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 最古の記録で琉球王国派遣船員の操船でも中国による発見

 

 

   1534年の冊封副使であった陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』中の「使事紀略」には、明朝皇帝から琉球王国に行って冊封するように命じられた冊封使・陳侃が琉球王国への航路の経験のある中国人船員がいなかった (注1) ので琉球王国への航行に不安に感じていたところ、琉球王国の次期国王 (冊封前なので名目上は未即位だが琉球王国の君主) が琉球王国への航路を操船・水先案内する船員を派遣してくれたので喜んだ事が記されている (注2-1) (注2-2) 。そして、琉球王国から派遣された船員の操船・水先案内によって冊封使船が中国本土・福建省から琉球王国に航行し、その途中で航路目標として釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島を含む冊封使航路の列島が登場する (注3-1)  (注3-2) 。この記述が釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島を含む冊封使航路の列島の現存する最古の記録である (注4)

   この事を以って、日本領論を唱える専門家はあたかも釣魚嶼 (魚釣島) 等の尖閣諸島を発見したのは琉球王国であるかのごとく主張している。たしかに、陳侃 著・『使琉球録』中で琉球王国への航海についての記載のある「使事紀略」だけを読めば、明朝中国人は琉球王国への航路を琉球王国の船員に教わったような印象を受ける。実際、冊封使・陳侃が琉球王国に行った1534年から22年後の1556年に明朝中国から日本に行った鄭舜功はその著書『日本一鑑』中の「萬里長歌」において冊封使・陳侃が航路を教わったと記している (注5) 。(ただし、鄭舜功は広東省出身の民間人だったのが日本への使者に抜擢されただけなので高級官僚だった陳侃とは面識がなかったはずで、陳侃 著・『使琉球録』中の「使事紀略」を読んだ印象を記述したものと思われる。)

   しかし、陳侃 著・『使琉球録』を最後まで読めば、「陳侃等謹題為周咨訪以備採擇事」部分には琉球王国への航路がわからなくなった原因について書かれており、過去の琉球王国に赴いた冊封使の記録が (中央官庁の役所である) 「礼部」では焼失し、琉球王国への出航地である福建省の「福建布政司」では風雨で傷んでしまっていたのが原因だとわかる (注6-1) (注6-2) 。民間船の交易を禁じていた明朝中国では冊封使船以外では密貿易船や海賊船しか琉球王国に渡航しておらず、1534年の冊封副使であった陳侃の前の冊封使の出航は55年も前の1479年で当時の船員は引退し、ほとんど死亡していたはずなので、航海の記録が滅失していれば航路がわからなくなって当然なのである。

   そもそも、実は陳侃の冊封より162年も前に明王朝の初代皇帝が琉球三王国 (注7) に朝貢を促す招諭使の楊載を使者として琉球三王国に派遣しているのである (注8) (注9) 。おそらく、招諭使の楊載は沖縄本島だけでなく台湾や宮古島・石垣島等にも朝貢に応じそうな王や酋長 (朝貢に応じれば、「王」の称号とそれなりの衣服や調度品を与えて「国王」としたであろう) を探し回ったはずである。 それゆえ、既に明朝初期には釣魚嶼等の存在だけでなく、台湾北部の鶏籠沖の鶏籠嶼から大陸棚の辺縁に沿って北東に赤尾嶼に延びる冊封使の航路も開拓していた可能性が高い。南方の貧民出身の明朝初代皇帝が権威付けのため近隣国家に朝貢を促しただけでなく明朝第三代皇帝の時代には朝貢国を求めて鄭和艦隊 (注10) をアフリカ東部にまで派遣したくらいだからである。少なくとも琉球三王国への航路はわかっていた事は明白である。 尚、沖縄本島や久米島や八重山諸島で中国銭が出土しており明朝成立前から中国の民間船が沖縄各地に交易に出向いていたと考えられ、明王朝成立前から中国民間交易船が釣魚嶼を発見していた可能性が高い (別記事・[ 沖縄県下の遺跡からの中国銭出土は中国民間交易船による釣魚島発見を示唆する ] 参照) 。

   尖閣諸島の記載のある現存最古の記録である1534年の冊封副使であった陳侃 (ちんかん) の著書の『使琉球録』に、たとえ琉球王国派遣船員による冊封使船の操船が記録されていても、明朝中国の公船の航海の記録として中国の公文書に記載されているので、国家としての「発見」の現存最古の記録である。また、もし仮に焼失してなければ、おそらく更に古い純粋な中国人船員のみの航行記録にも尖閣諸島の記録があった可能性が高いのである。

   万が一、もし仮に琉球王国が尖閣諸島を中国より先に発見したとしても、国際法上の発見は中国に帰属する。なぜなら、国際法上の島の「発見」とは文明国の公船によって発見されるか民間船による発見を国家が追認するだけでは不十分で記録されねばならず、残存する最古の記録は明朝中国の1534年の冊封副使であった陳侃の著書の『使琉球録』だからである。しかも、パルマス島事件仲裁判決はオランダに冊封されたパルマス島近隣の島の原住民の大酋長によるパルマス島の実効支配をオランダによる実効支配と認めており、その論理から、(明朝や清朝が琉球王国の領土として認めた「琉球三十六島」以外は) その発見の効果は中国に帰属するのである。更に、たとえ琉球王国派遣船員が明朝中国の公船である冊封船を操船しても中国による発見なのである。しかも、明王朝の初期には琉球三王国が中国に朝貢できるように (判明してるだけでも) 30隻 (注11) もの進貢船 (朝貢船) を供与し航海技術のある中国人船員を琉球王国に派遣したのである (別記事・[ 明朝中国は琉球王国に船と航海技術者を与えた ] 参照) 。彼等や彼等の子孫が琉球王国の船員の幹部になったのである。そして、明王朝・第12代皇帝世宗が嘉靖二十六年 十二月辛亥 (西暦1548年1月14日) に琉球王国に派遣された閩人 (中国福建省人) の子孫の二重国籍を禁じる (注12-1) (注12-2) までは琉球王国に派遣された閩人 (中国福建省人) の子孫は二重国籍で中国籍も保有していたのである。


目次

2017年2月9日

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(注1) 冊封使・陳侃の前の冊封は55年も前だったため前回の冊封船の船員は全員引退しており、また、明王朝は「海禁」政策 (wikipedia「海禁」参照) を採り民間船による貿易を禁じていたため、中国の船で密貿易船・海賊船以外は琉球王国に行けなかったため、陳侃の琉球王国への渡航時には密貿易船・海賊船船員以外の中国船の船員で琉球航路経験者はいなかったと考えられる。

 

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(注2-1)  wikiksorce・『使琉球錄 (陳侃)』・「使事紀畧」参照。

https://zh.wikisource.org/zh-hant/使琉球錄_(陳侃)#.E4.BD.BF.E4.BA.8B.E7.B4.80.E7.95.A7

>是月,琉球國進貢船至,予等聞之喜,閩人不諳海道,方切憂之,喜其來,得詢其詳。

>翼日,又報琉球國船至,乃世子遣長史蔡廷美來迓予等,則又喜其不必詢諸貢者而有爲之前驅者矣。

>長史進見,道世子遣問外,又道世子亦慮閩人不善操舟,遣看針通事一員,

>率夷稍善駕舟者三十人代爲之役,則又喜其不必籍諸前驅而有同舟共濟者矣。

 

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(注2-2) 原田禹雄 著『尖閣諸島』・榕樹書林・2006年1月17日発行・p.29・30参照。

 

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(注3) wikiksorce・『使琉球錄 (陳侃)』・「使事紀畧」参照。

https://zh.wikisource.org/zh-hant/使琉球錄_(陳侃)#.E4.BD.BF.E4.BA.8B.E7.B4.80.E7.95.A7

>九日,隱隱見一小山,乃小琉球也。

>十日,南風甚迅,舟行如飛,然順流而下,亦不甚動。

>過平嘉山,過釣魚嶼,通黃毛嶼,過赤嶼,目不暇接,一晝夜兼三日之路。

>夷舟帆小,不能及,相失在後。十一日夕,見古米山,乃屬琉球者,夷人鼓舞於舟,喜達於家。

 

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(注3-2)  原田禹雄 著『尖閣諸島』・榕樹書林・2006年1月17日発行・p.30参照。

 

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(注4) 中国人の専門家の中には20世紀に英国・オックスフォード大学図書館で中国人学者・向達 氏によって発見された明朝中国の水路誌『順風相送』に釣魚嶼が記載されている事から『順風相送』の方が冊封副使であった1534年の陳侃の著書の『使琉球録』より古いと主張する者がいるが、たとえ初版本が明朝初期の出版であっても1534年以降に改定されたと考えざるを得ない箇所の存在の指摘がされており、オックスフォード大学図書館の『順風相送』はオックスフォード大学校長に送られた1639年以前の書籍である以上は証明できず、また、明朝初期の『順風相送』の初版本に釣魚嶼の記載があったか否かは証明できない。

 

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(注5)  鄭舜功著『日本一鑑』の「萬里長歌」には以下のように書かれている。

 

>昔陳給事出使琉球時従其従人得此方程也

 

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(注6-1) wikisource「使琉球錄 (陳侃)」中の「陳侃等謹題為周咨訪以備採擇事」参照。

https://zh.wikisource.org/zh-hant/使琉球錄_(陳侃)#.E9.99.B3.E4.BE.83.E7.AD.89.E8.AC.B9.E9.A1.8C.E7.82.BA.E5.91.A8.E5.92.A8.E8.A8.AA.E4.BB.A5.E5.82.99.E6.8E.A1.E6.93.87.E4.BA.8B

>切念臣等奉命往琉球國封王,行禮既畢,因待風坐三閲月而後行,無所事事,因得訪其山川、風俗、人物、起居之詳,杜撰數言,遂成一録。

>「録」之意,大略有二。臣等初被命時,禮部査封琉球國舊案因曾遭回祿之變,燒毀無存‥其頒賜儀物等項,請査於內府各監局而後明。

>福建布政司亦有年久卷案爲風雨毀傷,其造船並過海事宜,皆訪於耆民之家得之。

>至於往來之海道,交祭之禮儀,皆無從詢問‥特令人至前使臣家詢其所以,亦各凋喪而不之知。

>後海道往來,皆頼夷人爲之用。其禮儀曲折,臣等臨事斟酌,期於不辱而已。

>因恐後之奉使者亦如今日,著爲此録,使之有徴而無懼‥此「紀略」

 

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(注6-2) 『陳侃 使琉球録』・原田禹雄 訳注・榕樹書林 (1995年6月4日発行) p.123・124 参照。

 

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(注7)  当初は沖縄本島に北山・中山・南山という三つの小王国があった。

wikipedia「三山時代」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三山時代

 

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(注8) wikisorce・「明史」(卷323)参照。

https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷323

>琉球居東南大海中,自古不通中國。元世祖遣官招諭之,不能達。

>洪武初,其國有三王,曰中山,曰山南,曰山北,皆以尚為姓,而中山最強。

>五年正月命行人楊載以即位建元詔告其國,其中山王察度遣弟泰期等隨載入朝,貢方物。

 

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(注9) wikipedia「察度」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/察度

>1372年、明から楊載を招諭使として琉球に送られ、それに応じ、弟の泰期を朝貢の使者として送り、表を奉り臣を称し、貢物を献上している。

 

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(注10) wikipedia「鄭和」参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/鄭和

 

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(注11) 小葉田淳 著・『中世南島通交貿易史の研究』・刀江書院・昭和43年9月30日発行・(日本評論社・昭和17年発行の復刻版)・p.169 参照。

 

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(注12-1)  いしゐのぞむ 著『尖閣反駁マニュアル百題』 (集広社・平成26年6月7日) p.293-294 参照。

 

>三十六姓は皇帝から琉球國に下賜されて琉球人となった以上、明國では戸籍財産 (主に不動産) を持ってはならないと、皇帝自身がわざわざ述べた記録である。

 

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(注12-2) 大明世宗肅皇帝實錄卷三百三十一 (嘉靖二十六年十二月辛亥) ・

(中國哲學書電子化計劃) 参照。

http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=942082

>上曰陳賦無罪給賞如例蔡廷會交結朝臣法當重治念屬貢使姑革賞示罰蔡璟既永樂中從夷何得於中國置產立籍

 

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