下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった
日清戦争の講和条約である下関条約 (日清講和条約) 第三条には「附属地図」という文言がある (注1) ので、下関条約での割譲の対象となった台湾の地図も下関条約調印書に附属してるような印象を受ける。ところが、インターネット上のアジア歴史史料センターで公開されている日清講和条約 (下関条約) 調印書や明治天皇署名原本には三国干渉で返還した遼東半島の附属地図は公開されているが台湾の地図は公開されていない (注2-1) (注2-2) (注3) (注4)。この事について(外務省)外交史料館と外務省(本庁)に問い合わせたところ、外交史料館及び外務省(本庁)は下関条約調印書には台湾の地図は附属していないとの回答を得た (注5) (注6) 。ちなみに、台北政府がインターネット上で公開している中日講和条約 (馬関条約)の調印書や批准書にも台湾の地図は附属していない (注7-1) (注7-2)。
たしかに、下関条約 (日清講和条約) の条文の第三条 (注1) は遼東半島についてのみの言及であると読む事も可能であり、下関条約調印書に台湾の地図が附属してなくとも下関条約本文とは矛盾は無い。
しかし、逆に、もし仮に、下関条約調印書に台湾の地図が附属していたと仮定しても下関条約本文とは矛盾は無い。しかも、(外務省)外交史料館に保存されている調印書原本の紐は切断されている (別記事・[ 下関条約調印書の改竄防止用の綴じ紐は切断されていた ] 参照) 。すなわち、添付地図が調印書冊子からはずされた可能性が排除できない状態なのである。尚、下関条約 (日清講和条約) の条項は明治時代に履行済みなので、日本政府が紐を切断するのは自由である。
もし仮に、下関条約調印書に台湾の地図が附属し釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島も割譲範囲として明示されていれば中国に返還せねばならないが、その場合、釣魚嶼 (魚釣島) に人民解放軍がレーダーや高性能赤外線探知装置を設置すれば、台湾有事の際にアメリカ空軍戦闘機が台湾に救援に駆けつけるのに探知されて困る(別記事・[ 釣魚嶼 (魚釣島) の軍事的価値の変遷 ] 参照)ので、アメリカ軍が日本政府と台北政府に下関条約調印書附属の台湾地図の隠匿を要請し、日本政府と台北政府が下関条約調印書附属の台湾地図を隠匿した可能性も排除できない。その場合は、中国本土が民主化された後に、下関条約調印書附属の台湾地図が発見されたとして尖閣諸島が中国に返還される事になろう。
しかし、下関条約調印書に台湾の地図が附属し上述のように日本政府と台北政府が示し合わせて隠匿しているというような奇想天外な可能性は非常に低く無視できる。なぜなら、台湾の授受における水野遵・弁理公使と李経方・清朝中国全権委員との会話における李経方・清朝中国全権委員の福建省本土沿岸の島嶼の帰属に関して危惧した発言 (注8) からすれば、下関条約調印書に当初から台湾の地図が附属してなかったと考えられるからである。実際、日本は下関条約に「台湾および附属島嶼」の地図が添付されてなかった事と台湾附属島嶼の目録拒否により清朝中国中央政府が放棄し実効支配してなかった紅頭嶼 (蘭嶼) を台湾附属島嶼として割譲範囲に含めたからである (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)。
尚、日本で講和交渉が行なわれた事と「台湾および附属島嶼」の割譲要求をしたのが日本であった事から「台湾および附属島嶼」の地図を用意する義務があったのは日本である。
付記:
ちなみに、日本は第二次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約の原案作成においても、アメリカに日本の国民の領土喪失感情を口実に領土に関して緯度経度や地図添付を避けるよう要請し「台湾」の範囲をあいまいにした責任がある。『日本外交文書・サンフランシスコ平和条約・対米交渉』 中の第77項目・[ 英国の平和条約案に対するわが方の逐条的見解について ]・p.397参照。日本は下関条約のみならずサンフランシスコ平和条約という二つの講和条約で台湾の地図を添付せず国境をあいまいにし、後で自国に有利な主張をしているのである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf2_05.pdf
2019年3月14日 (2016年12月23日・当初版は こちら 。) (注意:2017年12月20日にタイトル変更、旧タイトルは [ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった可能性大 ]。)
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 下関条約調印書に台湾の地図が添付されてなかった 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1) 下関条約 (日清媾和条約) 調印書原本画像・アジア歴史資料センター公開 (レファレンスコード:B13090893700) 参照。
下に日清戦争の講和条約の下関条約の第二条と第三条と第五条を政策研究大学院大学・田中明彦研究室のデータベース「世界と日本」中の 「日清媾和條約(日清講和条約、下関条約)」 より転記して示す。
第二條清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 第三條前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ 該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ 但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ
第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ 日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ |
(注2-1) [ 近代国家 日本の登場 ] という特集が国立公文書館のウェッブ・サイトで公開されている。その第18項目目の「日清戦争」で、下関条約 (日清講和条約) の調印書及び附属地図のカラー画像が公開されている。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/nisshin-war/index.html
(注2-2) 日本の外務省外交史料館保存史料(請求番号:C5_1)・日清媾和条約・調印書・アジア歴史資料センター公開 (レファレンスコード:B13090893700) 参照。
(注3) 日本の外務省外交史料館保存史料(請求番号:C5_4)・日清媾和条約・批准書・アジア歴史資料センター公開 (レファレンスコード:B13090894300) 参照。
(注4) 国立公文書館保存史料(請求番号:御02085100)・日清両国媾和条約及別約・御署名原本・アジア歴史資料センター公開・(レファレンスコード:A03020213100) 参照。
(注5) 外交史料館・レファレンス担当・熱田さんの御回答による。
(注6) 外務省 中国・モンゴル第一課 藤沼氏の御回答による。
(注7-1) 下記urlの台北政府保管 (中華民國外交部保存之前清條約協定) ・中日講和條約(馬關條約)・漢文簽署本(蓋有「皇帝之寶」印) 参照。
http://libdb1.npm.gov.tw/ttscgi/capimg2.exe?7:386031824:910000115002-0-0.pdf
(注7-2) 下記urlの台北政府保管 (中華民國外交部保存之前清條約協定) ・中日講和條約(馬關條約)・日皇核簽本 参照。
http://libdb1.npm.gov.tw/ttscgi/capimg2.exe?12:1990551342:910000115001-0-0.pdf
(注8) 伊能嘉矩 著・『臺灣文化志 (下) 』・刀江書院・昭和三年九月二十日発行・p.936-937参照。尚、原本の公文書はアジア歴史資料センターでレファレンスコード「A03023062300」の資料として公開されているが読みづらい。