[お知らせ]:井上大栄(2001);2001年版電力中央研究所研究年報・p.106-107 「2000 年鳥取県西部地震における地震断層の活動履歴調査」PDFファイルが電力中央研究所ホームページで閲覧できなくなってましたので、電力中央研究所の許可を得て私のホームページで井上大栄(2001);2001年版電力中央研究所研究年報・p.106-107 「2000 年鳥取県西部地震における地震断層の活動履歴調査」を公開します。ここをクリックしてください。(MD5値:B89F15E0CD04CEDB2B4245AB617A93DA)[2012年5月14日追記]
原子力発電を支持する電力中央研究所論文のウソ
(前半部分は文系の方でもわかるので、文系の方もぜひ御一読ください。)
1.対応する活断層も歴史地震もないのにマグニチュード7.3の鳥取県西部地震が起きた。
「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針(昭和56年原子力安全委員会決定)」(注1)は、原発立地時の調査で判明した歴史地震と活断層から想定される地震とマグニチュード6.5の近距離地震への耐震性しか要求していない。2000年鳥取県西部地震によって、昭和56年指針のこの欠陥が明らかになった。なぜなら、対応する(地表)活断層も歴史地震もないのにマグニチュード7.3の鳥取県西部地震が起きたからだ。
このままでは、昭和56年指針の甘い耐震基準が見直されて厳しい耐震基準に改訂されると原発建設コストが急騰して困ると電力各社は危機感をいだいたと思われる。
電力各社が共同で設立した電力中央研究所の井上大栄らは鳥取県西部地震震央付近を調査し、震央付近の日野町に活断層を発見したとして、それが過去の出雲地震(880年)も引き起こした活断層と結論し、原発立地時並みの詳細な調査をすれば、この地方のM7クラスの地震を事前に想定可能だったと主張している。そして電力中央研究所の井上大栄らは原子力発電所用地の選定・耐震設計において必要な地震規模の事前予測が可能と結論付けた。(注2)
ここでは、井上大栄(2001);2001年版電力中央研究所研究年報・p.106-107 「2000 年鳥取県西部地震における地震断層の活動履歴調査」(別ウィンドウ表示はここをクリック)と井上大栄 他(2002)による日本地震学会の学会誌「地震」第54巻p.557-573 「2000年鳥取県西部地震震源域の活断層調査」を中心にそのウソを検証する。
まず、井上大栄は西暦880年の出雲地震と2000年鳥取県西部地震の被害状況が非常に似ているとするが、これはウソである。当時の中央政府(平安朝)の記録である「日本三代実録」や「類聚国史」には、地震出雲地方(島根県東部)で元慶四年10月14日(西暦880年11月23日)にかなりの被害が出た旨の報告の記述があるが、伯耆地方(鳥取県東部)の被害報告はない。尚、当時の伯耆国司は自然災害等があれば、小まめに中央政府に報告して優遇措置を受けていた記録が残っており (注3)、元慶四年10月14日(西暦880年11月23日)の地震について中央政府の記録に被害報告が存在しないのは伯耆地方に被害がほとんどなかったからだと考えられる。つまり、元慶四年10月14日(西暦880年11月23日)の地震の被害のほとんどは島根県側にあったのである。
逆に、2000年鳥取県西部地震では鳥取県の被害は負傷者141名、家屋全壊390棟であり、島根県の被害は負傷者11名、家屋全壊34棟であり(注4)、鳥取県の被害が圧倒的に島根県の被害より大きい。
被害報告を表にまとめると、下のように出雲地震(880年)と鳥取県西部地震(2000年)で被害地域が異なるのが明瞭である。
被害報告比較表
|
島根県側の被害 |
鳥取県側の被害 |
出雲地震(880年) |
被害大 |
被害ほとんどなしと推定される(根拠) |
鳥取県西部地震(2000年) |
被害小 |
被害大 |
被害状況からすれば西暦880年の出雲地震の震源は島根県内にあったと推定すべきある。
それでは、井上大栄はいかなる根拠で「被害状況などは今回の地震と非常に似ており」などと述べているのか(注5)というと、「地震」第54巻p.572で井上大栄他(2002)は[宇佐美(1996)]によって880年出雲地震に言及し、[萩原・他(1982)]を根拠に出雲地震の地震動の範囲や被害状況が2000年鳥取県西部地震と似ていた可能性があるとしているのである。
ところが、[宇佐美(1996)]も[萩原・他(1982)]も震央を島根県内と推定している。つまり、[宇佐美(1996)]も[萩原・他(1982)]も根拠どころか否定的根拠である。井上大栄は図々しくも否定的根拠を理由にしてウソをついているのである。
3. 断層運動によるものではない「段差」を断層運動で生じた「段差」として扱ってC14分析している。
井上大栄はトレンチ壁面における花崗閃緑岩(granodiorite)上面の「段差」が最終断層運動によって生じたという暗黙の前提の下で主張を展開している。しかし、「地震」第54巻p.557-573 「2000年鳥取県西部地震震源域の活断層調査」のトレンチ南東(SE)壁面図のFig.10.(p.571)は、それを否定する。なぜなら、Fig.10.では断層が薄い玄武岩(basalt)の貫入岩中を通っているからである。仮に、平安時代に花崗閃緑岩(granodiorite)上面が一致していたなら、玄武岩(basalt)の貫入岩の左半分の薄い部分はそれより突き出ていた事になるからだ。
よって、トレンチ壁面における花崗閃緑岩(granodiorite)上面の「段差」は差別侵食によって生じたものと考えるべきなのである。それゆえ、井上大栄らのC14分析は、その前提から間違っており、全く無意味なのである。実際、尾根の反対側でも沢筋としてリニアメントを形成しており、基本的地形としてのリニアメントが尾根の反対側にも存在するのは、その断層が付近の山地が「幼年期」から存在してたという事を示している。また、断層面に薄い玄武岩岩脈は断層に沿って貫入してきた可能性が高い。しかし、トレンチの周囲の地表には溶岩もスコリアもない。そして、少し離れたリニアメントの延長上に第三紀のものと思われる玄武岩溶岩が存在するので、玄武岩岩脈の貫入時期は第三紀の可能性が高い。つまり、この断層は第三紀に活動を始めた可能性が高く、現在では活性を失っている可能性が高い。
尚、堆積物のC14年代が古い物でも西暦350年以降であるのは、おそらく当時行われていたであろう焼き畑農業(注6)によって禿山になり土石流が起き、その土砂が堆積した可能性が高い。
5. 電力中央研究所・井上大栄論文の疑惑(その1)
日本地震学会の学会誌「地震」第54巻p.557-573 「2000年鳥取県西部地震震源域の活断層調査」の分類図のFig.11.(p.572)は識別困難であった。
この分類図は後述するように井上大栄にとってC14分析の問題点を示すもので井上大栄にとって不都合なものだったので、井上大栄が意図的に識別困難な分類図にした疑いがあった。そこで、私は2004年3月、日本地震学会の学会誌編集担当理事の中西一郎・京都大学助教授に識別可能な図に差し替えるよう要求した。その結果、「地震」第57巻p.69-70にFig.11.の訂正図が載った。
問題は、訂正のあった「地震」第57巻p.69に「Fig.11.で印刷の不手際があり, 著者及び読者の方々にご迷惑をお掛けしました。」として、当初の「地震」第54巻p.572でFig.11.が識別困難だった責任が印刷会社に転嫁されている疑いがある事である。しかし、私がそれを印刷した国際文献印刷社に問い合わせたところ、現在の印刷技術でも模様の変換をせねば識別困難になるとの事であった。(ただし、国際文献印刷社は模様の変換を怠った事につき自社の過失を認めている。)
しかし、同様の分類図のある「原子力eye」vol.47 No.11p.66-71の図6(p.69)の分類図も識別困難なので「地震」の印刷下請けの国際文献印刷社の責任とは考えにくい。
6. 電力中央研究所・井上大栄論文の疑惑(その2)
日本地震学会の学会誌「地震」第54巻p.557-573 「2000年鳥取県西部地震震源域の活断層調査」のトレンチ北西(NW)壁壁面図・Fig.9.の左上の「←N50°E」と右上の「S50°W→」は北西壁である事と断層の走向・傾斜が「N71W60N」である事と矛盾する。
また、トレンチ南東(SE)壁面図のFig.10.とも矛盾する。
矛盾なので、どこかに誤記があるはずなので、電力中央研究所に問い合わせたが回答はない。回答がないので断言はできないが、総合的に見れば、Fig.9.の左上の「←N50°E」と右上の「S50°W→」が、それぞれ「←S50°W」「N50°E→」の誤記と思われる。
これも、Fig.10.との照合において重要であり、Fig.10.が井上大栄の主張を根底から否定する内容である事を考えると、意図的に表記を誤記した疑いが持たれる。
2006年5月14日
(談話室)「オクトパスアイランド」 (お気軽にどうぞ)
http://www.nsc.go.jp/_sisin/si004.htm
井上大栄(2001);2001年版電力中央研究所研究年報・p.106-107 「2000 年鳥取県西部地震における地震断層の活動履歴調査」,
http://criepi.denken.or.jp/jp/pub/annual/2001/01seika53.pdf
井上大栄 他(2002);地震,第54巻p.557-573 「2000年鳥取県西部地震震源域の活断層調査」
井上大栄 他(2001);原子力eye;vol.47 No.11p.66-71「鳥取県西部地震の活断層調査:詳細な調査をすれば事前に地震は予測できた」
井上大栄(2003);ENERGY;2003-9;p.26-28「立地時なみの調査をすれば断層は発見できた!」
岸清、酒井俊朗、井上大栄(2001);JSCE;vol.86, July 2001 p.56-61 「古くからサイトごとに地震動評価を行ってきた原子力発電所の耐震設計法」
(注3)日本歴史地名大系・第32巻「鳥取県の地名」(1992)平凡社p.423-424古代 [災害と争乱]↓参照。
それによれば、出雲地震(西暦880年)当時の伯耆国司が災害を逐一中央に報告して中央への納税の減免や支援の優遇措置をもくろむ(実際に優遇措置を受けた記録有り)タイプだったと推定される事や水害や不作を報告してる事がわかります。それゆえ、出雲地震(880年)について伯耆国(現・鳥取県西部)の被害の記録がないのは伯耆国(現・鳥取県西部)で被害がほとんどなかった事の裏返しと考えられます。
↓は同書p.424の当該部分のコピー
http://www.bousai.go.jp/kinkyu/tottori/tottori1.html
(注6)縄文時代後期に陸稲による焼畑稲作が日本に伝来した事が判明しており、その後、水利の良い地方では水田稲作に置き換わったが、山間部では20世紀半ばまで焼畑農業をしていた所もあった。
Wikipedia 参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代
>縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。