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「和平島」という別名の由来についての私の推理
田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 日本の実効支配 (古賀辰四郎の実効支配) ]のページによれば、日本は1870年代前半には釣魚島(日本名・魚釣島)に関する知識を二つの書籍(地図を含む)から得ていた事がわかります。一つは清朝中国の琉球冊封副使・徐葆光 (注1) の18世紀前半の著書の『中山伝信録』で、他の一つは英国海軍調査船サマラン号艦長のEdward Belcherの著書『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』 (注2) もしくはそれを基にした海図で、釣魚島(日本名・魚釣島)が「Hoa-pin-san」、黄尾嶼が「Tia-usu」と中国語の発音を基にしたような表記になっていました。
そこで、『中山伝信録』の漢字表記とEdward Belcherのアルファベット表記のズレが謎となったのです。それが、以下で述べるように、「和平島」という1880年代前半に日本海軍等が使った(誤解が原因と考えられる)別名の登場の原因となったと私は推理しています。ただし、民間人の中には1910年まで「和平島」という(誤解が原因と考えられる)別名を使う者もいたようです。
冊封副使・徐葆光の18世紀前半の著書の『中山伝信録』では台湾北部の鶏籠(現在の基隆市)付近の島である鶏籠山 (注3) から琉球王国の久米島への航路で目標にされた島は、「鶏籠山→花瓶嶼 (注4) →彭佳山 (注5) →釣魚台 (注6) →黄尾嶼 (注7) →赤尾嶼 (注8) →姑米島 (注9) 」となっていました。「Hoa-pin-san」は「花瓶嶼」の発音を示す可能性が高く、「Tia-usu」は他の冊封使が使用した「釣魚嶼」の発音を意味する可能性があったからです。しかし、「釣魚台」は「花瓶嶼」と二つも順番が違ったので、1880年代前半に中国語由来と思われるアルファベット表記の「Hoa-pin-san」に中国語の発音に近い「和平山」の漢字を当てて記載する書籍や地図が出現したと私は推理しています。
その後、1885年に、無主地先占担当の沖縄県職員・石澤兵吾は琉球王国時代に釣魚島を間近で観察した大城永保の取調べ及び釣魚島への渡航・上陸調査によって「魚釣島」を英国の海図の「Hoa Pin su」、『中山伝信録』中の「釣魚台」と同定しました。(田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の記事[ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] [ 石澤兵吾 『魚釣島外二島巡視取調概略』 ]参照。) それによって、別名「和平島」は誤解による別名と判明したのです。
尚、島の順序が二つもズレたのは、サマラン号艦長のEdward Belcherが八重山(石垣島)の水先案内人達が「Hoa-pin-san」の事を知らなかった事によりサマラン号艦長のEdward Belcherが間違えたのが直接の原因ですが、実はEdward Belcherの持っていた海図の「Hoa-pin-san」の位置が誤っていた可能性が高かったのです。というのは、冊封副使・徐葆光の旅行記(『中山伝信録』)を参考にしたはずのGaubil神父 (注10) (注11) の地図の航路で「花瓶嶼 →彭佳山」の部分が逆の順序「彭佳山 →花瓶嶼」になっていて、さらに、フランス海軍調査隊のラペルーズ (注12) が釣魚島を「Hoapinsu」、黄尾嶼を「Tiaoyu-su」とした事が『中山伝信録』の針路図から二つズレた本当の原因です。
上の針路図中の「鶏籠山→花瓶嶼 →彭佳山→釣魚台」部分を拡大した画像を下に示します。
内務省地理局が発刊した『大日本府県管轄図』の「薩摩諸島並沖縄県図」には、尖閣諸島が記載されていて、魚釣島は花瓶島となっています。
田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の[ 寰瀛水路誌 第一巻下 明治19年 ]参照。
(注1) 冊封副使・徐葆光は琉球に行ったが、予定の航路より北に流されたため予定の航路なら見れるはずの「鶏籠山→花瓶嶼 →彭佳山 →釣魚台 →黄尾嶼 →赤尾嶼 →姑米島」は一つも見ていない。彼は過去の冊封使の記録から針路図を作成したと考えられる。
(注2) 『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』 (p.315-320参照)
archive.org でダウンロードできるようである。
https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala
また、釣魚島(日本名・魚釣島)関連部分は田中邦貴氏のホームページ[ 尖閣諸島問題 ]の記事[ Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46 ]にコピーがある。
(注3) 王朝時代の中国人や琉球人は島を「山」と表記する事があり、徐葆光の鶏籠山は現在の基隆嶼を意味した可能性が高いと考えられる。
(注4) 「花瓶嶼」は北緯25°25′39.37″、東経 121°56′27.71″の岩島で台湾省基隆市が管轄する。
(注5) 「彭佳山」の現在の名称は「彭佳嶼」で、北緯25°37′46″、東経122°04′17″の玄武岩質の比較的平坦な火山島である。
(注6) 「釣魚台」は中国名「釣魚島」・日本名「魚釣島」で、北緯25°44′33″、東経 123°28′17″の島である。琉球の進貢船(朝貢船)に乗った経験のある旧・琉球王国の役人だった大城永保は沖縄県庁に差し出した書面で「魚釣島」に「ヨコン」とフリガナを打っていたそうである。
(注7) 「黄尾嶼」は北緯25°55′24″、東経123°40′51"の玄武岩質の比較的平坦な火山島で、日本名「久場島」はバが生えている事に由来する。
(注8) 「赤尾嶼」は北緯25°55′21″、東経 124°33′36″の岩島で現在の日本名は「大正島」である。
(注9) 「姑米島」は沖縄県の「久米島」で北緯26°20′、東経126°48′の島である。
(注10) "Letteres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中の"Mémoire sur les îles de Lieou-kieou " (p.520-)
日本語訳は、『イエズス会中国人書簡集5』中の『シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書』
下図は上記の原著の付録地図。( Yasuko D’Hulst著『19世紀、琉球王国に関するフランスの海軍・宣教・外交史料』 より引用した。)
上掲の活字版付録地図の元になったと思われる手書きの地図↓
ちなみに徐葆光の針路図をヨーロッパに紹介したGaubil神父の「Ki-long-chan」は要塞があったとしているので現在の基隆港出入り口にある和平島を意味したと考えられる。
清朝中期まで現在の基隆港出入り口付近の和平島も鶏籠山と呼ばれる事があり混乱を招いていたので清朝末期に「社寮島」と改名された。下記サイト記事参照。
http://kite.biodiv.tw/kite/bear/070125.htm
(注11) 実は冊封使の記録でも『使琉球録』(夏子陽 著)もGaubil神父と同様に順序を逆にして彭佳山を先にし花瓶嶼を後にしている。
(注12) "Voyage autour du monde de Lapérouse"(p.382-383)
原著は、archive.org でダウンロードできるようである。
https://archive.org/details/voyagedelaprou002lap
日本語訳は『ラペルーズ世界周航記』(小林忠雄 編訳)白水社
2016年8月23日