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 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す

 

    日本海軍・水路部(現在の海上保安庁・海洋情報部の前身)作成の水路誌も日本陸軍・陸地測量部(現在の国土地理院の前身)作成の地形図も尖閣諸島が清朝中国から割譲された事を示している。「割譲」は下関条約署名時点で中国領であった事が前提で、「無主地先占」とは相容れない。

   たとえば、日本陸軍・陸地測量部 (現在の国土地理院の前身) 作成の5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)に付録として収録されている「一般図」(下掲)には鹿児島県と沖縄県の間には境界線が描かれているが沖縄県と台湾の間には境界線が描かれていない。

   沖縄県と台湾との間に境界線が描かれていないのは、描き忘れではない。なぜなら、大正島は中国名の「赤尾嶼」が優先表示され、久場島は中国名の「黄尾嶼」のみ表示され日本名が表示されていないからである。これらの事は日本陸軍が尖閣諸島が台湾の附属島嶼として日清戦争で割譲されたとの認識を示したものと考えられる  (別記事・[ 5万分の1地形図『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行)は尖閣諸島が台湾の附属島嶼である事を示す ]参照)。

   

   尚、尖閣諸島の島に関して中国名表示されているのは日本陸軍・陸地測量部作成の地図だけでなく、日本海軍・水路部(現在の海上保安庁・海洋情報部の前身)作成の水路誌も尖閣諸島の島に関して中国名表示されている。しかも、日本海軍・水路部作成の水路誌の場合は、 『日本水路誌・第二巻』(明治27年7月刊行)は英語名のカタカナ表記だったのが、日清戦争後の明治29年7月刊行の『日本水路誌・第二巻・附録』や明治35年12月刊行の『日本水路誌・第二巻・附録・第一改版』では中国名表記になっていたのである (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 ]参照)。

   さらに、決定的なのは、第二次世界大戦終結までに日本が無主地先占した小笠原群島・大東諸島・竹島・南鳥島・沖ノ鳥島・新南群島 (南沙諸島) については編入・所轄の記述があるにも係らず、尖閣諸島については編入・所轄の記述が存在しないのである (別記事・[ 海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。

   また、日清戦争後最初に尖閣諸島に言及した水路誌の 『日本水路誌・第二巻』(明治27年7月刊行)では「台湾北東の諸島」の一部になっている (別記事・[ 日清戦争後の水路誌で「台湾北東ノ諸島」の一部とした日本海軍 ]参照)が、これは尖閣諸島が自然地理学的に台湾の付属島嶼であるとの日本海軍の認識を示し、日清戦争の講和条約の下関条約で割譲された「台湾及び附属島嶼」は行政区画の台湾省でなく自然地理学的なものであるため (別記事・[ 下関条約の「台湾」の割譲範囲は自然地理学的に決められた ]参照)、尖閣諸島が日本領になった原因 (権原)が割譲によるものとの日本海軍の認識を示したものと考えられる。

   なぜ、日本陸軍・陸地測量部が作成した地図も海軍・水路部が作成した水路誌も割譲を示しているかというと、考えられる理由は二つ有る。一つの理由は「無主地先占」だと文官役人 (沖縄県庁職員を含む) の功績になるが、「割譲」なら日清戦争の戦果であり、日清戦争を勝利に導いた陸軍や海軍の功績となる事である。他の理由は、尖閣諸島に対する近代的測量・調査で先行した英国に国家としての実効支配で勝てない (別記事・[ 古賀氏の個人的占有は国家の実効的占有ではない ]) ので、英国に対しては清朝中国から割譲を受けたと主張せねば勝てなかったからであろう (別記事・[ 英国には割譲で得たと主張する予定だった ]参照)。


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2018年5月6日

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