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なぜ清朝中国領全土地図 (皇輿全覽圖) に釣魚嶼が描かれて無いのか?
問題の所在: 清朝中国の第四代皇帝である康熙帝 (注1) は清朝中国領全土について緯線・(基準とする北京を経度0度とする本初子午線による)経線が二分の一度 (0.5度) 間隔で描かれた近代的実測図である『皇與全覧図』 ( 『皇與全覧分省図』 も含む)をヨーロッパから中国にキリスト教の布教に来たイエズス会神父らに作成させた。時代的に日本の伊能忠敬の日本地図 (大日本沿海輿地全図) 作成より約百年前である事を考えれば18世紀初頭としては非常に優秀な地図である事は一目瞭然である。 しかし、その『皇與全覧図』には釣魚嶼 (魚釣島) は描かれていない。これに対して、拓殖大学の下條正男教授が尖閣諸島が描かれてない事をもって尖閣諸島が清朝中国領でなかったと主張している (注2) 。 この下條正男教授の指摘は非常に重要な問題を含んでいる。 まず、第二次大戦後の中国側の地図等が尖閣諸島を日本領のようにしていた事は「錯誤(勘違い)」であり、その錯誤の原因の一部は日本とフランスによって引き起こされたため「錯誤無効」の主張が可能であるが、『皇與全覧図』の場合は清朝中国皇帝である康熙帝による国家プロジェクトで清朝中国全土の近代的実測図として作成された地図だから「錯誤無効」の主張が困難だからである。しかも、釣魚嶼 (魚釣島) より小さな中国本土沿岸の島も『皇與全覧図』に描かれている。 更に、『皇與全覧図』には台湾本島の東半分も描かれていない。そして、『皇與全覧図』の台湾部分を測量したイエズス会宣教師のド・マイヤー神父がフランス本国のイエズス会に送った書簡に台湾の東半分が中国領で無い事が明記されている (注3) 。そのため、『皇與全覧図』に釣魚嶼 (魚釣島) が描かれていない事は台湾本島東部と同様に中国領でない事を意味している疑いが生じる。
それゆえ、なぜ、『皇與全覧図』に釣魚嶼 (魚釣島) が描かれていないのかが、尖閣諸島領有問題において重要な問題となるのである。 |
私の見解: 『皇與全覧図』に釣魚嶼 (魚釣島) が描かれていない最大の原因は、三角測量ができない荒海を隔てた絶海の孤島では当時の技術では経度の誤差が一度を越える可能性が高かった事が最大の原因と考える。『皇與全覧図』では経線が二分の一度 (0.5度) 間隔で引かれているが、誤差が一度を越えると経線で三つ以上ズレる可能性があったのである。経線で一つズレる事は許容されるが二つ以上ズレるようだと問題があり、三つ以上ズレたら二分の一度 (0.5度) 間隔で経線を引いた意味がなくなる。さらに、もし仮に経度の誤差が1度を越えると見通し距離を越え、将来に技術革新があって正確な経度測定が可能になった場合に別の島と認定されて「無主地」として先占されてしまう危険があったのである。ただし、大陸近くの廈門島・金門島は三角測量で正確な緯度・経度が測量でき、金門島から一日程度の澎湖諸島や更に半日程度の台湾本島は海が穏やかなら振り子時計が概ね正確に作動したため比較的精度の高い経度が算定可能だった。 ちなみに、経度と異なり緯度は絶海の孤島でも陸上で天文観測によって測定すれば当時でも緯度の誤差は比較的少なく、『皇與全覧図』でも重要な場所である台湾の県城の緯度の誤差は小さい。 尚、経度の誤差以外の理由としては、次の理由も考えられる。 島の大きさだけから考えれば、釣魚嶼 (魚釣島)は載せた方が望ましいし、梅花嶼 (棉花嶼)・彭佳嶼・釣魚嶼 (魚釣島)・黄尾嶼 (久場島) も載っていても不自然で無い大きさであるが、花瓶嶼は載せるには明らかに小さすぎ、鶏籠嶼(基隆嶼)や赤尾嶼(大正島)も少し小さかった。しかし、花瓶嶼・鶏籠嶼(基隆嶼)・赤尾嶼(大正島)を載せないと航路図としての価値が低い。そのため、無理に釣魚嶼 (魚釣島)を載せる必要性が低かったのも理由かもしれない。 しかも、18世紀初頭当時は八分儀・六分儀の実用化前だったので揺れる船上では緯度の測定も誤差が大きかったので、『皇輿全覽圖』に釣魚嶼 (魚釣島)を緯度だけでも正確に測定して載せるには、上陸して測定せねばならず、正確な緯度測定のためだけに大型帆船を差し向ければ多大な費用を要した事も釣魚嶼 (魚釣島)の測量を断念した理由の一つかもしれない。 尚、『皇與全覧図』完成の翌年の1719年に琉球王国に向かって出航した冊封使船には漢人と満州人の計二名の測量官が乗船していた (注4-1) (注4-2) 。 (八分儀も六分儀も無かった時代なので洋上からだと不正確な測量しかできないが、それでも海が穏やかなら少しは参考になるデータが得られた可能性はあったが) 琉球王国が派遣した水先案内人が故意または重過失により予定航路より大幅に北側を航行させたため冊封使船が予定航路より東北にズレて予定航路からはずれ釣魚嶼 (魚釣島) 等の冊封使航路列島の島は全く目撃されなかった (注5) 。琉球王国が派遣した水先案内人が釣魚嶼 (魚釣島) 等の冊封使航路列島を測量させないようにした疑いもある。なぜならば、後年、Gaubil 神父がフランス本国のイエズス会に送った琉球の地図でも沖縄本島北端の緯度の誤差が1度以上と非常に大きく (注6) 実測したとは考えられない。これは(琉球王府か薩摩藩の妨害によって)沖縄本島北端の測量をさせてもらえなかったと考えられ、また、その約百五十年ほど後には、琉球王府は冊封使航路列島北部 (尖閣諸島) を業務上横領する目的で山林担当の役人である大城永保に下見させた疑いがあり、その大城永保が明治になって本土から沖縄県に派遣された非・薩摩系役人である石澤兵吾氏に日本領編入を強く薦めたからである (注7) 。 また、『皇與全覧図』で福建省の本土沿岸の島は台湾に渡るため経由した廈門島・金門島以外は測量せずに『皇與全覧図』は作成されたと考えられ、作成したイエズス会士は島を軽視していたと考えられる事も原因と思われる。 |
上掲の地図は、The Library of Congress (アメリカ連邦議会図書館)が所蔵・公開する『皇與全覧図』の「福建図」(下記url参照)の一部に、0.5度間隔で(北京基準の)経線・緯線を青色で追加し、釣魚嶼 (魚釣島) と鶏籠城 (基隆港口の和平島) の正しい位置及び、釣魚嶼 (魚釣島)が測量誤差によって西に1.2度ズレたと仮定した場合の仮想位置を示したものである。
https://www.loc.gov/resource/g7820m.gct00265/?sp=30
18世紀初頭の経度・緯度測定技術水準について:
『皇與全覧図』が作成された18世紀初頭、陸上で正確に緯度を測定ができる四分儀(象限儀)は存在したが、揺れる船上で緯度の計測ができる八分儀 (反射四分儀) (注8) や六分儀 (注9) は存在しなかった。また、陸上や見通しの効く沿岸の島なら三角測量で間接的に正確な経度も割り出せた。
18世紀初頭、三角測量が使えない水平線下の島の経度を測定は、経度の基準(本初子午線)となる地点の時刻と現地の天文時刻の時差を利用し時差4分が経度差1度で算定する方法しかなかった。しかし、人工の時計としては海が穏やかで船の揺れが小さければ振り子時計によってなんとか一日航程で1分程度の誤差に抑えれ経度誤差を四分の一度 (0.25度) 程度にできたようであるが、海が荒れて船が大きく揺れると振り子時計は正常な動作をせず誤差が非常に大きくなって使い物にならなかった。人工の時計の代わりに天文観測によって経度の基準となる地点の時刻 (『皇與全覧図』の場合は北京時刻) を割り出す方法があったが、天文の専門家が皆既日食か月食を利用する場合のような特殊な例外を除いて、当時は長期の航海を要する荒海を隔てた絶海の孤島では経度算出誤差が一度を越える事が多かった。
そのため、『皇與全覧図』が作成されたのと同時期の1714年に英国は大西洋横断後に経度誤差が確実に1度以内になる方法を高額の賞金をかけて募集する法律「経度法」 (注10) を制定した。1735年に、その高額の懸賞金獲得を目指した英国人・ジョン・ハリソンによって外洋でも正確な時刻を刻む世界初の「クロノメーター」が作成され、その後、天文学的経度測定方法の一種で月の公転を利用する「月距法」 も精度が向上した。しかし、「クロノメーター」が量産されるようになったのは、その約半世紀以上後であり、「月距法」は今でも熟練者以外は経度誤差が一度を越えるようである (注11) 。ただし、『皇與全覧図』を作成したイエズス会士は「月距法」は利用しなかったようである (注12) 。
尚、『皇與全覧図』を作成したイエズス会士が台湾の測量を行った期間は1714年4月18日から5月20日までであり (注13-1) (注13-2) 、1714年の月食は1714年11月21日の皆既月食 (注14) だけなので台湾の経度算出には月食は利用していない。
重要参考書籍:
デーヴァ・ソベル 著・『経度への挑戦』 (藤井留美 訳)・角川文庫
重要参考サイト:
wikipedia「経度の歴史」
https://ja.wikipedia.org/wiki/経度の歴史
wikipedia「経度法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/経度法
[ 八分儀 ]
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/navigation/octant.htm
付記:
『皇輿全覽圖』の島をGoogle mapと照合して比定を試みたが、島の名称が変わっている島が多いだけでなく島の形状や位置も異なり日本人の私には比定が困難な島が大半である。『皇輿全覽圖』は18世紀初頭に作成されているので作成から現在まで約300年経過しており、島の形が堆積や侵食で変わっている島もあるだろうが、そもそも実際に測量されていない島が多いように思えた。福建省図(当時は台湾本島や澎湖諸島も福建省に属していた)で、測量担当したイエズス会宣教師のド・マイヤー神父の書簡 (注15) から澎湖諸島と台湾本島西部は実際に測量された事が記述からわかる。そして、廈門島の緯度や形状の精度は当時としては高いので三角測量による実測及び天文観測をしたと考えられるが、廈門島から経由して寄港したはずの金門島でさえも形状がデタラメなのである。さらに、「東沙」は「白犬洋」の南東なのに南西に描かれている。それ以外の福建省(当時)の島で実際に測量された可能性が高いのは、経由した廈門島・金門島と緯度と形状から小琉球 (琉球嶼) だけと思われる。
『皇輿全覽圖』には金門島の東にある北碇島が北碇嶼が描かれている。これは大きさが赤尾嶼 (大正島) と同程度である。ただし、逆に赤尾嶼 (大正島)より大きな島が多く欠落してる可能性が高い。もしかしたら、釣魚嶼 (魚釣島)より大きな島が欠落している可能性もある。
2016年11月25日
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(注2) 2015年9月29日付け・産経ニュース記事・[ 中国の尖閣領有権主張、また崩れる 17世紀作製の「皇輿全覧図」に記載なし ] 参照
http://www.sankei.com/politics/news/150928/plt1509280003-n1.html
(注3) 『イエズス会士中国書簡集 5 (紀行編) 』(原著『Lettres édifiantes et curieuses,écrites des missions étrangères 』)・矢沢利彦 編訳・平凡社 (東洋文庫 251 ) 1974年初版第一刷・1987年1月20日初版第2刷発行・p.185 参照。
(注4-1) 徐葆光 著『中山伝信録』(巻四)・「星野」参照。下記はwikisourceの徐葆光 著『中山伝信録』(巻四)のurl。
https://zh.wikisource.org/wiki/中山傳信錄/卷四
>上特遣内廷八品官平安、監生豐盛額同往測量。
(注4-2) 夫馬進 編・岩井茂樹 著・『増訂 使琉球録解題及び研究』・榕樹書林・1999年9月15日発行・[ 徐葆光撰『中山伝信録』解題 ]参照
(注5) 原田禹雄 著『尖閣諸島 - 冊封琉球使録を読む』p.84参照。(尚、明朝中期の1534年以降は、琉球から派遣された水先案内人が冊封使船の航路を決めていた。)
(注6) "Letteres édifiantes et curieuses, écrited des Missions Étrangères"中の"Mémoire sur les îles de Lieou-kieou " 付録地図参照。
(下図は Yasuko D’Hulst著『19世紀、琉球王国に関するフランスの海軍・宣教・外交史料』 より引用。)
沖縄本島北端が北緯28度近くに表示されている。
尚、上掲の活字版の地図の基になった下掲のGaubil神父手書きの地図『Carte des Isles de Liéou-Kiéou』はフランス国立図書館蔵・電子図書館Gallicaが展示しているが緯度の表示は本文と紛らわしく注意しないと識別できない。
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8494431q.r=gaubil.langFR
(注7) ( 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。 )
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/teikokuhanto/1885-09-21ishizawa.html
>見一回は其南方航海の節、帆船の順風を失したるを以て六時間程寄港したれは本船の傳馬に乗し極て岸に接近した
大城永保は「風待ちで釣魚嶼 (魚釣島) 近くで停泊し、その間に伝馬船 (ボート) に乗り移って岸に接近した」旨を述べるが、通常の乗客なら風待ち中に伝馬船 (ボート) に乗って島に接近する事は許されない。なぜなら、いつ順風が吹くかもしれないからである。また、本来ならば暗礁の多い釣魚嶼 (魚釣島) 近くで停泊しない。その事を考えると山林担当の役人である大城永保は琉球王府の命によって釣魚嶼 (魚釣島)の利用価値を見積もりに派遣されたと考えるべきであろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八分儀
https://ja.wikipedia.org/wiki/六分儀
https://ja.wikipedia.org/wiki/経度法
(注11) 海上保安大学の平成24年度の練習船「こじま」の遠洋航海実習では、延べ6回の月距法の実習で経度誤差1度未満だったのは一度もなく、9度以上の誤差の測定結果すらあった。
田中隆弘・小林拓司・島村圭一著・『月距法による時刻推定 - 間接測定による方法の実海域での検証 - 』(海保大研究報告 第56巻 第1 ・ 2号 合併号.) 参照。
harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/jcga/file/12089/20150819152924/56-1-78-2.pdf
(注12) 白鸿叶, 李孝聪 著・『康熙朝《皇舆全览图》 (中国珍贵典籍史话丛书)』(中華人民共和国)国家圖書館出版社・2014年発行・p.29 参照。(ただし、この書籍はイエズス会士が月食を利用したとするが、測量範囲中で最も天文学的経度測定が必要な台湾の経度測定に測量期間中に月食が無く、月食が利用されてないので、この書籍の記述は信頼性が低い。)
(注13-1) (台湾)中央研究院人社中心 地理資訊科學研究專題中心ホームページ記事『清朝三大實測地圖中的台灣』参照。
http://gis.rchss.sinica.edu.tw/mapdap/?p=2874&lang=zh-tw
>期間康熙53年(1714年)雷孝思(J.B.Regis)、馮秉正(Jos.de Mailla)、德瑪諾(R.Hinderer)三位神父被派到台灣來測繪,
>自4月18日至5月20日,共計有33日完成了「皇輿全覽圖」的台灣部份測繪。
(注13-2) 國史館臺灣文獻館各期電子報・第134期 記事・何孟侯 著『104年臺灣文獻講座「虛實之間:談古地圖中的臺灣歷史」演講內容』参照。
http://w3.th.gov.tw/epaper/view2.php?ID=134&AID=1922
>此套圖名為《皇輿全覽圖》,計總圖1幅、分省32幅。
>其中在1714年,耶穌會士馮秉正(De Mailla)等3人於4月18至5月20日計33天,
>前赴臺灣實測,完成臺灣西部由南而北之測量。
(注14) 北海道大学情報基盤センター北館ホームページの「日食・月食・星食情報データベース」による。
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/
(注15) 『イエズス会士中国書簡集 5 (紀行編) 』(原著『Lettres édifiantes et curieuses,écrites des missions étrangères 』)・矢沢利彦 編訳・平凡社 (東洋文庫 251 ) 1974年初版第一刷・1987年1月20日初版第2刷発行・p.178-p.214参照。