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 鶏籠沖の制海権を失った時は冊封使船は尖閣航路を避けていた (詳細版)

 

  明朝・清朝の中国中央政府は1626年から1680年まで台湾北部の鶏籠 ( 現・基隆 ) 沖の制海権を失っていました。そして、その時期には外国船や反政府勢力の海賊船に襲われないように冊封使船は尖閣航路の航行を避けていたと考えられます。鶏籠 ( 基隆 ) 沖が尖閣航路の起点だったからです。

冊封船の予定航路 (冊封使録の過海図を参考に作成):

「福建省福州」→「小琉球(台湾本島)」北端→「鶏籠嶼(基隆嶼)」→「花瓶嶼」→「彭佳嶼」→「釣魚嶼 (魚釣島) 」→「黄尾嶼 (久場島) 」→「赤尾嶼 (大正島)」→「久米島」→「那覇港 (沖縄本島)」

 

 

 

   台湾本島北部の鶏籠 ( 現・基隆 ) にある大鶏籠嶼(現在の「和平島」、清朝末期の呼称は「社寮島」 )に、1626年スペインが要塞 (注1)  (注2)  を築き、1642年にはオランダが大鶏籠を奪いを再建し、更に、1661年には大鶏籠を反政府勢力の鄭氏が奪いました。尚、1680年には台湾に篭る鄭氏側は清朝側に大鶏籠の城を奪われる事を危惧して壊し、翌年に再建したそうです (注1) (注3)

この1626年から1680年までの間の明朝末期と清朝初期の二回の冊封船は鶏籠嶼沖を航行していません (注4) (注5) 。多量の高額の下賜品を積載していたので襲われるのを怖れたからだと思われます。

   尚、冊封使・汪輯の出航前日に清朝は澎湖海戦で鄭氏に勝利した (注6) (注7) (注8) ので、冊封使・汪輯の冊封船が鶏籠沖を通過する頃の制海権は清朝側にあったと考えられます。(おそらく、大鶏籠嶼の要塞を鄭氏側が壊した1680年時点で鶏籠港沖の制海権は清朝側が握っていたと思われます。)


(注1) 透地雷達技術應用於基隆和平島古堡舊城牆遺址之探測期末報告書  (國立成功大學公共工程研究中心)

 

(注2) 中国語版 wikipedia 「聖薩爾瓦多城」 参照。大鶏籠嶼にスペインが築いた要塞は「サン・サルバドル城 ( 聖薩爾瓦多城 )」 と呼ばれた。

 

(注3) 中国語版 wikipedia 「北荷蘭城」 参照。大鶏籠嶼のサン・サルバドル城 ( 聖薩爾瓦多城 )跡にオランダが再建した要塞は「北荷蘭城(Fort Noord-Holland)」(北オランダ城)と呼ばれた。

 

(注4) 胡靖著『琉球記』・(日本語訳・『明代琉球資料集成』・原田禹雄訳・榕樹書林)

 

(注5) 冊封使・張学礼著『使琉球紀』・(日本語訳・『使琉球紀・中山紀略』・原田禹雄訳・榕樹書林・1998年7月30日発行)

 

(注6) 中国語版 wikipedia 「澎湖海戰」 によれば、澎湖海戰は1683年7月16日に清朝側が勝利した事になってます。

 

(注7) 『増訂 使琉球録解題及び研究』・夫馬進編中の汪楫潠『使琉球雑録』『中山沿革志』解題(松浦章 著)参照。出航日は康熙22年6月23日。

 

(注8) [ 中西曆對照查詢系統 ] によれば、康熙22年6月23日は西暦1683年7月17日。


目次

2018年9月10日 (2016年10月6日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp