(注意)これは、閲覧用ではありません。これは、過去記事保存資料用です。最新版を御覧ください


  鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す (詳細版)

 

 

    16世紀に倭寇に苦しんでいた明朝中国は民間人の鄭舜功を使者として日本に派遣し、日本に関する知識を集めさせた。その成果が、 鄭舜功著『日本一鑑』 (注1) にまとめられており、その『日本一鑑』の「萬里長歌」中の「或自梅花東山麓鶏籠上開釣魚目」の段落で鄭舜功は釣魚嶼 (魚釣島) に関する記述もしている。その部分では多数のサメの種類が記されている (注2) 。そこで、私が釣魚嶼に関する部分の解読と分析を試みたところ、16世紀半ばに、明朝中国は釣魚嶼に漁業巡視 (注3-1) (注3-2) をし、釣魚嶼に漢人と考えられる人 (注4) が住んでいた事が判明した。 以下に解説する。


[ 解説 ]

[ 原文 ]

或自梅花東山麓鶏籠上開釣魚目 梅花所名約去永寧八十

里自所東山外用乙辰縫鍼或辰巽縫鍼約至十更取小東島之鶏籠

山自山南風用卯乙縫鍼西南風正卯鍼或正乙鍼約至十更取釣魚

嶼自嶼遠近多巨鯋長約十数尺見風帆影逆於波上夜則躍両有光

按海鯋魚族類頗多因訪魚漁略言知者曰珠鯋曰鋸鯋曰刺鯋曰虎

鯋曰青鯋曰了髻鯋曰犁頭鯋曰狗頭鯋曰和尚鯋曰白蒲鯋曰吹鯋

螺者鳴則風雨大作嘗食魚害人又虎鯋者有化為虎啖島人畜其餘

不盡聞也

[ 私の日本語訳  ]

或いは (福建省福州郊外の) 梅花所東方沖の島の沖から鶏籠山 (台湾北部基隆港沖の基隆嶼) 沖を経て釣魚嶼沖を目指す航路について

梅花所 (福建省福州沿岸の現・梅花鎮) は永寧衛 (泉州沿岸の現・石狮市永寧鎮) より約150km(原文では約45km)離れている。その梅花所の東の島の沖から外海 (台湾海峡) に出て、乙辰針か或いは辰巽針に舵を切って約十更 (注5) で小東 (台湾) の鶏籠山 (現・基隆港沖の島) から南風で卯乙針か西南風で卯針或いは乙針に舵を切って釣魚嶼を目指す。

釣魚嶼 (魚釣島) 付近には大きなサメが多く、長さは約4mほどで、帆影を見ると逆に海面に出てきて、夜は踊るように泳いで両目が光る。

   サメの類が非常に多いことについて、漁業の巡視 (注3-1) (注3-2) (注3-3) 釣魚嶼 (魚釣島) を訪れた事により事情を知る者の弁によれば、「珠鯋」・「鋸鯋」・「刺鯋」・「虎鯋」・「青鯋」・「了髻鯋」・「犁頭鯋」・「狗頭鯋」・「和尚鯋」・「白蒲鯋」・「吹鯋 (クジラ・シャチ・イルカの類) 」がいるとの事であった。 「吹鯋 」は法螺貝を鳴らすような大音響で雨風のように大きく潮吹き (注6) をし、魚を食べ人に危害 (注7) を加える。また、虎鯋は虎 (注4) のように島の人や家畜を食べる。これ以上の話は全く聞いてない。

 

[ 解釈のポイント ]

(1) 王朝時代の中国や琉球では「島」を「山」と表記する事があった。そのため、「梅花東山麓」とは梅花所 (福建省福州沿岸の現・梅花鎮) の東方沖の島の沖合いという意味と考えられる。具体的には「東沙山 (現・東莒島) 」の沖合いか「東湧 (現・東引島) 」の沖合いかのいずれかを指すと考えられる。

 

(2) 「因訪魚漁略言知者」での「畧」 ( 略 ) は「巡行・巡視」を意味すると考えられる (注3-1) (注3-2) (注3-3) 。この部分の大友信一氏と刘震宇氏 による日本語訳 (注8) は「略」も「因」も訳していない欠陥がある。

 

(3) 「因訪魚漁略言知者」以下は釣魚嶼に漁業の巡視に行った官吏からの伝聞と考えられ、「虎鯋者有化為虎啖島人畜」の部分は更に釣魚嶼島民からの伝聞の伝聞と考えられる。しかし、巡視に行った官吏からの伝聞であっても釣魚嶼にサメの類が多い事は事実である (注9) (注10) から、明朝中国の官吏が漁業の巡視に行って多くの種類のサメを見た事は、たとえ伝聞であっても信頼できる。しかし、釣魚嶼島民からの伝聞の伝聞と考えられる「虎鯋者有化為虎」 ( 虎鯋は虎になって ) の部分は非科学的表現なので「虎鯋は虎のように」と読み替えるのが適当と思われる。

 

(4) 当時の人の多くがクジラを魚の一種と考えていた事を考慮すると、「吹鯋」の直後の句「螺者鳴則風雨大作」は、「吹鯋」の説明で (クジラ類の) 潮吹きを意味し、「吹鯋」はサメでなくクジラ・シャチ・イルカの類と考えられる。

 

(5) 「啖島人畜」 とある事から、明朝中期の一時期には釣魚嶼 ( 魚釣島 ) に人が住んでいた事がわかる。

 

(6) この段落の前の段落によれば、鄭舜功は琉球王国を経由しない鶏籠山 (現・基隆港沖の島) から七島 (現在の鹿児島県のトカラ列島) への直行便に乗船したとある。段落のタイトルに「或」とあるのは実際には選ばなかった別の航路の説明をしているためである。ところが、鄭舜功は選ばなかったはずの琉球王国経由の航路にある釣魚嶼付近でサメを目撃した事を述べている。実は、これは矛盾しない。なぜなら、直行便でも釣魚嶼の西側 50km 以内を通過した可能性が高く釣魚嶼が見れた可能性もあるからである。 下の見通し距離の見積もりで示すように、晴れた日中なら釣魚嶼の65km以内を通過すれば釣魚嶼を見れたはずだからである。 

見通し距離は、光が大気によって若干曲がるため単純に三平方の定理で計算するよりも遠方まで見通せる。上空ほど大気の密度が低い事によって光が下方に曲がる「大気差」という現象を考慮した CASIOの「高精度計算サイト で見通し距離をで計算すると、標高362mの釣魚嶼(魚釣島)最高点の見通し距離は約72km程度で船の乗客の目の高さを海上7mと仮定すると見通し距離は約10km程度になり、合計は82kmになる。ただし、これは波が全く無く非常に高性能な望遠鏡が利用できる場合の見通し距離であって、実際には海には波があり、16世紀半ばには望遠鏡は存在しなかった。そのため、肉眼での現実的な見通し距離を65km程度と推定した。

 

[ 『日本一鑑』の版本について ]

 

  尚、鄭舜功著『日本一鑑』の王朝時代の版で現存するのは一組のみである可能性があり (注11) 、図書館やインターネット上で一般人が閲覧できるのは、王朝時代の版の影印本の更にその影印か、日本人による手書きの写本の写本の謄写本の画像のみのようである。下に、王朝時代の版の影印本の更にその影印の画像を示す。尚、日本政府が沖縄県知事に国標の設置を許可した1895年には日本政府は『日本一鑑』を保有していなかった可能性が高く、内容も知らなかった可能性が高い。

   

画像をクリックすると拡大版を表示できます。

   上掲の画像は中華民国時代に日本軍占領下の北京の古書肆・文殿閣が刊行した影印本を、更に1996年に日本で影印した書籍『日本一鑑の總合的研究 本文編』 (木村晟 編輯) からの引用である。

 

     尚、日本人による写本の写本の謄写本 (注11) と思われるものが田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 鄭舜功著 日本一鑑 ] の項目で展示されている。領有権問題発生前の昭和12年刊と考えられるので、領有権問題発生後に発行された上掲の版が信用できない方は照合されたい。

 

[ 補足 ]

  中国人漁民が住んでいただけでは国家による実効支配とはならないが、官憲が「略地 (巡視邊境) 」 (注3-3)  していたので明朝中期には中国の実効支配があった事がわかる。これにより、釣魚嶼は、16世紀半ばには明朝中国の領土となっていた事がわかる。ただし、1808年に琉球王国に冊封に赴いた冊封使の齊鯤の歌集 『東瀛百詠』中の『航海八咏』の「釣魚臺」の説明で、「釣鼇人已往」とあり1808年より前には釣魚臺にウミガメ獲りの人がいたが1808年には既に居なくなったとしていたようである (注12-1) 。また、英国の調査船サマラン号のベルチャー船長によって1845年には無人島だった事が確認されている (注12-2)


2016年9月16日

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) wikipedia「日本一鑑」 参照。

 

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(注2)  國吉まこも氏 (沖縄大学地域研究所特別研究員) は『地域フォーラム (vol.40) 』の [ 尖閣諸島の琉球名と中国名のメモ ] (p.12) で、鄭舜功著『日本一鑑』での釣魚嶼 (魚釣島) に関する記述部分に関して、

http://forum.sitemix.jp/forumpdf/vol40.pdf

>※2:鄭舜功『日本一鑑』は、極めて興味深い。なぜなら福州から琉球、

>そして日本に至るまでの針路を記している中で、『釣魚嶼』について特に、

>島の周囲には“巨大な長さ4m弱のサメ?(魚編に沙)族”が多く見られると、

>具体的な島の状況を記しているからである。

 

と指摘されている。私も『日本一鑑』の釣魚嶼 (魚釣島) に関する部分の多数のサメの種類についての言及に興味を持った。

 

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(注3-1) 「畧 ( 略 ) 」について、以下に示す『詳解漢和大字典』参照。

 

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(注3-2) 一把刀實用查詢大全(網上實用資訊百科全書)の「略」の下記の解説参照。

http://tw.18dao.net/漢語詞典/略

> (4) 巡視;巡行[makeaninspectiontour]

>公曰:“吾將略地焉。”――《左傳·隱公五年》

 

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(注3-3) [ 查查漢語綫上辭典 ] での「略地」項目参照。

http://tw.ichacha.net/hy/略地.html

>1.  巡視邊境。

 

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(注4) 「虎鯋者有化為虎啖島人畜」 ( 「虎鯋」 は虎になって島の人間や家畜を食べる ) という表現は非科学的ではあるが、当時、トラの亜種のアモイトラ ( 華南トラ ) が福建省に相当数生息していてトラについて危険な動物であるという強烈な印象を持っていた福建省の漢人漁民の可能性が高い。

ちなみに、台湾北部の鶏籠 (現・基隆市) の先住民ケタガラン族はトラを知らず、琉球人の知識人は漢籍から「虎」の語は知っていたが琉球漁民はトラを知らなかった可能性が高いし、仮に聞いた事があっても身近な存在ではなかったので「虎鯋者有化為虎」などという表現は出て来ないし中国語で表現できないからである。

 

尚、トラの亜種のアモイトラ ( 華南トラ ) については、下記のWWFジャパンの記事参照。

http://www.wwf.or.jp/activities/2009/01/605313.html

>華南に生息するアモイトラについては、1990年の調査で足跡や掻き傷などが湖南、広東、江西、福建省の11カ所の保護区で見つかりましたが、

>湖南省の虎 坪山と武夷山を別にすると、手つかずの森林や草原地で400平方キロ以上のまとまった広さを持つ生息地は、この時点ですでに残っていませんでした。

>この 時、アモイトラは20~30頭ほど生き残っていると推定されましたが、その後、確実な記録は無く、野生の個体は絶滅した可能性が高いとみられています。

 

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(注5) 明朝・清朝朝時代の航行距離の単位。「更」とは本来は (夜間用の) 時間の長さの単位で約2時間だが、釣魚嶼の解説の前の前の段落での鄭舜功の説明によれば、それを帆船の航行距離を計る単位に流用している事がわかる。順風の場合に一更 (約2時間)用の線香の燃え尽きるまでの間にを航行する距離を「一更」とし約60里 (約33km) とみなしているようである。・・・この定義だと「十更」は約330kmになるが、この場合の「十更」とされている距離は実際には福建省福州郊外の梅花鎮から台湾本島北部沖の鶏籠(現・基隆)沖までの約220km、鶏籠(現・基隆)沖から釣魚嶼沖まで標準的航路では彭佳嶼の西側を経由するので約200kmなので、相当なドンブリ勘定で誤差が非常に大きい事に留意すべきである。

 

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(注6)  クジラの潮吹きで大音量が出る場合もある。下記のyoutube動画参照。

https://youtu.be/eHh7dXbr4rA?t=16

 

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(注7)  クジラと衝突して帆船が沈没した事例やシャチに襲われた事例 (水族館の飼育員のケースと砂浜の子供のケース) が現実にある事が映像記録で証明されている。

 

ニュースキャスターの辛坊治郎氏のヨットに備え付けられたビデオカメラの映像からマッコウクジラとの衝突で沈没した事が映像記録から判明した。( nicovideoのANN NEWSの転載参照 )

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21203369

この場合は、辛坊治郎氏のヨットがクジラに衝突しているのだが、辛坊治郎氏は被害者意識を持っているようであり、16世紀の漁民もクジラと衝突すれば被害者意識を持ち「害人」という表現をした可能性がある。

 

シャチに襲われる事例 (水族館の飼育員のケースと砂浜の少年のケース)の動画

https://www.youtube.com/watch?v=oEZSGIVHm3w

 

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(注8) 大友信一・刘震宇 (1983) : 岡山大学紀要・1983年12月・vol.4;  p.250-236 (横書き・縦書き混在のためページの表示が逆になっている事に注意、縦書きページ表示では84頁から97頁) 参照。下に、その「或自梅花東山麓鶏籠上開釣魚目」の段落部分を示す。

 

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(注9) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 石澤兵吾 『久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書』 ] 参照。明治になって釣魚嶼の領有を勧めた元・琉球王国役人で釣魚嶼を間近で見た大城永保が魚釣島 (釣魚嶼) について沿海は鮫鱶其他の鱗族最も多し。」旨を述べていた事がわかる。

 

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(注10) 田中邦貴氏のホームページ [ 尖閣諸島問題 ] の [ 古賀辰四郎ヘ藍綬褒章下賜ノ件 ] 中の古賀辰四郎の経営の大要参照。古賀氏は(サメを獲って)「鱶鰭(ふかひれ)」を造っていたのがわかる。

 

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(注11) 片山晴賢 (1996年3月). 『「日本一鑑」の基礎的研究 其之一  駒澤大学学術機関リポジトリ参照。

 

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(注12-1) 冊封使・齊鯤は歌集 『東瀛百詠』中の『航海八咏』の「釣魚臺」で「釣鼇人已往」としている。

↑の画像をクリックすると拡大画像が見れます。

 

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(注12-2) Sir Edward Belcher 著・『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, during the years 1843-46』(1848年刊・archive.org)の原著p.318に、次のように書かれている。

https://archive.org/details/narrativeofvoyag01belciala

There were no traces of inhabitants or visitors ;

>indeed, the soil was insufficient for the maintenance of half a dozen individuals.

 

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