下関条約の「台湾の附属島嶼」の定義
問題の所在: 日清戦争の講和条約である下関条約 (日清媾和条約) 第二条は「台湾全島及び其の附属諸島嶼」を割譲対象とする (注1-1) (注1-2)。下関条約は割譲対象の「台湾全島及び其の附属諸島嶼」と「台湾省」を区別して使用していた (別記事・[ 下関条約は割譲対象の「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を「台湾省」と区別 ]参照)。問題は下関条約では割譲対象だった奉天省南部 (遼東半島) については地図が添付され、澎湖諸島については緯度・経度による範囲が明示されていたのに、「台湾全島及び其の附属諸島嶼」については地図が添付されず緯度・経度による範囲も条約文に示されなかった。しかも、条約締結交渉で台湾の附属諸島嶼の定義は協議されなかった (注2) (注3)。 そこで、下関条約 (日清媾和条約) 第二条の「台湾全島及び其の附属諸島嶼」の意味が問題となる。 |
(注意): 講和交渉が日本で行なわれた事や占領していない台湾の割譲を強行に迫った事から「台湾全島及び其の附属諸島嶼」を示す地図が下関条約調印書に添付されていない事は日本側の責任である。しかも後のサンフランシスコ講和条約でも日本は地図添付に反対しており、地図が添付されなかった事により不明確になった事は日本が全面的に責任を負うべきである。また、清朝中国の全権代表の李鴻章が日本で銃撃された事や講和会議の主導権を日本が握っていた事から「台湾全島及び其の附属諸島嶼」の定義が不明確な責任は日本にある。 しかし、上記の日本側の責任を抜きに、下関条約 (日清媾和条約) 第二条の「台湾全島及び其の附属諸島嶼」の意味を以下において考察する。 |
(1) 英国の水路誌によって解釈する方法:
日清戦争の講和条約 (下関条約) 締結交渉では英語も使われた。そこで英国の水路誌の分類によって解釈する方法が考えられる。
英国の水路誌三誌のうち、"The China Sea directory (vol.3)"(注4-1) と"The China pilot"(注4-2) が台湾の附属島嶼に分類していた。尚、"The China Sea directory (vol.4)"(注4-3) が現在の先島諸島と尖閣諸島と台北政府が実効支配する花瓶嶼・棉花嶼・彭佳嶼を一緒にまとめて "MEIACO SIMA GROUP" (宮古島グループ) に分類していたが、尖閣諸島と宮古島や(石垣島・与那国島等からなる)八重山諸島 とは沖縄トラフの深い海で隔てられており、自然地理学的に無理がある。そして、英国水路部も赤尾嶼の東側で急に深くなっている事を知っていた ("The China Sea directory (vol.3)"p.304 参照)。よって、"MEIACO SIMA GROUP" に分類していた"The China Sea directory (vol.4)"は解釈から排除されるべきである。
ちなみに、日清戦争まで日本海軍の水路部作成の水路誌は英国の水路誌"The China Sea directory"を模倣しており、尖閣諸島の島の名称は英語名のカタカナ表記または漢字の当て字表記だった。そして、"The China Sea directory (vol.3)"を模倣した水路誌は台湾の北東の諸島の一部とし、"The China Sea directory (vol.4)"を模倣した水路誌は『日本水路誌』に収録していた。また、赤尾嶼の東側で急に深くなっている事も模倣していた。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属する。
(2) 黄叔璥 著・『台海使槎録』及び、その「釣魚台」に関する一文を倣った台湾関連の清朝中国の地誌によって解釈する方法:
黄叔璥 著・『台海使槎録』 (注5) は台湾で漢族による大規模な反乱が起きた後に康熙帝が台湾に派遣した黄叔璥の調査報告書であり反乱対策書と地誌の側面も併せ持つ書籍である。日本では日清戦争以前の1879年に出版された「畿輔叢書」版が国会図書館に所蔵されている。尚、徳川幕府から受け継いだ「四庫全書」版が公文書館に存在する可能性もある。その『台海使槎録』 ・第二巻「武備」の項目中の釣魚台に関する一文「山後大洋北有山名釣魚臺可泊大船十餘」は台湾関連の清朝中国の地誌によって模倣されている (実質的には「引用」に相当するが、清朝中国時代の中国には「引用」という概念が無かったのか出典を明示せず表現に改変を加えている)。黄叔璥 著・『台海使槎録』の「釣魚台」に関する一文に倣った陳淑均 著・『台湾府噶瑪蘭庁志』 (注6) は内閣文庫から公文書館に移管されている。
日本領論者は不都合なので『台海使槎録』に記載されている「釣魚台」は尖閣諸島の魚釣島ではないと主張するが、私は別記事・[ 『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島 ]で『台海使槎録』に記載されている「釣魚台」は尖閣諸島の魚釣島である事を完全に証明した。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属する。
(3) 台湾省の「受渡」における(誤り部分を除く)水野公使発言によって解釈する方法:
条約の批准書交換による発効後の1895年(明治28年)6月2日に下関条約・第五条に基づく台湾省の「受渡」が行なわれた。その台湾省の「受渡」時点で、福建沿岸の島を日本が下関条約で割譲を受けた「台湾の附属島嶼」だと主張して盗りに来る将来の危険を危惧した李経方・清朝中国全権代表は日本の水野公使に「台湾の附属島嶼」の島名目録の作成を提案したが拒否された (注7)。
台湾省の「受渡」での水野公使発言の「海図及地図等にも、台湾附近の島嶼を指して台湾所属島嶼と公認しあれば、他日 日本政府が福建近傍の島嶼までも台湾所属島嶼なりと主張する如きこと決して之なし。」の部分は当時の日本が作成した公的な台湾の海図・地図には福建省沿岸の島が載っており (注8) (注9)、誤りなので解釈の参考に当たっては除外せねばならない。尚、日本領論者の芹田健太郎氏は水野公使発言の趣旨をスリ替えて日本領論の根拠にしており注意を要する (別記事・[ 芹田健太郎氏による水野公使発言の趣旨のスリ替え ]参照)。
台湾省の「受渡」での水野公使発言のうち、「閣下の意見の如く各島嶼の名称を列記するときは、若し脱漏したるものあるか、或は無名島の如きは、何れの政府の所領にも属せざるに至らん。是不都合の一点なり。」の部分が本音である。つまり、清朝中国政府が発見も実効支配もしていない島や領有放棄した島も割譲対象にしようとしたのである。実際、清朝中国中央政府が18世紀前半に版図に入れない事を表明し実効支配してなかった紅頭嶼 (蘭嶼) (注10-1) (注10-2) を下関条約により割譲されたものとして扱っている (注10-3)。なぜ紅頭嶼 (蘭嶼) を下関条約により割譲されたものとしたのかについての私の推測は別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 (詳細版) ]に述べてある。
さらに、台湾省の「受渡」での水野公使発言のうち、「況や福建と台湾と間に澎湖列島の横はりあるに於いてをや。」の部分は少し変な比喩であるが、その趣旨は福建と台湾との間には澎湖諸島以外に島の無い海域があり下関条約で澎湖諸島の範囲を緯度・経度で正確に規定しているので福建と台湾は自然地理学的に分別できるという趣旨である。この基準は明朝中国の小琉球の範囲と一致する (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ]参照)。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属する。
(4) 下関条約締結の翌年に日本の海軍省水路部が発行した『日本水路誌 第2卷 附録』によって解釈する方法:
下関条約締結の翌年の1896年(明治29年)に台湾が日本領になった事を受けて日本の海軍省水路部が発行した『日本水路誌 第2卷 附録』 (注11) では、台湾の北東の諸島に分類されている。尚、それ以前の水路誌で尖閣諸島の島名が英語名のカタカナ表記や漢字の当て字表記から中国名に変更されている。しかも、この『日本水路誌 第2卷 附録』は
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属する。
(5) 自然地理学的に解釈する方法:
海底地形から考えると水深・約135m以浅の狭義の大陸棚の辺縁部付近に台湾北部の花瓶嶼・棉花嶼・彭佳嶼と尖閣諸島が存在するので、台湾の附属島嶼と考えうる。尚、それらの島は現代では地質構造的に「台湾-宍道褶曲帯」に属する事が判っている。また、棉花嶼・彭佳嶼と尖閣諸島の黄尾嶼 (久場島)・赤尾嶼 (大正島) は第四紀の小規模玄武岩火山である事も判明しており、台湾北部の草嶺山(桃園市大渓区)に連なっている (別記事・[ 尖閣諸島は八重山諸島ではなく台湾の附属島嶼に含まれる ]参照)。
距離を考えると尖閣諸島は台湾の附属島嶼でないとの分類もありうるが絶対ではない。なぜなら、台湾本島北端から南端までの距離より尖閣諸島までの距離の方が短いからである。尚、清朝中国中央政府が版図に入れない事を表明した紅頭嶼 (蘭嶼) が仮に自然地理学的に「台湾の附属島嶼」だったとしても清朝中国の領土でないのだから割譲対象たり得ないのだが上述のように日本政府は紅頭嶼 (蘭嶼) を下関条約の割譲対象の「台湾の附属島嶼」として扱っていた。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属するか否か判定できない。注意すべきは自然地理学的に解釈しても尖閣諸島が「台湾の附属島嶼」に属するとも言える事である。
(6) 冊封使録によって解釈する方法:
尖閣諸島の島嶼に関する現存する最古の文献は、明朝中国から琉球に国王任命の使者として航行した冊封使・陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』 (1534年公刊) である (注12-1)。以前の冊封使の記録は役所のみに保管していたため役所の火災や風水害で消失してしまったので琉球国王冊封の記録を公刊したのである (注12-2)。以後の冊封使 (冊封副使を含む) の大半は陳侃に倣って琉球国王冊封の記録を公刊している。
それらの冊封使録では、わざわざ遠回りして小琉球(台湾本島)北端に向かい、そして、小琉球(台湾本島)北端→花瓶嶼→彭佳嶼→釣魚嶼 (魚釣島)→黄尾嶼 (久場島)→赤尾嶼 (大正島)→溝 (沖縄トラフ・黒潮本流)→久米島(琉球王国領)が模式的航路であった。すなわち、台湾北端から赤尾嶼 (大正島)まで一体の諸島として表記され (注13)、清朝中国人が「溝」と呼んで恐れた沖縄トラフ・黒潮本流で久米島と分断されている。中国人は水深135m以浅の狭義の大陸棚の存在を知り、安全な航海のため島を航路目標としたのであり、自然地理学的知見を踏まえた航路であった (別記事・[ なぜ琉球に向かう冊封船は台湾北部に回り道してたのか? ]参照)。
尚、日本は江戸幕府が冊封使・汪楫 著『使琉球雑録』を所蔵し明治期に内閣文庫に移管し、冊封副使・汪楫 著『使琉球雑録』 (注14) は日本国内でも出版され内閣文庫に移管されており、日本人として最初に魚釣島 (釣魚嶼) に上陸し簡易な調査をした沖縄県職員の石澤兵吾は徐葆光 著『中山伝信録』記載の島と比定 (同定) しており (注15)、日清戦争終結の翌年に海軍省・水路部が発行した『日本水路誌 第2卷 附録』 (注11) も尖閣諸島の島名を『中山伝信録』と『使琉球雑録』の表記によっている (注16)。下関条約当時の日本政府高官の大半は漢文の素養があり、日本政府が冊封使録を知っていたのは確実である。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属する。
(7) 下関条約締結前の日本の水路誌によって解釈する方法:
下関条約締結前の日本の水路誌は尖閣諸島については英国水路部作成の水路誌・『The China Sea Directory』第三巻・第四巻を模倣し、島名も英語名のカタカナ表記か漢字の当て字表記だった。尖閣諸島を含む冊封使が航路目標にした島は、英国水路部作成の水路誌・『The China Sea Directory』の第三巻(中国本土と台湾付近)と第四巻(日本と韓国付近)双方に含まれていたため、下関条約締結前の日本の水路誌も尖閣諸島を台湾側に分類する水路誌 (注17-1) (注17-2) (注17-3) と日本本土側に分類する水路誌 (注18-1) (注18-2) があった。
よって、この方法では尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」に属するか否か判定できない。注意すべきは下関条約締結前の日本の水路誌によって解釈する方法によっても尖閣諸島が「台湾の附属島嶼」に属する事が否定されない事である。
(8) 明朝中国の小琉球の範囲によって解釈する方法:
中国本土南部の東方沖の島嶼(概ね現在の福建省東方沖の島嶼)で澎湖諸島より東の島嶼は元朝時代に「琉求」と呼ばれたが、明朝中国時代に朝貢の有無によって広義の「大琉球」(琉球王国の版図)と広義の「小琉球」(台湾の附属島嶼)に分類された。明朝時代の書籍である『日本一鑑』の著者の鄭舜功もその認識を示している。そして、狭義の「小琉球」(台湾本島)が清朝中国の版図に編入されてからは「台湾」に名称変更されたので、台湾の附属島嶼は明朝時代の広義の「小琉球」である (別記事・[ 台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾) ]参照)。
付記:
下関条約署名時に「台湾の附属島嶼」の定義について合意がなかった。そのうえ、日本政府が先占について公開の宣言もせず標杭の建設もしなかった。また、下関条約署名後の日本の水路部作成の水路誌や陸地測量部作成の地図が割譲を示し (別記事・[ 陸軍作成地図も海軍作成水路誌も割譲を示す ]参照)、尖閣諸島で事業を行なっていた古賀辰四郎氏も日清戦争での日本の大勝利により台湾と共に割譲されたとの認識していた事 (別記事・[ 古賀辰四郎氏は尖閣諸島は台湾付属島嶼として割譲と認識 ]参照) により、外観から判断する外観法理が適用されるでべきである。よって、日本が1895年から1945年まで尖閣諸島を領有していた権原は割譲である。
2019年3月18日
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 下関条約の「台湾の附属嶼島嶼」の定義 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1-1) 日清媾和条約・調印書・アジア歴史資料センター公開 (レファレンスコード:B13090893700) 参照。
(注1-2) 政策研究大学院大学・田中明彦研究室のデータベース「世界と日本」中の 「日清媾和條約」 参照。
(注2) 日清戦争の講和交渉の記録は『日本外交文書(第28巻第2冊)』において公開され会談の発言記録は「会見要録」としてp.380-436にある。『日本外交文書』は外務省ホームページで「日本外交文書デジタルアーカイブ」としてインターネット公開されている (ただし、インターネットで『日本外交文書(第28巻第2冊)』を閲覧するには「Djvuビューアー」が必要になるが、「日本外交文書デジタルアーカイブ」トップページから「Djvuビューアー」ダウンロードサイトへのリンクが張られている)。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0003/0001/0028/0603/0197/0424/index.djvu
(注3) 『国際法学者がよむ尖閣諸島問題』・松井芳郎 著・日本評論社・第1版第1刷・2014年12月10日発行・p.70-71 参照。
(注4-1) "The China Sea directory (vol.3)"(英国水路部作成・第二版)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"HOA-PIN SU"が釣魚嶼 (魚釣島)、"TI-A-USU"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。
https://archive.org/stream/cu31924071164986#page/n321/mode/2up
(注4-2) "The China pilot "( King, John W 著・第三版 )は、"The Internet Archive"サイトで"University of California Libraries"の蔵書の1861年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"HOA-PIN-SU"が釣魚嶼 (魚釣島)、"TI-A-USU"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。
https://archive.org/stream/chinapilotcoasto00kingiala#page/294
(注4-3) "The China Sea directory (vol.4)"(英国水路部作成・第二版)は、"The Internet Archive"サイトで"Cornell University Library"の蔵書の1879年版がマイクロソフトの支援により公開されている。"Hoa-pin-su"が釣魚嶼 (魚釣島)、"Ti-a-usu"が黄尾嶼 (久場島) 、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼 (大正島) を表す。
https://archive.org/stream/cu31924071164994#page/n241
(注5) 黄叔璥 著・『台海使槎録』は、畿輔叢書版の画像が早稲田大学図書館によりインターネット公開されている。畿輔叢書版は国会図書館蔵書と同じである。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03977/index.html
尚、 [ 中国哲学書電子化計画 ] から下記urlで文面が公開されており、単語検索がしやすい。
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=716494
(注6) 陳淑均 著・『台湾府噶瑪蘭庁志』は、早稲田大学図書館によりインターネット公開されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01106/index.html
尚、 [ 中国哲学書電子化計画 ] から下記urlで文面が公開されており、単語検索がしやすい。
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=111476
(注7) 伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻 (刀江書院・昭和三年九月二十日発行) ・第十六編・第一章・p.936-937 参照。国会図書館デジタルコレクションにより下記urlで公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190978
尚、原本は公文書としてアジア歴史資料センターでレファレンスコード「A03023062300」の資料として公開されているが読みづらい。
(注8) 『台湾全島之図』(日本海軍水路寮発行) 参照。田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 台湾全島之図 ] で公開されている。 田中邦貴氏の出典目録によれば国立公文書館所蔵の地図だそうである。
(注9) 『台湾島及海峡』 (水路部・1894年発行) の画像は下記のurlより入手した魏德文 主講による『清末から日本統治初期の台湾関する地図』PDFに掲載されている地図を引用。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter5/pdf/n5_s3_2.pdf
(注10-1) 『臺海使槎錄』(巻一)(注5)に紅島嶼について「不入版圖」とある。
(注10-2) 伊能嘉矩 著・『臺灣文化志』下巻 (刀江書院・昭和三年九月二十日発行) ・第14編 [ 拓殖沿革 ]・第三章 [ 附属島嶼の拓殖 ] ・第4節 [ 紅頭嶼 ] ・p.378-p.380 参照。
(注10-3) 日本は水路誌に無主地先占した島については所轄・編入の記述があるが魚釣島と紅頭嶼については所轄・編入の記述が無い (別記事・[ 旧・海軍作成の水路誌に尖閣諸島だけ所轄も編入も記載無し ]参照)。
(注11) 『日本水路誌 第2卷 附録』・p.40-p.41参照。
尚、『日本水路誌 第2卷 附録』は国立国会図書館デジタルコレクションにより下記urlでインターネット公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055
(注12-1) 陳侃著『使琉球録』は筑波大学の図書館のサーバーで「國立北平圖書館善本叢書第一集」所収の嘉靖刻本影印本画像が公開されている。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/index_ch.htm
日本語訳は榕樹書林から原田禹雄 訳注・『陳侃 使琉球録』が出版されている。
(注12-2) 原田禹雄 訳注・『陳侃 使琉球録』(榕樹書林)・1995年6月4日発行・p.123-p.124 参照。
尚、筑波大学図書館サーバー公開の陳侃著『使琉球録』 (注12-1) 中の [ 陳侃等謹題為周咨訪以備採択事 ] 部分のうち下記urlの画像 参照。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/ch/ch/15/00000001.gif
(注13) 冊封使録の尖閣諸島部分の日本語訳は榕樹書林から原田禹雄 著・『尖閣諸島 冊封琉球使録を読む』が出版されている。それによれば、「溝」の記載のあるのは汪楫 著・『使琉球雑録』、周煌 著・『琉球国志略』、齊鯤・費錫章『続琉球国志略』である。しかし、李鼎元 著・『使琉球記』では琉球王国から派遣された夥長(水先案内人・航海士)に「溝」は存在しないと洗脳され「溝」は存在しないのだろうと考えていたが、水深135m超の「溝」を目視によって識別するのは困難だとしても錘による測深で識別できたので琉球王国から派遣された夥長は誤りを李鼎元に教え込んだ事がわかる。
「溝」の記載の有無に関する清朝中国の冊封使録を以下に示す。
(1) 汪楫 著・『使琉球雑録』(1684年初版発行)・[ 神異 ] 参照。「溝」の記載の有り。(注14) 参照。
(2) 周煌 著・『琉球国志略』(1785年初版発行)・第五巻・[ 山川 ] 参照。「溝」の記載の有り。
徳川幕府蔵書だった刊行本が公文書館で画像公開されている。
下記urlで筑波大学図書館サーバーに京都大学所蔵の1759年初版本画像が公開されている。http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/index_syu.htm
当該部分画像は下記urlである。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/syu/05/00000021.tif
日本語訳は榕樹書林から原田禹雄氏による訳注本が出版されている。
(3) 李鼎元 著・『使琉球記』・第三巻 参照。「溝」否定。
「溝」の冊封副使・李鼎元著『使琉球記』は1895年以前の版が公文書館には存在せず、国会図書館には存在するものの日本の民間人や民間企業のものと思われる蔵書印があり、下関条約締結時には日本政府関係者は読んでいなかった可能性が高い。
下記urlで筑波大学図書館サーバーに京都大学所蔵の公刊本画像が公開されている。http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/index_li.htm
当該部分画像は下記urlである。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/li/li/03/00000005.tif
冊封副使・李鼎元 著・『使琉球記』の古書は国会図書館デジタルコレクションにより下記urlで公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576136
日本語訳は榕樹書林から原田禹雄氏による訳注本が出版されている。
(4) 齊鯤・費錫章『続琉球国志略』・第三巻・[ 針路 ] 参照。「溝」の記載の有り。
下記urlで筑波大学図書館サーバーに京都大学所蔵の公刊本画像が公開されている。http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/index_xl.htm
当該部分画像は下記urlである。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/xl/xl/03/00000024.gif
日本語訳は榕樹書林から原田禹雄氏による訳注本が出版されている。
(注14) 汪楫 著・『使琉球雑録』(1684年初版発行)・[ 神異 ] 参照。
徳川幕府蔵書だった手書き写本は公文書館で画像公開されている。
下記urlで琉球大学図書館がハワイ大学所蔵の1684年刊行本画像を公開している。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00064130
下記urlで筑波大学図書館サーバーに京都大学所蔵の1686年刊行本画像がtifファイルで公開されているがリンク・ミスがあり、画像urlの「han_zatsu」の部分を「han/zatsu」に修正せねばならない。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/index_han.htm
当該部分画像は下記urlである。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/han/zatsu/00000067.tif
日本語訳は榕樹書林から原田禹雄氏による訳注本が出版されている。
(注15) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] で公開されている。
外務省外交史料館が所蔵する原本は [ アジア歴史資料センター ] でレファレンスコード「B03041152300」で公開されている文献の一部になっている。
(注16) 『日本水路誌 第2卷 附録』の島名のうち「釣魚嶼」のみ『使琉球雑録』に依拠し、他は『中山伝信録』に依拠したと考えられる。
(注17-1) 『台湾水路誌』(1873年刊行) 参照。
田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 台湾水路誌 ] で公開されている。 田中邦貴氏の出典目録によれば国立公文書館所蔵だそうである。
尚、国会図書館にも蔵書があり国会図書館の送信サービス参加館でも閲覧可能。将来、インターネット公開される可能性がある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304316
書誌ID:000008081065
(注17-2) 『寰瀛水路誌 卷4』 p.139-145 参照。
第二版(1889年刊行)が下記urlで国会図書館デジタルコレクションにより公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084219
(注17-3) 『支那海水路誌 第二巻』(1892年刊行)・p.551-558 参照。
国会図書館に蔵書があり国会図書館の送信サービス参加館でも閲覧可能。将来、インターネット公開される可能性がある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304319
書誌ID:000009138204
(注18-1) 『寰瀛水路誌 第一巻下』
田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 寰瀛水路誌 第一巻下 明治19年 ] 参照。
(注18-2) 『日本水路誌 第2巻』・p.345-346 参照。
下記urlで国会図書館デジタルコレクションにより公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180