無料アクセス解析

 石井望氏の福建沿岸領海を中国全体の領海と偽る記事

 

   石井望(いしゐのぞむ)氏は「いしゐのぞむブログ」記事・『讀賣新聞 福建の海防線は大陸沿岸まで 元和三年(西暦1617年)』において、明朝中国の福建海道副使(福建沿岸警備担当者)が福建沿岸領海の外は航行自由の海域(公海)だと述べた (注1) 事を、福建の海道副使だと説明せず進入禁止した海域が福建沿岸・近海である事も説明せず、明朝中国の福建沿岸・近海の領海を中国全体の領海と読者に誤認させ、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が中国領でなかったと主張している。尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が福建等の通常の行政区画に属さなかった可能性を無視しているのである。

   地方行政を行なわない無人島や人口が極めて少ない有人島の場合には、欧米には現在でも行政区画に属さない領土が存在する (別記事・[ 欧米には通常の行政区画に属さない海外属領も存在する ]参照) 。日本でも小笠原諸島は当初は内務省の管轄 (注2-1) (注2-2) で、竹島は第二次世界大戦中の1940年に島根県隠地郡五箇村から海軍舞鶴鎭守府の所轄に移管されている (注3-1) (注3-2) 。また、尖閣諸島も1895年の閣議で沖縄県の所轄とされたものの当時の沖縄県の基礎的行政区画の「間切」 (注4) に編入されたのは1902年12月である (注5) 。

   しかも、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が通常の行政区画に属さなかったと考えられる理由も存在する。明朝・清朝では沿岸警備を地方官に委ねていたが、福建海道副使(福建沿岸警備担当者)の指揮命令下にある沿岸警備用艦艇では外洋の荒波に耐えれず、大型の外国船や外洋で海賊行為を働く大型の海賊船との戦闘が困難だったので、中央軍である水師 (海軍) が防衛を担当せざるを得ず中央直轄だったと推定されるからである。また、『日本一鑑』には釣魚嶼への漁業巡視が記載されている (別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す (標準版) ]参照)  ものの漁民か海賊かの識別のための巡視と推定され尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) の住民は10人未満だったと考えられる事と合わせて明朝中国は尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) で行政を行なわず行政区画に編入する必要がなかったと考えられる。


上記の記事は石井望(いしゐのぞむ)氏の下記の記事に対応しています。

 

「いしゐのぞむブログ」記事(2015年5月19日)及び読売新聞記事(2013年1月21日)

 [ 讀賣新聞 福建の海防線は大陸沿岸まで ]

http://senkaku.blog.jp/archives/30701638.html

 

『尖閣反駁マニュアル百題』(いしゐのぞむ著・集広社)・第七十二題。


目次

2017年12月29日 (2017年12月27日・当初版は こちら 。)

御意見・御批判は対応ブログ記事・[ 石井望氏の福建沿岸領海を中国全体の領海と偽る記事   浅見真規のLivedoor-blog ] でコメントしてください。

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) 『明神宗顯皇帝實錄卷之五百六十』 (中國哲學書電子化計劃) 参照。

http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=260457

>萬歷四十五年八月癸巳朔巡按福建監察御史李凌雲奏稱本年四月十九日

>有台山游兵船一只送回董伯起隨為官兵阻於黃岐海道副使韓仲雍馳至小埕召倭目明石道友

>・・・・・(中略)・・・・・

>為台山為礵山為東湧為烏丘為彭湖皆我閩門庭之內豈容汝涉一跡此外溟渤華夷所共

 

明石道友を取り調べた海道副使の韓仲雍が立ち入りを禁じた海域の「閩門庭之內」とは福建海道副使・韓仲雍の沿岸警備担当区域であって決して中国全土の領海全体ではない。ちなみに、「閩」( 中国語版wikipedia「閩」参照 ) とは福建の略称・古称・雅称である。

 

尚、海道副使韓仲雍が福建の海道副使であった事は、『大明神宗顯皇帝實錄卷之五百三十四』  (中國哲學書電子化計劃) 参照。

http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=427023

>升貴州副使謝存仁為貴州參政

>福建參議韓仲雍為福建副使

 

 

(注2-1) 下記urlの東京都・小笠原支庁ホームページ記事参照。

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/07ogasawara/guidance/history.html

>明治    9年(1876年)     国際的に日本領土と認められる。

>                       内務省所管と定められ、移民を送り内務省出張所が設置される。

>・・・・・(中略)・・・・・

>13年(1880年)        東京府の管轄となり、内務省出張所が廃止され、東京府小笠原出張所が設置される。

 

 

(注2-2) 下記urlの小笠原村公式サイト・「沿革」参照。

http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline_development/

>明治9年(1876年)       国際的に日本領土と認められる。

>   13年(1880年)      東京府の管轄となり、東京府小笠原出張所が設置される。

 

 

(注3-1) 下記urlの坂本悠一氏著・PDF参照。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/memoirs/kiyou32/32-01.pdf

>その後日本は,1941年末に太平洋戦争に突入するが,その前年の40年8月17日には,

>竹島は島根県隠地郡五箇村から,海軍舞鶴鎭守府の所轄に移管された.

 

 

(注3-2) 島根県・Web竹島問題研究所の下記url記事参照。

http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_k.html

>また、昭和15年8月17日に竹島は島根県の所管から海軍省の用地となり、舞鶴鎮守府に引き継いだ。

>そのため、竹島での土地使用許可申請が県から海軍省となり、昭和16年2月の八幡長四郎の出願に対し、

>海軍省が昭和16年10月1日から20年3月31日までの利用を許可している。

 

 

(注4) wikipedia「間切」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/間切

 

尚、1908年(明治41年)4月1日まで沖縄県の基礎的行政単位は町村ではなかった。

wikipedia「島嶼町村制」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/島嶼町村制

 

(注5) 石垣市役所公式ホームページにおける石垣市教育委員会市史編集課作成記事・『八重山近・現代史年表』 (明治12年~昭和20年8月14日まで) 参照。

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/Timeline/timeline-page/timeline-11.html

>明治35年(1902)

>・・・・・(中略)・・・・・

>尖閣諸島魚釣島・久場島・南小島・北小島、大浜間切に編入、登野城村に地籍を設定