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釣魚嶼 (魚釣島) 発見者は中国人と考えられる
中国の唐代より前の貨幣である五銖銭が沖縄本島のみならず久米島でも出土した事は唐王朝成立前から中国の民間交易船が沖縄本島や久米島に来ていた証拠と考えられる。また、7世紀前半から10世紀半ばまで流通したとされる唐銭「開元通宝」が沖縄本島のみならず石垣島等の八重山諸島から出土した事は10世紀末までに中国の民間交易船が石垣島等の八重山諸島にも来ていた来ていた証拠と考えられる。その場合、中国の民間交易船が釣魚嶼 (魚釣島) を発見した可能性が高い。 私の別記事 [ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚島発見を示唆する ] 参照。 ) また、一旦発見すると以後は航海の目標にされ、標高の低い近隣の黄尾嶼 (久場島) や赤尾嶼 (大正島) も発見された可能性が高い。
さらに、鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」によれば、16世紀半ばには釣魚嶼 (魚釣島) に民間人が住んでいた事がわかる。( 私の別記事 [ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す (標準版) ] 参照。 )
また、「釣魚嶼」の日本名が「魚釣島」と「釣魚」の「釣」という字と「魚」という字が逆転してるのは中国語と日本語の文法の違いによるものであって、沖縄の言葉も日本語の方言である以上は基本文法が同じはずだから、「釣魚嶼」は中国名である。更に、「釣魚嶼 (魚釣島) 」・「黄尾嶼 (久場島) 」・「赤尾嶼 (大正島) 」の名称中の島を意味する「嶼」という字は内地の島の名前みならず沖縄本来の島の名前にも無い表現である。これは中国人が発見したと考えうる大きな証拠である。そして、この表記には18世紀末まで琉球側は抗議しておらず、ただ、「黄尾嶼」と「赤尾嶼」を独自に同定できなくなっていた清朝最後の二回の冊封使に「黄尾嶼」を「久場島」、「赤尾嶼」を「久米赤島」と琉球名で教え込んでいたと考えられる。(鞠徳元教授の『日本国窃土源流-釣魚列島主権辨』 参照。)
さらに、冊封使・郭汝霖が著書・『使琉球錄』で「焉赤嶼者界琉球地方山也」 (赤嶼は琉球地方を界する島である) とした事について異議を唱えず琉球王国の正史『中山世鑑』に転記している。また、その後、冊封使・汪楫が著書・『使琉球雜錄』で赤尾嶼沖を「中外の界」と記述した事にも異議を唱えていない。
尖閣日本領論者の日本人の中には琉球人が発見した島を中国人が中国名をつけて横取りしたかのごとき被害妄想にとりつかれている人がいるようであるが、明朝中国は下賜品を気前良く琉球側に与えており当時は排他的経済水域も無く経済価値の低い無人島を横取りするようなセコイ事をするはずがない。
よって、釣魚嶼 (魚釣島) ・ 黄尾嶼 (久場島) ・赤尾嶼 (大正島) は中国人が発見したと考えられる。
2016年10月4日
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