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(注意):この記事には 標準版 があります。


 下関条約署名時までに日本は実効的占有せず割譲で領有 (詳細版)

 

問題の所在

   下関条約では「台湾省」に属さない「台湾の附属島嶼」も割譲対象となっており、地理的には尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に含まれるため (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)、下関条約の内容が確定した署名時までに日本が尖閣諸島の実効的占有を完了してなければ必然的に割譲となる。日本は下関条約の内容が確定した署名時の1895年4月17日時点までに実効的占有を完了していたのであろうか?

 

   現在の日本政府は1895年1月14日時点で尖閣諸島が無主地だったと強弁し、先占 (注1) したと主張する。その根拠として、日清戦争中の1895年1月14日の閣議で、以前から久場島と魚釣島に標杭 (国標) 建設の許可を求めていた沖縄県知事に対して、沖縄県の所轄と認めるので標杭 (国標) の建設を認めるとした決定 (注2) を挙げる。しかし、上記の閣議は秘密閣議で外部には非公開であった。また、1895年1月21日には沖縄県知事に指令が発せられたが沖縄県知事は標杭 (国標) を建設しなかった (注3)

   先占の要件は、いずれの国家にも属さない「無主地」に対して領有の意思をもって国家の機関が「実効的占有」をする事である (注1) 。考察を簡単にするため、先に「実効的占有」の有無を考察する。

 

   日本は1885年に沖縄県職員らを汽船・出雲丸にて尖閣諸島に派遣し、1885年10月30日に釣魚嶼 (魚釣島) に簡易な上陸調査 (注4) をし、黄尾嶼 (久場島) を洋上から観察した (注4) が、調査をした事を非公開にしていた。これでは他国は偶然に調査日に尖閣諸島周辺海域で出会わない限り日本が調査した事を知りようがない。調査をした事を非公開にした事により日本の尖閣諸島に対する実効的占有は出雲丸が尖閣諸島周辺海域内にいた一日のみの実効的占有にしかなりえない。

   そして、沖縄県の所轄と認めるので標杭 (国標) の建設を認めるとした1895年1月14日の閣議決定も非公開で、標杭 (国標) の建設も無かった。これでは、いかに、当時はアフリカ以外は「実効的占有」のための他国への通告は不要であった (注5) (注6) としても、他国は日本が尖閣諸島の調査をした事も領有しようとした事も知りようが無いので、下関条約署名時以前の日本の尖閣諸島への実効的占有は調査を行なった1885年10月30日の一日のみであり、1895年1月14日の閣議決定時点では実効的占有は認められない。よって、1895年1月14日の非公開の閣議の決定では先占はできず、1895年4月17日の下関条約の内容が確定した署名直前では中国領であり、1895年5月8日に下関条約条約の批准書交換により有効になったため、尖閣諸島は清朝中国より日本に割譲されたのである。

   尚、旧・日本海軍の外局の「水路部」(現在の海上保安庁・海洋情報部の前身)作成の水路誌も旧・日本陸軍の参謀本部の外局の「陸地測量部」(現在の国土地理院の前身)作成の地図も尖閣諸島が清朝中国から割譲された事を前提にしている (別記事・[ 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す ]参照)。例として、陸地測量部 (現在の国土地理院の前身) 作成の地図・『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)が視覚的に判り易いので下に画像を示す。注意すべき部分 (緑色の枠部分) は拡大画像で示し、特に「一般図」は画像をクリックすると更に拡大画像で閲覧可能にした。

   

「陸地測量部」作成の地図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行) は、国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧可能 (リスト番号:164-14-9)。

http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/etsuran.html

また、鮮明な謄本・抄本も購入可能 (リスト番号:164-14-9)

http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html


付記:

   理論的には「先占」で新規に領土としうるのは「無主地」のみである。ところが、現実には「無主地」か否かについて古い時代の事実確認が困難な場合が多い。

   しかし、尖閣諸島の場合、1534年の明朝中国から琉球王国に国王任命に向かった外交使節である冊封使が作成した真正である事に疑いの無い公文書に望見した記録が現存していた事に争いは無い。尚、1534年より前の記録は火災や風水害で焼失した事が1534年の文献に記載されているため、本来ならば更に古い記録があったと考えられる (注7-1) (注7-2)

   そして、公務として海賊対策のため日本に渡航した民間人である鄭舜功の著書・『日本一鑑』の記述によれば、釣魚嶼に漢族漁民と思われる者が居住し明朝中国の官憲の巡視もあったと考えられる(別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す ]参照)。

   しかし、明朝末期に「発見」による台湾の権利を1624年にオランダに割譲 (注8) して以降、尖閣航路の起点となる台湾本島北部の鶏籠 (基隆) 沖の制海権が外国勢力や反政府勢力にあったため、中国中央政府は1624年から1682年まで尖閣諸島の実効支配を失っていたと推定される (別記事・[ 鶏籠沖の制海権を失った時は冊封使船は尖閣航路を避けていた ]参照)。

   その後、清朝時代の1683年には清朝中国中央政府は尖閣諸島の実効支配を回復した (注9) が、清朝時代には尖閣諸島に人が居住したり官憲が巡回した記録はなく逆に無人島になった事を示唆する文献がある (注10)。ただし、釣魚台 (魚釣島)大型軍船が停泊可能との地誌があるので反政府勢力が台湾に拠点を置いていた時期に日本からの武器輸入を阻止するために一時的に釣魚台 (魚釣島) を泊地とした可能性はある (別記事・[ 清朝水軍が鄭氏台湾対策で釣魚嶼を泊地にした可能性と『台海使槎録』 ]参照)。それでも、清朝時代の明確な実効支配の記録は冊封船が尖閣諸島を航路目標にした記録のみである (別記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める ]参照)。尚、冊封船による最後の望見記録は1866年である。

   更に、その後、日本が武力を背景に琉球王国を強制併合し、清朝中国への朝貢を禁じたため進貢船 (朝貢船) が進貢 (朝貢) の帰路に尖閣諸島を航路目標にする事が無くなった。琉球王国の進貢船 (朝貢船) が最後に尖閣諸島を望見したのがいつなのか不明だが、最後の進貢 (朝貢) 副使が帰国し帰路に尖閣諸島を望見したとすれば1875年である。

   よって、下関条約署名時まで沖合いの冊封船からの望見による直接的実効支配は30年近く停止し、琉球王国の進貢船 (朝貢船) からの望見による間接的実効支配も20年程度停止していた事になる。ただし、清朝中国による実効支配は以下の理由により下関条約署名まで潜在的に継続したと考えるべきである。

   クリッパートン島事件で勝訴したフランスは沖合いの船上からの領有宣言の39年後にも実効占有が認められており、さらに、清朝中国は日本による琉球王国の強制併合に抗議しており、冊封船や進貢船が航路目標とした事による沖合いからの実効支配が途絶えた間接的原因が日本による武力を背景にした琉球王国併合で、中国が平和的に琉球王国の宗主国になった事を考慮すれば間接的であるが日本は不正に清朝中国の洋上からの実効支配を奪った事になるからである。

   よって理論上は清朝中国は下関条約署名時まで弱いながらも尖閣諸島に対して実効的占有があったと考えられ、尖閣諸島は理論上は「無主地」ではなく「先占」の対象になりえない。

   しかし、実務上は、国際法廷の「無主地」認定基準が絶対的基準によるのでなく、紛争相手国と比較して相対的により強固な実効支配を相当期間すれば「先占」を認定する相対的基準による認定方式だそうである。もし仮に、日本が国際的に公開で領有宣言して標杭を建設し清朝中国も英国も1年以上抗議しないか、または、国際的に非公開でも日本が琉球王国強制併合後、下関条約署名の10年前の1885年以前に尖閣諸島に千トン級の船が安全に停泊できる港湾設備または要塞を建設していれば、清朝中国を圧倒する強固な実効支配をした事になり、国際法廷から「先占」認定を日本が受けれた可能性があるが、非公開で標杭すら建設しなかった事により日本の「無主地」主張も「先占」主張も認められない事になる。

   尚、もし仮に日本が標杭を建設していても、国際的に非公開ならば、先占が完了したとみなされるのに50年以上かかる可能性が高い。(ちなみに、この「50年」という期間は領土の取得時効を認める国が想定する標準的時効期間である。) 沖縄県知事が標杭を建設しなかったのは、日清戦争の戦局が日本に有利に展開し台湾と附属島嶼が割譲される事になった事だけでなく、国際的に公開で先占による領有宣言をすれば、近代的測量や上陸調査で先行していた英国 (注11) の領有宣言を引き起こしかねず、「先占」名目の領有争いでは英国に負けるので非公開にしたのであろう。非公開の場合は標杭を建設しても先占完了には50年以上の長期間を要するため、標杭を建設せず割譲で領有する事にしたと考えられる。


目次

標準版は こちら

2018年12月8日 (2018年10月21日・当初版は こちら。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 下関条約署名時までに日本は実効的占有せず割譲で領有   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


 (注1) 理論的には「先占」による領土獲得は「無主地」のみが対象となるはずで本来は「無主地先占」なのであるが、国際法廷では「無主地」要件より相当期間平穏に相手に勝る「実効的占有」の継続があった事を重視し古い時代の領有より優先する傾向があるとも指摘する専門家もいるようだ。その理由として、一つには古い時代の証拠が往々にして信頼性が極めて低い場合が多い事と、国際法廷は取得時効を認めない代わりに権利存続要件としての実効的占有の継続と「相当期間平穏に相手に勝る実効的占有の継続」があった事を重視し総合的に同様の判定をしているものと思われる。よって、「無主地」か否かの判断より「実効的占有」の有無の判断を優先させた。ただし、尖閣諸島を含む冊封使の航路の列島に関する冊封使録は公刊され、中国のみならず琉球や日本、そしてアメリカの図書館まで保有し、真正性は確認されており、中国が遅くとも1534年に国家として発見した事は確実である (別記事・[ 現存最古の記録で琉球王国派遣船員の操船でも中国による発見 ]参照)。

 

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(注2) 国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 (レファレンスコード:A01200793600)・(所蔵館における請求番号:類00715100・国立公文書館 ) 参照。

[ 沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス ] (注意:資料の標題に『標杭ヲ建設ス』とあるが実際には建設されていない。標題に騙されないよう要注意!!本来のタイトルは『標杭建設ニ関スル件』である。)

 

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(注3) 井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊) 参照。

http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

> のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。

>日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。

>標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。

>すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、

>この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、

>長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から

>「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、

>下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。

>これも法的には日本国家の行為ではない。

>(註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 

ここまで指摘されて、日本政府も日本領論者も40年以上反論できないでいる。

 

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(注4) 国立公文書館・アジア歴史資料センター資料 (レファレンスコード:B03041152300)・第18画像ないし第22画像の沖縄県職員・石澤兵吾作成資料・『魚釣島外二島巡視取調概略』参照。

カラー画像と読み取りは、田中邦貴氏ホームページ・[ 尖閣諸島問題 ]の[ 石澤兵吾 『魚釣島外二島巡視取調概略』 ]参照。

 

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(注5) 1885年ベルリン会議一般議定書・第34条参照。

 

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(注6) クリッパートン島事件判決参照。

 

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(注7-1) 陳侃『使琉球録』の嘉靖刻本影印本の画像は筑波大学サーバーで公開されており、筑波大学が画像公開している事から「嘉靖刻本影印本」も著作権終了しているはずで領土紛争前の1968年以前に発行された出版物である事は確実であり、また、「國立北平圖書館善本叢書第一集」所収である事が出典情報として表示され、現在の北京の事を「北平」としている事から中華民国政府が中国の正統政府だった時代の復刻版と推定される。

当該記述部分は下記urlにある。尚、日本語訳は次の注釈 (注7-2) 参照。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/ch/ch/15/00000001.gif

>命時禮部査封琉球國舊案因曾遭回祿之變燒毀無存其

>頒賜儀物等項請査於

>內府各監局而後明福建布政司亦有年久卷案

>爲風雨毀傷其造船並過海事宜皆訪於耆民

>之家得之至於往來之海道交祭之禮儀皆無

>從詢問特令人至前使臣家詢其所以亦各凋

>喪而不之知後海道往來皆頼夷人爲之用其

>禮儀曲折臣等臨事斟酌期於不辱而已因恐

>後之奉使者亦如今日著爲此録使之有所徴

>而無懼此紀略所以作也又嘗念

 

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(注7-2) 『陳侃 使琉球録』・原田禹雄 訳注・榕樹書林 (1995年6月4日発行) p.123・124 参照。

 

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(注8) 伊能嘉矩 著・『台湾文化志』(上巻)・昭和3年発行・p.54-55参照。

(下記urlの国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190919

 

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(注9) 清朝中国の冊封使・汪楫の冊封船は尖閣航路を採った。その出航の前日に清朝中国中央政府軍は台湾を支配していた鄭氏の水軍を澎湖海戦で破った。尚、それ以前に清朝の勢力が台湾北部の鶏籠沖で圧倒していたのか鄭氏は台湾北部の鶏籠城を奪われないように壊したり再建したりしていた。

 

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(注10) 1808年に琉球に向かったは冊封使・斉鯤の歌集 『東瀛百詠』中の『航海八咏』の「釣魚臺」には「釣鼇人已往」 (亀を釣る人はもういない) とあり1808年以前に無人島になっていた事がわかる。下掲のGoogle-book版『東瀛百詠』参照。

↑の画像をクリックすると拡大画像が見れます。

 

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(注11) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ] の [ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ] 参照。

Sir Edward Belcher・サマラン号艦長の航海記全体は下記urlの「The Internet Archive」ホームページにおいて University of California Libraries の蔵書がMicrosoft社の支援により公開されている。

https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala

https://archive.org/stream/narrativeofvoyag01belciala#page/n409

https://archive.org/details/narrativeofvoyag02belciala

https://archive.org/stream/narrativeofvoyag02belciala#page/572/mode/2up

   ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。

 

尚、英国は尖閣諸島の情報を水路誌でも公開していた。また、Sir Edward Belcher・サマラン号艦長の尖閣諸島の調査以降も継続的に測量をしていたと思われる。

 

"The China Sea directory (vol.3)"(英国水路部作成)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"HOA-PIN SU"が釣魚嶼 (魚釣島)、"TI-A-USU"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。

https://archive.org/stream/cu31924071164986#page/n321/mode/2up

 

"The China Sea directory (vol.4)"(英国水路部作成)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"Hoa-pin-su"が釣魚嶼 (魚釣島)、"Ti-a-usu"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。

https://archive.org/stream/cu31924071164994#page/n241

 

"The China pilot "( King, John W 著 )は、"The Internet Archive"サイトで"University of California Libraries"の蔵書の1861年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"HOA-PIN-SU"が釣魚嶼 (魚釣島)、"TI-A-USU"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。

https://archive.org/stream/chinapilotcoasto00kingiala#page/294

 

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