清朝水軍が鄭氏台湾対策で釣魚嶼を泊地にした可能性と『台海使槎録』
清朝は成立初期において、鄭成功の率いる反清勢力が福建省・アモイや台湾を支配下に置いたので、鄭氏台湾と琉球王国や日本が結びつくのを怖れたと考えられる。その理由は下記のとおりである。
(理由・1) 鄭成功の母親が日本人であるため、日本が支援する可能性があった事。
(理由・2) 琉球王国に派遣された閩人 (福建省出身者) が、異民族王朝の清王朝より、閩人 (福建省出身者)の息子で配下にも閩人 (福建省出身者) の多い鄭成功に親近感をいだいている事。
(理由・3) 鄭成功の配下に相当数の日本人 (海賊や貿易商や台湾入植者や関が原浪人の子孫等) がいた事。
尚、上記の三つの理由以外に、可能性としては、更に次の理由も考えられる。
(理由・4) 琉球が日本の薩摩藩に裏で支配を受けている可能性に、清朝が薄々気付いていた可能性がある事。
(理由・5) 琉球では「ひらがな」が使われている事から、清朝が琉球人が民族的に日本人に近い事に気付いていた可能性がある事。
実際、江戸幕府は直接的な軍事支援はしなかったものの鄭氏台湾との交易を認め (注1) 、日本から武器が鄭氏台湾に輸出され、台湾北部の港である鶏籠 (基隆) に日本人商人が居住し (注2) 、 鶏籠 (基隆) が対日貿易の拠点となっており、また、鶏籠 (基隆) は明朝時代に釣魚嶼 (魚釣島) 経由での琉球王国への主たる航路だったので、放置すれば鄭氏台湾が琉球王国を支配下に置いたり連携したりする危険もあった。すなわち、清朝は鄭氏台湾と日本や琉球王国の間の交通を遮断する必要性があったのだ。
しかし、台湾から日本への航路の基点となった鶏籠港 (基隆港) の港口にある大鶏籠嶼 (現・和平島) には鄭氏側の要塞があり、清朝は鶏籠 (基隆) を制圧・占領できなかった。また、鶏籠港 (基隆港) 沖合いの鶏籠嶼 (基隆嶼) も急峻なため前線基地にはできなかった。そのため、飲料水・薪の確保や展望から釣魚嶼 (魚釣島) に見張り所を造り泊地にした可能性が高いと思われる。地理的にも、鶏籠 (基隆) から日本に向かう直行航路は釣魚嶼 (魚釣島) 近海を通っており、また、明王朝時代に中国から琉球王国への主たる航路は鶏籠 (基隆) 沖の鶏籠嶼 (基隆嶼)付近から 釣魚嶼 (魚釣島) 経由だったので、海上交通の要衝だった釣魚嶼 (魚釣島) に見張り所を造る事は理にかなう事である。
清朝が釣魚嶼 (魚釣島) に見張り所を造ったという直接の記録は現存しないが、間接的記録は現存する。
それは、『台海使槎録』の巻二の「赤嵌筆談」の「武備」の項目に、「山後大洋,北有山名釣魚臺,可泊大船十餘 (台湾本島の東の大洋の北には釣魚臺という島があり大型船が十数隻停泊可能である) 」という記述である。『台海使槎録』は、台湾の鄭氏が清朝に降伏し、清朝が台湾本島西部を領有して40年近く経った頃に起きた漢族による大規模な反乱の直後の台湾についての調査報告書である。この記述は、清朝が鄭氏台湾と日本・琉球王国との航路を封鎖するために釣魚嶼 (魚釣島) に見張り所を造り泊地にした事を裏付けるものと私は考える。
尚、中国政府や中国の尖閣諸島問題研究者の多くは、『台海使槎録』の「山後大洋,北有山名釣魚臺,可泊大船十餘」 という記述から清朝時代に日清戦争の黄海海戦の敗北で制海権を失うまで継続的に釣魚島に清朝の軍船が停泊してたように理解しているようであるが、釣魚嶼 (魚釣島) 周辺は潮流が非常に強く、また、暗礁があり、しかも、台風の直撃を受け易い海域にあるため、泊地としての利用で多大な損耗があったはずであり、当時の皇帝だった康熙帝は合理的で無駄な出費を嫌ったはずなので、台湾を反清活動の拠点にしていた鄭氏の降伏後は泊地としての利用は止めたはずである。実際、第二次世界大戦中に日本海軍が「泊地」として利用した南洋のサンゴ環礁と釣魚嶼 (魚釣島) を比べると「泊地」としての適性は雲泥の差がある。清朝の存亡を賭けた戦争中で損耗を度外視した臨時的な「泊地」と理解すべきである。よって、『台海使槎録』の「可泊大船十餘」の「可泊」は鄭氏台湾対策として過去において一時的に清朝水軍の泊地として利用された事を示しているだけと解釈するのが妥当と思われる。また、いくら鄭氏台湾封鎖作戦時でも損耗が激しい場所なので何年間も10隻以上常駐していたと考えるのは無理があり、訓練や作戦での最大集結時の停泊船数と解すべきと思われる。
下掲の黄叔璥 著 『台海使槎録』(早稲田大学図書館公開)・第二巻・「武備」参照。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03977/ru04_03977_0001/ru04_03977_0001_p0040.jpg
2018年8月28日 (2016年10月11日・当初版は こちら 。)
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 清が鄭氏台湾対策で釣魚嶼を泊地にした可能性と『台海使槎録』 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1) wikipedia「日本乞師」参照。
(注2) 中国語版wikipedia「鄭經」参照。
https://zh.wikipedia.org/wiki/鄭經
>德川幕府是明鄭重要的貿易夥伴,台灣大量輸入日本銀、銅、鉛、盔甲,以支援戰爭的需要,
>雙方的貿易量在1665年到1672年達到高峰,
>而為了加強鄭、日的貿易關係,鄭經允許日本商人住在基隆