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 中国が重要な冊封使航路の小島を放棄したとは考えにくい

 

    尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) 日本領論者は、せっせと明朝・清朝中国に尖閣諸島に対する領有意思がなかったと主張している。しかし、それは常識に反する。

 

   もし仮に尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) に危険な未開部族が住んでいたなら中国も領有放棄した可能性が高い。なぜなら、康熙帝時代には首狩りの風習を改めない原住民の居住地である台湾本島中央山岳地帯・東岸地帯及び文明国の船が漂着すると物品を強奪し船員を奴隷にする悪習のあった「紅頭嶼」 (蘭嶼) を版図に入れない事が同時代の記録である黄叔璥著『台海使槎録』に明記されていたからである。(別記事・[ 『台海使槎録』は版図に入れない島を明示 ] 参照。)

   それは、もし、危険な未開部族が住んでいる島や地域を領有していて他国の船が付近で遭難して漂着し、船員・乗客が殺害されたり奴隷にされたりすれば責任を問われるからである。実際、1871年(明治4年)、宮古島島民の乗った船が台湾本島南部の首狩りの風習のあるパイワン族の居住地である牡丹社に漂着し宮古島島民54名が殺害された事件 (注1) で清朝中国は多額の賠償金を遺族に支払わされた。(これは『』第五巻に「鳳山縣・・・・・雍正二年,歸化生番一十八社・・・・・新蟯牡丹社」とあるので康熙帝の死後に誤って首狩りの悪習の残る牡丹社を十分に吟味せずに清朝中国領の鳳山縣に編入してしまったためと考えられる。)

   しかし、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) の場合、明朝時代の鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」中の記述によれば、釣魚嶼 (魚釣島) に漢人と思われる漁民が住んでいたと考えられるが (別記事・[ 鄭舜功著『日本一鑑』は釣魚嶼に中国人居住し官憲の巡視があった事を示す ] 参照)、台湾原住民が住んでいたと推察される記録はない。万が一、もし仮に、鄭舜功著『日本一鑑』の後の清朝中国時代に、釣魚嶼 (魚釣島) に漢人漁民に代わって台湾原住民の漁民が住んでいた時期があったとしても、場所的に釣魚嶼 (魚釣島) には、冊封使の航路と同様に「鶏籠嶼 (基隆嶼) →花瓶嶼→彭佳嶼→釣魚嶼 (魚釣島)  」と来たはずで、台湾原住民の漁民でも鶏籠港 (基隆港) 周辺のケタガラン族 (注2) しか考えられない。台湾本島の原住民の全てが過去には多かれ少なかれ「首狩り」の風習を持っていたと考えられるが、首狩りを盛んに行っていたのは狩猟系の原住民であって、農耕・漁労系の原住民はあまり首狩りをしてなかったし、鶏籠港周辺のケタガラン族は過去に鶏籠港を統治したスペインやオランダによって早くから文明化され早くから首狩りを止めていたと考えられる。

   それゆえ、明朝・清朝中国が尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) を領有放棄したとは考えにくい。

   逆に、冊封使航路上の尖閣諸島 (冊封使航路列島北部)は中国から琉球王国への高価な下賜品を満載した冊封使船や進貢船 (朝貢船) が航路の目標にしており、海賊や外国が望楼を造ったり泊地にしたりすれば冊封使船や進貢船 (朝貢船) が襲われる危険があるため、中国は、もし仮に、尖閣諸島 (冊封使航路列島北部)に海賊や外国が望楼を造ったり泊地にしたりすれば排除しようとしたはずである。つまり、明朝・清朝中国は外国に尖閣諸島 (冊封使航路列島北部) が領有されるのを防止するため、明朝・清朝中国は領有せねばならない動機があったのである。


目次

2016年11月14日

浅見真規 vhu2bqf1_ma@yahoo.co.jp


(注1) wikipedia「台湾出兵」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾出兵

 

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(注2) wikipedia「ケタガラン族」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ケタガラン族

 

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