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台湾海峡の東の島嶼は大琉球(沖縄)と小琉球(台湾)

 

   元朝まで福建省東方の島嶼で澎湖諸島より東の島嶼は「琉求」と呼ばれていた (注1) が、明王朝の朝貢の呼びかけ (招諭) に応じ、明朝初期に琉球三王国が明朝中国に朝貢して以来、明朝中国は「琉求」の島嶼のうち、朝貢に応じた琉球三王国のあった沖縄本島を「大琉球」、朝貢に応じなかった台湾本島を「小琉球」と分類した (注2) 。明朝中国にとって面積にかかわらず朝貢に応じた地域は朝貢に応じなかった地域より明朝中国にとって価値が大きかったからと思われる。その後、沖縄本島の琉球三王国のうち中山王国が沖縄本島を統一し奄美諸島や先島諸島を版図にしたので、琉球王国の版図全体が広義の「大琉球」となり、元朝まで「琉求」と呼ばれていた島嶼のうち琉球王国の版図を除いた部分が広義の「小琉球」となった。そのため、明朝時代の鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」においても釣魚嶼は小東 (小琉球) の小嶼 (附属島嶼) と書かれている (注3-1) (注3-2)

   明朝時代に「小琉球」と呼ばれた台湾本島は、その後、清朝中国時代に中国領の版図となって「台湾」と呼ばれるようになった。よって、尖閣諸島を含む冊封使航路の諸島は台湾の附属島嶼なのである。尚、清朝時代に台湾が版図に編入されてからも、例外的に冊封使録では明朝時代と同じく台湾本島について「小琉球」の呼称が使われ続けていた。また、台湾本島南西部の現・高雄市沖の琉球嶼は「小琉球」の別名でも呼ばれている。


付記 :

 

   下関条約 (日清講和条約) による台湾の受け渡しで、日本側の水野遵・公使が清朝中国側の李経方・全権代表に「台湾及びその附属島嶼」の範囲について「況や福建と臺灣との間に澎湖列島の横はりあるに於てをや」と述べ (別記事・[ 水野遵・公使の台湾附属島嶼の目録拒否 ] 参照) 、(沖縄以外の)台湾海峡の東側の島嶼全てとしたが、これも元朝時代の「琉求」を明朝初期に「大琉球」と「小琉球」に大別した時の「小琉球」の範囲と同じである。清朝時期に台湾を版図に入れた際に「小琉球」を「台湾」と改名した事を考えると「小琉球」に属した尖閣諸島は「台湾の附属島嶼」なのである。


目次

2017年1月19日

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浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) wikisorce「元史」(卷210)「琉求」参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/元史/卷210#.E7.90.89.E6.B1.82

 

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(注2) wikisorce「皇明祖訓」参照。

https://zh.wikisource.org/zh-hant/皇明祖訓

>正南偏東:

>大琉球國(朝貢不時,王子及陪臣之子,皆入太學讀書,禮待甚厚)

>小琉球國(不通往來,不曾朝貢)

 

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(注3-1) 鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」の一節参照。 

 

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(注3-2) 大友信一・刘震宇 (1983) : 岡山大学紀要・1983年12月・vol.4;  p.250-236 (横書き・縦書き混在のためページの表示が逆になっている事に注意、縦書きページ表示では84頁から97頁) 参照。

 

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