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国標を建設しなかったので無主地先占不成立で割譲によって領有
政府から調査命令を受けていた西村捨三・沖縄県令 (当時) が明治18年(1885年)9月22日に、「久米赤島 (赤尾嶼) 」・「久場島 (黄尾嶼) 」・「魚釣島 (釣魚嶼) 」に国標を建設すべきか否かについて政府の判断を仰いだが、結局、政府は国標建設を見送った (注1) (注2) 。
その後、魚釣島 (釣魚嶼) で、鹿児島県出身の松村仁之助という実業家がアホウドリの羽毛採取のため雇った労働者を置き去りにし危うく餓死させかける事件 (注3) があったためか、明治26年に奈良原繁・沖縄県知事が取締りのために至急に標杭建設の指揮を求める旨の上申書を政府に差し出した (注4) 。
しかし、その上申は1年以上審議されず、日清戦争で日本が東シナの制海権をにぎってから、1895年1月になって、やっと審議され、久場島・魚釣島について取り締まりの必要から沖縄県の所轄と認めて標杭 (国標) の建設を許可した (注5) (注6) 。ところが、沖縄県知事は国標を建設しなかった (注7) 。下関での日清戦争の講和交渉で、台湾の附属島嶼が清朝中国から日本への割譲の見込みを伝え聞き、絶海の孤島のため国標建設は面倒な仕事 (注8) であったため建設を先延ばしにしたためと思われる。その後、台湾の附属島嶼の割譲を定めた日清講和条約が締結・発効したため、尖閣諸島は台湾の附属島嶼として割譲の対象になったと考え標杭 (国標) 建設をしなかったのであろう。それどころか、疑えば、数十年前にほぼ正確な緯度・経度・最高地点の標高を測量をし上陸調査した英国が無主地先占を主張してきた場合は清朝中国からの割譲を主張するため、無主地先占の証拠となる国標建設を意図的にしなかった疑いもある。
また、通常の無主地先占では国標の建設は要件ではない (注9) 。しかし、尖閣諸島の場合には、閣議で標杭 (国標) の建設を認められたにもかかわらず、当時の沖縄県知事が建設しなかった事は、単に当時の沖縄県知事が日清講和条約で割譲された台湾の附属島嶼と認識していた事を示すだけでなく、閣議の標題が「標杭建設ニ関スル件」であるため標杭が建設という事実行為があって初めて無主地先占が成立するのであって、標杭が建設されなかった事から無主地先占が不成立と考えるべきである。
その後、第二次世界大戦後にECAFEの海底資源調査によって尖閣諸島近海で石油の埋蔵が確認されてから、やっと石垣市が標杭建設し、占領下の琉球政府 (現・沖縄県) も警告板を設置した (注8) のである。日本領論者はECAFEの海底資源調査によって石油の埋蔵が確認されてから中国政府 (台北政府を含む) が領有主張を始めたとするが、実は、石油の埋蔵が確認されてから70年以上も放置していた標杭や警告板を建設したのは沖縄側だったのである。しかし、第二次世界大戦の敗戦で1895年の秘密閣議の標杭 (国標) 建設許可は無効になっており占領下の地方自治体には無主地を先占する国際法上の権能は無い。
2016年10月21日
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井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊)http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
田中邦貴氏ホームページ [ 尖閣諸島問題 ] における「日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) 」のページ
注釈:
(注1) 田中邦貴氏ホームページ [ 尖閣諸島問題 ] における「日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) 」のページ
(注2) 国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 [ 沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月 ]
(レファレンスコード:B03041152300 ; 請求番号:1-4-1-7_001(外務省外交史料館)
(注3) 田中邦貴氏ホームページ [ 尖閣諸島問題 ] における [ 笹森儀助著 南島探験 in 1893 ] の項目
(注4) 国立公文書館・アジア歴史資料センター公開資料 (レファレンスコード:B03041152300)
[ 沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月 ] のjpg画像31枚目の
[ 明治26年11月2日付けの 奈良原繁・ 沖縄県知事から内務大臣・外務大臣宛の上申書 ] 参照。
(注5) 田中邦貴氏ホームページ [ 尖閣諸島問題 ] における「日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) 」のページ
(注6) 国立公文書館・アジア歴史資料センター・公開資料 (レファレンスコード:A01200793600)・(所蔵館における請求番号:類00715100・国立公文書館 )
[ 沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス ] (注意:資料の標題に「標杭ヲ建設ス」とあるが実際には建設されていない。標題に騙されないよう要注意!!)
(注7) 井上清 著・『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』 (現代評論社・1972年発行及び第三書館・1996年再刊)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
> のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。
>日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。
>標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。
>すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、
>この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、
>長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から
>「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、
>下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。
>これも法的には日本国家の行為ではない。
>
>(註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。
ここまで指摘されて、日本政府も日本領論者も40年以上反論できないでいる。
(注8) 尖閣諸島資料ポータルサイトの「尖閣列島写真集」
(注9) クリッパートン島事件で勝訴したフランスは国旗も残さず国標も建設もしていない。