編入したため恒春県と台東直隷州の二つの行政区画に二重編入になったのであろう。


目次

2018年9月24日 (2016年11月5日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1-1) "The China Sea directory (vol.3)"(英国水路部作成)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。

https://archive.org/stream/cu31924071164986#page/n321/mode/2up

 

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(注1-2) "The China pilot "( King, John W 著 )は、"The Internet Archive"サイトで"University of California Libraries"の蔵書の1861年版がマイクロソフトの支援により公開されている。

https://archive.org/stream/chinapilotcoasto00kingiala#page/294

 

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(注1-3) "The China Sea directory (vol.4)"(英国水路部作成)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。

https://archive.org/stream/cu31924071164994#page/n241

 

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(注2) wikisource・『臺海使槎錄』(巻一)の下記記述参照。「不入版圖」とある。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷1

沙馬磯頭之南,行四更至紅頭嶼,皆生番聚處,不入版圖;地產銅,所用什物俱銅器。

 

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(注3) 国会図書館と早稲田大学図書館には黄叔璥著『台海使槎録』を収録する『畿輔叢書』(1879年発行)という全集が蔵書として存在する。ただし、早稲田大学図書館の購入時期は昭和27年である。

(下記urlの国会図書館蔵書検索記事参照。)

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007641349-00

 

(下記urlの早稲田大学図書館インターネット公開の『畿輔叢書』(1879年発行)収録版の黄叔璥著『台海使槎録』参照。)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03977/index.html

 

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(注4) wikisource・『臺海使槎錄』(巻七)の下記記述参照。「產金,番無鐵,以金為鏢鏃、槍舌。」とある。

https://zh.wikisource.org/wiki/臺海使槎錄/卷7

>紅頭嶼番在南路山後;由沙馬磯放洋,東行二更至雞心嶼,又二更至紅頭嶼。

>小山孤立海中,山內四圍平曠,傍岸皆礁,大船不能泊,每用小艇以渡。

>山無草木,番以石為屋,卑隘不堪起立。產金,番無鐵,以金為鏢鏃、槍舌。

 

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(注5) (復刻版)『バダヴィア城日誌 2』 村上直次郎 訳注・中村孝志 校注 東洋文庫 1987年1月20日 (1987年1月20日初版第4刷) p.252 参照。

尚、上記は昭和12年・日蘭交通史料研究会発行 の復刻版である。

 

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(注6) 日本財団図書館(電子図書館) 自然と文化 75号 日本ナショナルトラスト 『ヤミ族の文化[継承と変容]』参照

https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00695/contents/0031.htm

 

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(注7) wikisorceの『恆春縣志』(卷一 疆域)参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/恆春縣志/卷01

>縣治,在府南二百四十里〈作六站〉。

>東二十五里,豬勝束社,屆海;海之中,距岸八十里為紅頭嶼。

 

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(注8) 国学导航サイトで公開されている臺東州采訪冊』(1896年発行)参照。

http://www.guoxue123.com/tw/02/081/003.htm

>疆域

>・・・・・(中略)・・・・・

>島嶼

>・・・・・(中略)・・・・・

>紅頭嶼在巴塱衛之東海中。

 

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(注9) wikipediaの『恆春縣志』参照。

https://zh.wikipedia.org/wiki/恆春縣志 

>恆春縣志是清朝恆春縣的方志,書成於光緒二十年(1894年),在當時並未刊行,主修者是恆春縣知縣陳文緯,總纂為浙江人屠繼善。

>・・・・・(中略)・・・・・

>二次大戰之後,臺灣大學教授方豪於1948年冬天在中研院史語所搬遷來臺的文物資料中發現了《恆春縣志》的書稿,

>之後於1951年由臺灣省文獻委員會將之標校出版。

 

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