(注意):この記事には 標準版 があります。
日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 (詳細版)
日本の旧・海軍省外局の水路部 (注1-1) (注1-2) 発行の初期の水路誌の尖閣諸島に関する記事の大部分は英国水路誌『The China Sea Directory』第三巻・第四巻からの引用であった (注2)。英国水路誌『The China Sea Directory』第三巻では尖閣諸島は台湾沿岸の解説記事と共に収録され (注3)、『The China Sea Directory』第四巻では沖縄県の先島群島の記事と沖縄本島の解説記事の間に記載されていた (注4)。そのため、初期の日本の水路誌では台湾沿岸の解説記事と共に収録された場合 (注5) と沖縄県の島の解説記事と共に収録される場合 (注6) があったが、いずれの場合も日清戦争終結まで島名は英語名の発音から当て字の漢字表記としたりカタカナ表記としたりしていた。
『日本水路誌・ 第2巻』(明治27年刊行)は国会図書館のデジタルコレクションによりインターネット公開されているので、p.345 と p.346 を確かめられたい。ちなみに、緯度・経度の比較から、「ラレー岩」は大正島、「ホアピンス島」は魚釣島、「チアウス島」は久場島を意味する (注7)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180
ところが、日清戦争終結後に尖閣諸島に関する水路誌で最初に刊行された日本水路誌 第2卷 附録 (明治29年刊行) (注8-1) において、英語名の発音から当て字の漢字表記やカタカナ表記ではなく「釣魚嶼・黄尾嶼・赤尾嶼」という中国名を採用した。『日本水路誌 第2卷 附録』 (明治29年刊行)も国会図書館のデジタルコレクションによりインターネット公開されているので、p.40-41 を確かめられたい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055
その少し後の改版 (明治35年刊行・日本水路誌 第2卷 附録 第一改版) (注8-2) では英語名を併記したが日本名は記載されなかった。更に、その後、「釣魚嶼」については正式な日本名の「魚釣島」と変更したが「黄尾嶼・赤尾嶼」については2000年まで中国名のままだったが、2005年になって「久場島・大正島」という日本名に変更された (注9)。ちなみに国土地理院発行の地形図も2003年に日本名「久場島・大正島」に変更されている (注10)。
これは、尖閣諸島の近代的測量と上陸調査で先行した英国 (注11) に対しては国家としての近代的実効支配で劣後していたので、英国に対しては日清戦争の講和条約である下関条約で清朝中国から割譲を受けたと主張するための措置だった事と、国土地理院の前身の日本陸軍・陸地測量部発行の5万分の1地形図の旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行) (注12) でも「黄尾嶼・赤尾嶼」という中国名表記が使用されていた事から日本軍としては日清戦争の戦果として割譲だと主張したかったからだと思われる。「無主地先占」だと文官の功績になってしまうが「割譲」だと戦果であり軍の功績になるからである。ちなみに、日本陸軍・陸地測量部発行の5万分の1地形図の旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和8年発行) (注12) に附録している「一般図」 では沖縄県と鹿児島県の間に境界線が引かれているが沖縄県と台湾の間には境界線が無く、陸軍としては「黄尾嶼・赤尾嶼」という中国名表記と合わせて尖閣諸島が割譲されたものと主張したかったのだと考えられる。
付記(1):
2010年、Google マップが魚釣島に中国名「釣魚島」を併記した事に対し、日本国憲法・第21条の表現の自由を無視して日本政府及び当時は野党だった自民党は訂正を申し入れた (別記事・[ 表現の自由を無視しグーグルマップから中国名削除を要求した日本政府 ]参照)。それほど日本政府が忌み嫌う中国名に日清戦争後の日本の海軍省の水路部発行の水路誌は英語名から切り替えたのである。これは日清戦争の講和条約である下関条約で尖閣諸島が「台湾の附属島嶼」として割譲された事を日本が認めた事に他ならない。
付記(2):
石井望氏は「釣魚図鑑」を例に釣魚嶼は日本名だと主張するが (注13)、「釣魚図鑑」は「釣った魚の図鑑」または「釣りの魚の図鑑」であるが、「釣魚島」だと日本語では「釣った魚の島」か「釣りの魚の島」の意味になって不自然になってしまう。
日本語の語順では「魚がよく釣れる島」は「魚釣島」となるのである。中国語と日本語の文法では逆転するため、「魚がよく釣れる島」は日本人・琉球人にとっては「魚釣島」のほうが馴染むのである。ちなみに、「魚釣島」という名称を最初に使ったのは元・琉球王国役人だった大城永保が釣魚嶼等に関する書面を沖縄県庁に提出した時であった (注14)。尚、大城永保は「魚釣島」に「ヨコン」とフリガナをしているが、向姓具志川家家譜には「魚根久場島」とあり (注15-1) (注15-2)、「ヨコン」は「魚根」の中国音に由来すると思われる。
2019年8月30日 (2018年3月21日・当初版は こちら 。)
標準版は こちら。
御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 日清戦争後の水路誌で中国名に変更した日本海軍 浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。(注1-1) 下記urlの海上保安庁・海洋情報部ホームページ資料参照。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KIKAKU/jhd_history.html
>1888年 明治21年 6月27日 水路部 海軍の冠称を廃し水路部と改称
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(注1-2) 下記urlのアジア歴史資料センター・資料の「日本海軍の組織概要」の組織図から「水路部」が海軍の冠称を廃した後も海軍省の外局だった事がわかる。
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index17.html
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(注2) たとえば、『日本水路誌・第二巻』(明治27年刊行)序文参照。
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(注3) 英国水路部(Great Britain. Hydrographic Dept)による『The China Sea Directory』第3巻・第二版が、the Internet Archive にCornell University Library蔵書の画像がMSNによる支援で公開されている。尖閣諸島に関する記事はp.302の下部からp.304の半ばまでで台湾北東の諸島("ISLANDS NORTH-EAST OF FORMOSA")の一部として解説されている。
"HOA-PIN SU"は釣魚嶼(魚釣島)、"the PINNACLE GROUP"は南小島・北小島等の釣魚嶼(魚釣島)の東側6マイル以内の小島や岩礁である。尚、p.302の上部にある"PINNACLE ISLAND"は花瓶嶼であり"the PINNACLE GROUP"と異なる。尚、p.303の"TI-A-USU"は黄尾嶼(久場島)を意味し、P.305の"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼(大正島)に対応する。
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(注4) 英国水路部(Great Britain. Hydrographic Dept)による 『The China Sea Directory』第4巻・第二版が、the Internet Archive にCornell University Library蔵書の画像がMSNによる支援で公開されている。尖閣諸島に関する記事はp.219にある。その前のp.212-218には先島諸島の記事があり、その後のp.220には沖縄本島の記述がある。尚、p.219最上部の"PINNACLE ISLAND"は花瓶嶼であり、その下から尖閣諸島の記事が書かれている。"Hoa-pin-su"が釣魚嶼(魚釣島)、"The Pinnacle group"は南小島・北小島等の釣魚嶼(魚釣島)の東側6マイル以内の小島や岩礁である。"Ti-a-usu"は黄尾嶼(久場島)、"RALEIGH ROCK"が赤尾嶼(大正島)に対応する。
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(注5) 『台湾水路誌 (明治6年刊行)』 , 『寰瀛水路誌・第4巻 (明治22年刊行)』 がこのタイプである。
『台湾水路誌 (明治6年刊行)』 は国会図書館及び全国の各都道府県で最低一ヶ所の公立図書館で閲覧可能。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304316
『寰瀛水路誌・第4巻 (明治22年刊行)』は国会図書館によりインターネットで公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084219
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(注6) 寰瀛水路誌 第一巻下 (明治19年刊行) , 日本水路誌・第二巻 (明治27年刊行) がこのタイプである。
日本水路誌・第二巻 (明治27年刊行)は国会図書館によりインターネット公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180
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(注7) 尖閣諸島の島名の日本名と英語名と中国名の対応の調べ方:
別記事・[ 公的資料から中国名と英語名を確認する方法 ]参照。
尚、尖閣諸島の島名の日本名と中国名の対応は、国土地理院地方測量部または沖縄支所で、5万分の1地形図・『魚釣島』・(1973年測量・1974年発行・リスト番号:164-14-2)での中国名と日本名の併記参照。
ちなみに、「ピンナクル諸嶼」というのは英国水路誌の"The Pinacle group"の訳で南北小島及び周辺の岩礁を指す。尚、日本人で始めて魚釣島 (釣魚嶼) の学術調査をした黒岩恒は1900年発行の『地学雑誌』(第12巻8号)のp.477において釣魚嶼と尖閣諸嶼と黄尾嶼を合わせて「尖閣列島」と命名している。上記の「ピンナクル諸嶼」に相当する「尖閣諸嶼」 と「尖閣列島」とは異なる事に注意。
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(注8-1) 日本水路誌 第2卷 附録 (明治29年刊行)は国会図書館によりインターネット公開されている。尖閣諸島はp.40-41で「臺灣北東ノ諸島」の一部分として紹介されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084055
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(注8-2) 『日本水路誌 第2卷 附録 第一改版』(明治35年刊行)は、全国各地の国会図書館送信参加館にて閲覧可能。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304272
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http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14
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(注11) 1845年に英国の調査用軍艦サマラン号の艦長Sir Edward Belcherが尖閣諸島の測量と上陸調査をし、その調査結果は航海記『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』で国際的に公開され、他の測量結果と合わせて英国水路部が作成した水路誌"The China Sea directory "(第3巻・第4巻)を明治期の日本は参考にて水路誌を作成した。
サマラン号の艦長Sir Edward Belcherの航海記の尖閣諸島関連部分は、田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ] の [ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ] にある。
航海記全体はMSNによる支援によってInternet Archiveでインターネット公開されているサマラン号の艦長Sir Belcher Edward の著書"Narrative of the voyage of H. M. S. Samarang, during the years 1843-46 (Volume 1)"(第一巻) 及び "Narrative of the voyage of H. M. S. Samarang, during the years 1843-46 (Volume 2)"(共にUniversity of California Libraries蔵書) 参照。
ちなみに、英国の調査用軍艦サマラン号艦長Sir Edward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』において、「Y-nah-koo」は与那国島、「Pa-tchung-san」は石垣島、「Hoa-pin-san」は釣魚嶼 (魚釣島) 、「Tia-usu」は黄尾嶼 (久場島) 、「Raleigh Rock」は赤尾嶼 (大正島) を意味する。
尚、本来、「Hoa-pin-san」は冊封副使・徐葆光の著書『中山伝信録』の「針路図」では釣魚台 (魚釣島) の二つ手前の花瓶嶼を意味するはずだったのにフランス人のイエズス会士・Gaubil神父がフランスのイエズス会に送った手紙に添付した地図で一つズレ、後年、フランスの調査隊のラペルーズ船長の故意または重過失によって更に一つズレて欧米の海図に釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」と記載され、その後に、サマラン号艦長Sir Edward Belcherが冊封使船の航路でなく南からアプローチし、雇った石垣島の水先案内人達 (Pa-tchung-san pilots) が「Hoa-pin-san」という名前を知らなかった事からサマラン号艦長Sir Edward Belcherはラペルーズ船長由来の誤った名前で表記された海図によって釣魚嶼 (魚釣島)に行き、ラペルーズ船長由来の誤った名前のまま調査報告したため、欧米では釣魚嶼 (魚釣島) が「Hoa-pin-san」として定着した (別記事・[ 「和平島」は誤解が生んだ別名 ] 参照 )。
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(注12) 国土地理院 WEB サイト における旧版『吐ロ葛喇及尖閣群島』(昭和5年測量・昭和8年発行)参照。下記urlのページの一覧でリスト番号「164-14-9」 をクリックすると表示できる。
ただし、画像は不鮮明な低解像度画像である。鮮明な画像は国土地理院情報サービス館、各地方測量部及び支所において、ディスプレイで閲覧することができる。また、鮮明な謄本・抄本も購入可能。
http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=25.6686111,123.4991667&z=10&target=t50000&figureNameId=164-14
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(注13) 石井望氏のブログ [ いしゐのぞむブログ ] の下記の記事参照。
[ 釣魚嶼=Tiao-yu-suは日本名である。尖閣にチャイナ名は存在しない。 ]
http://senkaku.blog.jp/archives/37712591.html
[ チャイナ外交部の叫んだ尖閣「百枚千枚の地圖」 確かに存在する ]
http://senkaku.blog.jp/archives/32772414.html
>釣魚圖鑑・釣魚大全の「釣魚」(てうぎょ)は漢文であって、
>チャイナ語ではない。チャイナ人は釣魚嶼の命名者ではない。
(注14) 大城永保が沖縄県庁に提出した釣魚嶼等に関する書面の原本は現存しないようであるが、その一部分の写しが下記の黒岩恒 著・地学雑誌・Vol. 12 (1900) No. 8, p.479 に引用されている。「魚釣島」に「ヨコン」と琉球王国での読みが記されている。
下記の国立研究開発法人 科学技術振興機構 [JST]にてインターネット公開
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/12/8/12_8_476/_pdf
(注15-1) 國吉まこも氏 ( 沖縄大学地域研究所特別研究員 ) 著・『尖閣諸島の琉球名と中国名のメモ 』 ( 地域フォーラム・vol.40 p.14 ) 参照 。
(注15-2) [ 尖閣諸島資料ポータルサイト ] の下記urlの記事 [ 向姓具志川家家譜十二世諱鴻基 ] 参照。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1819000000103.html