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内閣文庫版『皇明実録』の薩摩藩琉球併合恩赦記述について
問題の所在:
石井望・長崎純心大學准教授のブログ記事・『西暦1609年薩摩が琉球を併合 西暦1617年明國は併合に同意 』 によれば、國立公文書館の内閣文庫にのこる寫本『皇明實録』(中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條で、福建の海防担当役人の韓仲雍が日本の使者の明石道友に対して、「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、亦皆吾天朝赦前事。當自向彼國議之。」〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役屬するは、また皆な吾が天朝(明國)の赦前の事なり。まさにみづから彼の國(琉球)に向かひてこれを議すべし〕との記述があるので、明朝中国は薩摩藩による琉球併合を容認したと主張し、明朝の後の清朝も国際法上拘束されると主張する。 |
要追加調査事項:
『皇明實録』は明朝の皇帝ごとの『実録』からなる一連の文献であり、当該1617年(明王朝の暦では萬歴45年)は神宗帝 (萬歴帝) 時代なので、『神宗實錄』となる。ところが、私が「中國哲學書電子化計劃」サイトで『明神宗顯皇帝實錄』を調べた限りでは、当該記述は発見できなかった。原本または尖閣諸島領有問題発生前の1968年以前に復刻された版の『皇明實録』で当該記述が存在するか確認すべきである。なぜなら、桃山時代 (豊臣秀吉が天下人だった時代) や江戸時代初期には小西行長や対馬の大名の宗氏による国書改竄が横行しており、徳川幕府の書籍を受け継いだ内閣文庫 (注1) には徳川幕府にとって不都合な内容の外国書籍が改竄されている可能性が排除できないからである。
尚、以下においては、『皇明實録』原本に薩摩藩による琉球併合を恩赦したとする記述が存在すると仮定した上で考察する。
政府承継した後継政府が拘束されない理由:
石井望氏は清が明の承継国とされているが、清王朝は万里の長城外の民族による外来王朝であるものの中国歴代王朝と考えられ国家承継でなく政府承継と考えるべきなので、以下において明王朝を政府承継した中国の後継政府が国際法上拘束されるか否かを考察する。
政府承継した後継政府が拘束されない理由 (1) :
明石道友は外交上の権限が貿易に限定されいた長崎代官が派遣した使者で貴族でも大名でも旗本でもなく日本を外交上代表する権限は無く、明朝中国側の取調官の韓仲雍も地方役人で明朝中国の外交上の代表権はなかった。また、『皇明實録』は明朝時代は非公開 (注2) で対外的宣言でないのは明白である。しかも、内閣文庫版『皇明實録』における当該記述は明石道友が領海侵犯容疑で逮捕され取調べ中の会話であって外交交渉の会話でないのは明白である。
政府承継した後継政府が拘束されない理由 (2) :
軍事的に可能ならば琉球王国を薩摩藩から奪回したいのが明朝中国の本心であり、それは容易に推察でき、石井望氏も「しかし併合同意を告げた一語が朝野の批判を浴びることは無かった。なぜなら根本問題として琉球に援軍を送ることが不可能だったからである。」として軍事上困難だった理由を挙げている。これは法律上「心裡留保」として無効原因となりうる。
政府承継した後継政府が拘束されない理由 (3) :
薩摩藩が琉球王国に少数の武士しか駐留させず隠れ支配をし、琉球王国も冊封使到着前に狼煙によって事前隠蔽をしたため、清朝中国は薩摩藩の隠れ支配に気付かなかった。
政府承継した後継政府が拘束されない理由 (4) :
日本は第二次世界大戦の敗北でポツダム宣言を受諾し、カイロ宣言の条項の履行を約したため、武力で中国から強奪した土地の返還義務が日本にある。(外務省による「カイロ宣言」日本語訳は清以降に限定されているが、英語・中国語正文ではそのような限定表記は無い。)
2018年12月3日
(注1) wikipedia「内閣文庫」(2017年9月9日版) 参照。