福建の海防担当者が福建の島としなかった事を以って中国領を否定する日本領論
日本の江戸時代初期に日本の長崎代官であった村山等安の配下の明石道友が明朝中国の福建沖の東湧島 (東引島) や福建沿岸に停泊した。その際、明石道友を取り調べた福建の海道副使(海防兼外務の監察長官)韓仲雍(かんちゅうよう)が明石同友に、「臺山、噘山、東湧、烏䐒、澎湖、彭山」は「閩門庭之内」(「閩」は福建を意味)として福建に属する主な島を列挙し、その内側への侵入を禁じたが、その外側については「華夷所共」として中国人も外国人も利用できる公海として示した (明朝中国の公文書の『皇明実録』の記述による)。
その事を、内閣官房ホームページの『尖閣諸島に関する資料の委託調査(平成29年度実施分)報告書』(株式会社ストリームグラフ作成)p.36-39において、日本領論者・石井望(いしゐのぞむ)氏は示している。尚、日本領論者・石井望氏は2013年1月21日付け読売新聞ホームページ記事 (注) にて、その事を以って尖閣諸島が明朝中国領でなく「無主地」だったとし、明治日本の編入は正当だった旨を主張している。
しかし、それは単に尖閣諸島を含む冊封使航路列島が福建に属さなかった事を示しているだけである (別記事・[ 冊封使航路列島は行政区画に属さない清朝中国の海外属領 ]参照)。福建の海道副使(福建の海防担当者)の主張だから、一々、海防担当区域外の中国領の島の全部に言及していたら大変な作業なので、尖閣諸島を含む冊封使航路列島に対する言及が無くとも問題は無い。尚、欧米諸国でも本土から遠く離れた無人島や極めて人口の少ない島で地方行政を行なわない島については通常の行政区画に属さない場合もある (別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ]参照)。欧米諸国だけでなく、日本でも明治政府による小笠原諸島の欧米諸国に対する正式な領有宣言をした1876年には内務省の管轄で、行政区画である東京府に編入したのは1880年である。
2018年9月15日
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