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 尚育王・尚泰王時代の黄尾嶼と赤尾嶼の実効支配について

 

 

   パルマス島事件仲裁判決はオランダに冊封された原住民の大酋長によるパルマス島の実効支配をオランダによる実効支配と認めており (別記事・[ パルマス島事件判決はオランダに冊封された大酋長による間接的支配を有効とする ]参照) 、琉球王国による洋上からの尖閣諸島を実効支配の効果は中国に帰属するのである (別記事・[ クリッパートン島事件は洋上からの無人島の実効的先占を認める ]参照) 。ただし、最後の冊封使・趙新の遺族が自費出版した冊封使録・『続琉球国志略』には黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) が「久場島」・「久米赤島」と記載されており、琉球王国の最後から二代の国王である尚育王・尚泰王が派遣した航路案内の航海士・通訳は黄尾嶼を琉球名である「久場島」と紹介し、赤尾嶼を無理やり命名したと思われる琉球名「久米赤島」と紹介したと考えられるので、業務上横領の下心があった可能性が高い (注1) (注2) 。それゆえ、もし仮に、琉球王国から派遣された水先案内人らが冊封使に黄尾嶼を久場島、赤尾嶼を久米赤島と琉球名で紹介する事によって黄尾嶼と赤尾嶼の業務上横領を画策したのであれば、中国による黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の実効支配は1834年に没した尚灝王の時代までと考えるべきである。尚、琉球王国に業務上横領の故意がなく、単に琉球名で紹介しただけ (注3) ならば、清朝中国の間接的な実効支配は継続する。

   もし仮に、尚育王・尚泰王の時代での琉球王国による黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の琉球名による冊封使への紹介が業務上横領の故意によるものであれば、当時の琉球王国は黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) に対して信義則違背の不正占有の実効支配をした事になり、清朝中国は尚育王・尚泰王の時代に黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の実効支配を失った事になる。その場合は琉球王国が中国に対して重大な背信行為を行なった事になる。そのため、もし仮に、現代日本が尚育王・尚泰王の時代での琉球王国による黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の琉球名での実効支配を主張するならば中国は第二次世界大戦後の沖縄の日本復帰を否認できると考えるべきである。言い換えると、もし仮に尚育王・尚泰王の時代の琉球王国が業務上横領の故意があって黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の琉球名で紹介しても、その信義則違背の不正占有は無効で中国の実効支配であったとみなさねばならない。第二次世界大戦後の沖縄の日本復帰が沖縄県民の民意によるものであるため第二次世界大戦後の自決原則によって是認されるとしても、尚育王・尚泰王の時代の黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島) の不正占有の清算抜きには認められないからである。ただし、この事は黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島)の中国への返還を直接に意味するものではない。尚、沖縄の民意はアメリカ軍基地反対であり、中国も歴史的権利から旧・琉球王国諸地域を武力緩衝地域化を要求できると私は考える。

   これは衡平の見地 (別記事・[ 日本の合意がなくとも「衡平と善」によって判決可能 ]参照) からも妥当と思われる。すなわち、中国は第二次世界大戦終結時に日本のポツダム宣言受諾によってカイロ宣言条項によって琉球王国の宗主権を回復するはずであったが、沖縄を占領したアメリカの采配によって沖縄は日本に返還される事になったわけで、たとえ沖縄の民衆の総意による日本復帰が第二次世界大戦後の国際法による「自決権」として認められるとしても、もし仮に尚育王・尚泰王の時代の琉球王国が業務上横領の意図があり黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島)の不法な実効支配によって生じた実績があったとしても、その間の琉球王国の実効支配の実績は中国に返還するのが相当だからである。ただし、この事は黄尾嶼 (久場島) と赤尾嶼 (大正島)の中国への返還を直接に意味するものではない。

   日本も尚育王・尚泰王の時代の琉球王国が業務上横領の故意をもって、黄尾嶼を久場島、赤尾嶼を久米赤島と琉球名で紹介し、業務上横領の故意によって独自の実効支配をしていたとの主張は控えるべきである。

   また、日本陸軍・陸地測量部作成の5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)も日本海軍水路部作成の水路誌でも黄尾嶼・赤尾嶼の中国名を使用し久場島・久米赤島という琉球名は使用しておらず、日本は尚育王・尚泰王の時代の黄尾嶼・赤尾嶼に対する琉球王国による琉球名使用による琉球王国の実効支配を主張する権利を放棄したと考えられる。


目次

2018年5月1日・(2017年2月17日・当初版は こちら 。)

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 鞠徳源 著 『日本国窃土源流-釣魚列島主権辨』 参照。

 

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(注2) 1885年に旧・琉球王府の山林担当役人・大城永保が、(日本内地から沖縄県に派遣され大東諸島の無主地先占・日本領編入を担当した)沖縄県職員・石澤兵吾に尖閣諸島の日本領有を唆した。その大城永保は琉球王国時代に進貢船 (朝貢船) の帰路に釣魚嶼付近で伝馬船 (ボート) に乗り換えて釣魚嶼を間近で観察していた。王府の調査命令があったはずである。なぜなら、風待ちの間だったというが、いつ順風が吹くかわからないのに王府からの調査命令抜きに釣魚嶼見物のために伝馬船 (ボート) を降ろしたとは考えにいくいからである。さらに、清朝になってから尚育王・尚泰王より前には冊封使が乗船し琉球の水先案内人が乗り組む一号船は黄尾嶼が望見できない航路を取った疑いがあり、黄尾嶼を久場島と琉球名で紹介するようになってから急に二回連続で黄尾嶼(久場島)付近を航行したのも怪しい。それらの事と、黄尾嶼と赤尾嶼 (大正島) を琉球名の久場島と久米赤島と紹介した事と合わせて考えると、琉球王府は (少なくとも親・薩摩派は) 尖閣諸島の業務上横領を画策していた疑いがある。

   尚、沖縄県職員・石澤兵吾による大城永保の取調べ調書は、田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。

 

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(注3) 最後の冊封使・趙新の遺族が自費出版した冊封使録・『続琉球国志略』に関して、原田禹雄 著・『尖閣諸島』(2006年1月17日発行)p.109では黄尾嶼と赤尾嶼が琉球名で書かれているだけでなく役所名でも漢名の「董舟所」を琉球名の「船手」と書いてあるとの指摘がある。そのため、琉球王国から派遣された水先案内人らが冊封使に黄尾嶼を久場島、赤尾嶼を久米赤島と琉球名で紹介したからといっても業務上横領の故意があったとは断定できない。

 

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